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1 誓い ⑤

 念入りに身支度を済ませ、睡蓮宮を出る。


 すでに日は高い。

 あちらに先触れを出し、セイイール殿下へ直接主の伝言をお伝えしたい旨を通す。

 俺は昔からアイオールの側付きとしてあちらへ同行してきた、特に不審には思われない筈だ。



 しばらくしてアイオールは目を覚ましたが、話しかけてもまったく返事をしなかった。

 虚ろな遠い目を、あらぬ彼方へ据えたままじっとしている。


 侍医のサーティン先生の指示で湯冷ましやスープの上澄み、パンの柔らかい部分をちぎったものなどが用意された。

 傷の手当の合間にアイオールへ勧めてみたが、反応らしい反応はない。

 かろうじて湯冷ましだけは少し飲んだが、他のものは口許へ持っていっても眉をしかめ、首を振る。

 支えられていても身体を起こしているのが辛いらしく、すぐ額に脂汗がにじんで息が乱れてくるので、傷の手当てが済むと再び寝台へ横たえた。

 背中側の傷が一番範囲が広くてひどいので、あお向けではなくうつ伏せに寝かせる。


(アイオール……)


 魂が抜けてしまったような主の顔を、俺は茫然と見つめる。

 左頬を下にした状態で横向きにした顔には、生気も感情もない。


 突然、目頭からつうっと一筋、涙が流れ出て枕を濡らした。

 声も出さずに泣くアイオールを正視出来ず、俺は思わず目をそらした。


(逃げるな、マーノ!)


 自分をどやしつけ、きつく奥歯を噛んでそらした目を戻す。

 枕元に置かれている予備のガーゼを、どうしても震えてしまう手でひとつ取り、涙をそっとぬぐってやった。



 馬に乗り、春宮へ向かう。

 陽射しは黄色味がかっているが、空は高くすがすがしい。

 神山ラクレイの白い峰が、冴え冴えとしている。


 俺は深く息を吸う。

 ひんやりとした空気は落ち葉のにおいがした。

 いつもと変わらぬ秋の日の、秋の風のにおいだ。

 こうして馬に揺られて春宮へ向かっていると、昨日の夕刻からのあれこれが悪い夢のような気がしてくる。


(本当に……悪い夢なら良かったのに)


 思わず神山をにらむ。心の中で俺はつぶやく。


 創世神ラクレイアーンよ。

 この世のすべてはあなたの御心、今この時に悪いと見えるすべてのことは、良き理の前触れ……とか。

 これがどれほどの良き理に繋がるのか、私のような愚か者にはわかりません。

 どれほどの良き理の為に、アイオール・デュ・ラクレイノはあのような目にあったのでしょうか?

 時間を巻き戻し、アイオール・デュ・ラクレイノをあの禍事(まがごと)からお救い下さるのなら、私は命を差し出します。

 未来永劫生まれ変わることなく、神山ラクレイを支え続ける永遠(とわ)罪人(つみびと)にして下さってもかまいません。

 伏してお願い致します。

 なにとぞ……なにとぞアイオール・デュ・ラクレイノを、お救い下さいませ。


 ラクレイの白い峰へ向かい、俺は、生まれて初めてと言って良いくらい真剣に祈った。


 しかし祈りは聞き入れられなかった。

 白い神の峰は沈黙したまま、ただ超然とそびえていた。



 馬を降りて春宮の馬丁に託し、セイイール殿下がお住まいになる棟へ徒歩で向かう。

 (おとな)いを告げると、あまり待たされることなくセイイール殿下のいらっしゃる居間へ通された。

 先触れを出しておいたこともあり、すんなり通されたようだ。


「やあ、マイノール」


 長椅子でくつろぎながら本を読んでいたセイイール殿下が顔を上げる。

 もうすぐ十六歳、成人年齢に達する王子はしかし、相変わらず少女めいた美しいご容貌でいらっしゃる。

 流れるように真っ直ぐな銀色の髪に深みのある澄んだ青い瞳、細面の繊細なお顔立ちは、母君カタリーナ王妃に瓜二つ。

 『ラクレイドの銀の月』という麗しいふたつ名を、宮廷の吟遊詩人からささげられている。


 しかし、その儚げで優しい見た目に似合わぬ、恐ろしいばかりの慧眼の持ち主でもある。

 そこもおそらく母君に似たