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1 誓い ⑦

 自室で護衛官のお仕着せを脱ぐ。

 昨日からずっとこれを着たままだったので、すっかりよれよれだ。

 形を整えてハンガーにかけたが、これは明日、洗濯に出した方がよさそうだ。

 長靴(ちょうか)を脱いで部屋履きに履き替えるとほっとした。

 顔と身体を軽くぬぐい、寝間着に着替えると上掛けをかつぎ、アイオールの寝室へ戻る。


 部屋の主はうとうとしている。顔色はそう悪くない。

 ずっと部屋に詰めていたお袋と年増の侍女、サーティン先生に休んでくれと伝える。

 お袋たちはそれぞれの部屋へ帰り、サーティン先生は寝室の隣のある控えの間で待機することになった。

 誰もが疲れた顔をしていたが、アイオールに回復の兆しが見えてきたので表情は明るい。


 クッションを枕に長椅子に横たわり、上掛けをかぶる。

 当然窮屈で寝心地は悪かったが、疲れていたからか、あっという間に俺は眠り込んでいた。



 どのくらいたったのかわからないが、唸り声のようなものが聞こえてきて目が覚めた。

 慌てて半身を起こすと、声は寝台の方から聞こえてくる。

 寄って覗き込むと、うつぶせ状態のアイオールが敷布を握りしめるようにして苦悶している。


「おい……」


 ためらいながらも声をかけると、アイオールは目を開けてビクッと首を上げた。

 呼吸が荒く、瞳が落ち着きなく揺れていた。


「おい、どうしたんだ?苦しいのか?」


 問うと、アイオールは鋭く俺を見上げた。

 しばらくおびえたように俺を凝視していたが、不意に身体から力が抜け、枕にぐったりと頭を乗せた。


「マーノ……マーノだったんだ」


 ため息まじりにそう言うヤツの額には、じっとりと汗がにじんでいた。


「サーティン先生を呼ぼうか?」


 しかしアイオールは首を振った。


「いや……いい。大丈夫だ、変な夢を見ただけだから」


 そう言ってアイオールは、疲れたように再び目を閉じた。

 俺は乱れた上掛けを直してやり、長椅子へ戻った。

 やりきれなくて、なんだか目が冴えてしまった。



 翌朝になると、さすがにアイオールの微熱も下がってきた。

 脱臼の炎症も落ち着いてきた様子だ。

 身体は確実に回復してきている。


 今日はカタリーナ王妃までもがセイイール殿下と一緒にお見舞いに来られた。

 王妃は確かにアイオールの義理の母君だし、特にレーンの方が亡くなって以来、アイオールが不憫になったのかなにくれと気にかけて下さっている。


 アイオールも王妃のたたずまいに『母』を偲ぶのだろう、今なお美しい王妃を敬愛し、密かに崇拝している節さえ見える。

 王妃はアイオールの顔を見た程度でお帰りになられたが、お見舞いの言葉の途中でこらえきれなくなったように落涙されたのには、我々だけでなく一緒に来たセイイールも驚いていた。


「ごめんなさい、泣いたりして」


 涙をぬぐって笑みを作り、王妃は謝った。


「とにかく身体を治すことが一番ですから、大事にして下さいね」


 お心遣いに感謝致します、と、アイオールは茫然と答えていた。



 王妃とセイイールが帰った後、寝台に横たわったままアイオールは、遠くを凝視するような目でかなりの間、何かを黙って考えていた。



 その夜更けのことだ。

 俺は今夜もアイオールの寝室の長椅子で寝ていた。

 特に頼まれはしなかったがその方がいいような気がしたし、アイオールにも自分の部屋へ帰れと言われなかった。


 食は、少ないながらも進むようになったし、傷のかさぶたも乾いてきた様子だ。

 特に頬の細かい擦り傷のかさぶたは完全に乾き、新しい皮膚に押されて半分ほど取れかけていた。

 だが、傷が治るのと引き換えるように、表情の陰りが濃くなっているような感じがして、俺は内心気になっていた。


 唸るような声に再び起こされた。飛び起き、ランタンの灯りを頼りに寝台へ寄る。

 アイオールは昨夜と同じようにうつぶせで、敷布を握りしめて苦悶していた。

 キリキリと、奥歯を噛みしめているらしいかすかな音も響いてくる。


「おい……」


 声をかけ、ややためらったが、思い切って肩に手をかけて軽くゆすった。

 弾かれたような勢いでアイオールは半身を起こした。

 こちらを見る目には、ライオナール殿下を見上げた時のような深い混乱の色があった。


「来るな……触るな」


 うわ言のようにつぶやくと、じりじりと後退る。


「触るな、殺せ、いっそ殺せ!」


 悲鳴のような叫び声に、何事かとサーティン先生が飛んでくる。


「殺せ、殺せ!」


「アイオール!」


 俺も負けじと声を張る。


「アイオール、しっかりしろ、俺だ、マーノだ」


 正気を失いかけている主の目をしっかりと見て、俺は繰り返す。


「マーノだ、マイノール・タイスンだ!お前の乳兄弟のマーノだ!」


 ふっ、と、アイオールの目の焦点があった。


「あ……」


 気の抜けたような声を上げ、ゆっくりと寝台の上にくずおれた。


「マーノ……マーノだったのか」


 つぶやき、大きく息をつくアイオールは、ぐっしょりと寝汗をかいていた。



 騒ぎを聞きつけ、そばの部屋で待機していたお袋や侍女たち、サーティン先生と俺で、アイオールの傷の手当と着替えをする。


 ひどい寝汗のせいで包帯も重く湿り、よれている。包帯や、傷を押さえているガーゼが外された。

 青黒い内出血の内側にある、乾ききっていない幾つもの傷。

 黄色い膿がところどころに浮いた、赤黒い、湿り気の残るかさぶた。

 背中が特にひどかった。

 改めて見て、俺はぎょっとした。

 こんなにひどかったのかと正直驚いた。痛々しくて正視に耐えない。

 俺は唇をかみ、ただ黙々と手当と着替えを手伝った。


 白湯が欲しいと言われたので用意する。

 問われる前に自分から何かが欲しいとアイオールが言ったのは、あれ以来初めてだ。

 お袋の顔が目に見えて明るくなった。



 ゆっくり白湯を飲んだ後、アイオールは再びうつ伏せで横になった。


「世話をかけてすまない」


 誰にともなくそう言うと、アイオールは少しだけ笑ってみせた。


「もう休んでくれ、大丈夫だから。あ……」


 思い付いたように、アイオールは俺を見た。


「すまないけど、マーノ。寝るまで話し相手になってくれないかな」


 俺は他の者たちと顔を見合わせ、目顔で下がってもらうようにした。


「わかった」


 諾い、俺は寝台のそばの椅子に座った。


 皆が下がるとアイオールは、ひとつ、大きく息をついた。

 俺を見上げ、言いよどむように眉を寄せた。


「どうした?」


 あえて軽く問うと、アイオールは観念したようにちょっと笑った。


「馬鹿馬鹿しい話なんだけど……」


「なんだよ、話してみろよ」


 促すと、アイオールは目を伏せた。


「夢の……話なんだ、とっても馬鹿馬鹿しい。だけどすごく恐ろしい夢だ。何度も何度も繰り返し見ていて……時々、起きている今の方が夢なんじゃないかと思うくらい、真に迫った夢なんだ」


 ため息をついた後、アイオールは不意に俺を見上げた。

 やや上目遣いの菫の瞳は、病的なほど真っ直ぐに俺を射抜いた。


「私は……裂かれるんだ、夢の中で」


 言葉の意味を把握するのに少しかかった。


「顔のわからない数人の大男が私の両脚をつかんで、容赦なく思い切り引っ張るんだ。私は目隠しをされていて悲鳴も上げられず、吊るされた鹿の子か何かのようにさばかれるんだ。目隠しをされているのに何故か、私の臓腑が湯気を立てて草の上に投げ出されるのがわかる。辺り一面に血のにおいが充満していて、ひどく気分が悪くなる。男たちはゲラゲラ笑いながら私の臓腑をむさぼり食らう。ペチャペチャという咀嚼音に、気が狂いそうになるんだけれど……不思議と痛みらしい痛みはない。ただ、一切の臓腑がなくなった身体の内側に風がしみて、寒くてたまらないんだ……」


 夢とはいえあまりにもすさまじい状況に、俺は言葉を失くす。

 アイオールはいつの間にか、ぎゅっと目を閉じてがくがくと身体を震わせていた。

 奥歯を鳴らしながらも言葉を続ける。


「身体の内側に風がしみる、この言い様のない感覚がわかるか?……わかる訳ない、私だってこの夢を見るまで、そんなこと想像したことさえなかったんだから……」


 震えながらアイオールは、しばらくあえいでいた。

 俺は身じろぎひとつ出来ず、ただ黙っているしかなかった。


「だけど……」


 苦しそうな息の中から、アイオールは必死に言葉を絞り出す。

 目を開け、再び俺を真っ直ぐ見つめた。


「だけど本当にたまらないのはそれじゃない。そんな状況なのに、私は……死ねないんだ!」


 アイオールの菫色の瞳が危うい感じで揺らぐ。


「死ねないんだ、身体の中は空っぽなのに。腕も脚もバラバラにされて、草の上に投げ出されているのに!私の哀れな首は目隠しされたまま、木の枝か何かに吊るされているんだ、なんにも出来ないまま。なんにも……死ぬことも出来ない……」


「……アイオール」


 俺は茫然と名を呼ぶ。


「マーノ」


 不意に左腕でいざるように近付いてくると、アイオールは俺の腕をつかむ。爪がめり込むようなつかみ方だった。


「頼みが、ある」


「……なんだ?」


 あえぎながら俺を見ていたアイオールが、不意に笑んだ。


「私を、殺してくれ」



 絶句する俺の腕を、アイオールはさらに力を込めてつかむ。

 鼻先にふっと、消毒薬の奥にくぐもる膿のまじった血のにおいがただよってきた。


「私はすでに死んでいるんだ、臓腑を食らい尽くされたんだ。すでに虚ろだ、生きている方がおかしい。頼む、殺してくれ」


「……出来ない」


 つぶやくようにそう答えると、アイオールの瞳にまぎれもない狂気が点った。


「何故だ、これは命令だぞ」


「出来る訳ないだろう、俺はお前の護衛官だ、お前の命を守るのが俺の務めなんだぞ!」


「その私が殺せと言ってるんだ」


「出来ない!」


(あるじ)の命令がきけないのか!」


「その命令だけはきけない!」



 俺たちはしばらく、無言でにらみ合った。

 先に目をそらしたのはアイオールだった。

 積み木が崩れるように身体から力が抜け、くずおれるように寝台へ横たわるとため息をついた。


「……すまない、無理を言った。もういい、忘れておくれ」



 翌朝。

 あれからアイオールはうなされなかったが、しっかり眠れている様子でもなかった。

 考えごとの合間にうとうとしている、そんな感じだった。


 何故知ってるかと言うと、こちらも同じようなものだったからだ。

 それでも俺は夜明けとともに起き出し、外へ顔を洗いに行く。


 さすがに朝の空気がずいぶんと冷えるようになってきた。

 裏手の泉で水を汲む。汲みたての水はいっそう冷たい。

 思い切ってざぶざぶと、その水で顔をこする。

 眠気は飛んだが、少し頭が痛い。

 ここ最近の寝不足のせいかもしれない。

 踏みしめる足元も、なんとなくふわふわしている。

 もし今刺客に襲われたら、俺はひとたまりもないだろう。


「……それがどうした」


 やや投げやりにそうひとりごちる。

 荒れてるな、と、他人事のように俺は心の隅で思った。



 身支度を整えて主の寝室へ戻る。くたびれ果てたような顔で、主は静かに眠っていた。


 しばらくして目覚めたアイオールは、それなりに食事も摂ったし必要な指示や簡単なねぎらいも従者たちへ言ったが、どことなく心ここにあらず、という雰囲気だった。

 どこか遠くの音を一心に聞き取ろうとしているような表情をして、半ば上の空で皆とやり取りしているようだった。

 食事を済ませ、治療も一段落つき、新しい敷布に変えた寝台にアイオールは戻って横たわる。


 突然ヤツは、ふっ、と、鼻息だけで笑った。

 遠くを見据えている菫色の瞳は冷たい。

 頬に残るかさぶたが、元々怜悧に整った白い顔に狂気を添える。

 ぞっと背が冷えた。



 午後になってセイイール殿下が見舞いに来た。


 兄君の(おとな)いに、何を思ったのかアイオールは起き出した。

 安楽椅子を持ってこさせ、薄手のガウンを羽織ると寝台から降りた。

 少しふらつていたが、自分で歩いて椅子に座った。


「お客様へお茶の用意を。あの方とゆっくり話をしたいから、セイイール殿下がこの部屋へ来られたら、皆しばらく下がっていてくれ。用があったらこちらから呼ぶ。……マーノ」


 アイオールは俺を見た。


「お前も、だ。実は少しばかり、身内の恥になりそうな話へ向かう可能性があるからね。知らない方がお前の為だから、席を外しておいておくれ」


 一瞬息を詰め、俺は、黙って頭を下げて部屋を出て扉の前に立つ。

胸の内が冷え冷えとした。


(俺も……人払いの対象か)


 こんな他人行儀な扱いは初めてだ。



 セイイールが来て寝室にこもり、小一時間ばかり経った。

 当然何を話していたのかわからなかったが、出てきたセイイールの目が赤かったのには驚いた。


「途中まで送ってくれないか、マーノ」


 赤い目が恥ずかしいのか、照れくさそうに笑ってセイイールは言う。御心のままに、と、俺は諾った。


 廊下を歩きながらセイイールはさりげなく、


「アイオールは夜、きちんと眠れているのか?」


 と問う。思わず一瞬言葉に詰まると、


「でもない。か?」


 と、その一瞬でほぼすべてをセイイールは察する。

 歩く速度すら乱れない。俺は諦めた気分で少し話す。


「いえ、まったく眠れていらっしゃらないとは。ただ、よくうなされていらっしゃいます。昨夜もあまりお苦しそうにうなされていらっしゃるので、そばで待機していた私がお声をかけさせていただきました。……その。事件、の、夢、を見てしまわれるようですね」


 セイイールは急に立ち止まった。


「そう……か」


 うつむき、彼は深いため息をついた。


「辛いな。アイオールももちろん辛いが……」


 目を上げ、彼は痛ましそうに俺を見る。


「そばにいるお前たちもさぞ辛かろう。やりきれないな」


 思いがけないいたわりの言葉に、俺は絶句した。


「辛かろうが、アイオールを支えてやっておくれ。今ほどあれにとってお前たちの支えが必要な時はない。アイオールの兄であり、友でもある私からの、これは心からのお願いだ」


 胸が詰まって目頭が熱くなるのをごまかすように、俺は深く頭を下げる。


「もったいない、お言葉です」



 簡素な二頭立ての馬車で帰るセイイールを見送りながら、俺は重いため息をついた。


(セイイール殿下はああ言うが……)


 実際のところアイオールに、俺たち、否、俺の支えなど必要ないのではなかろうか?

 重い足を引きずるようにして、俺は主の寝室へと戻った。 

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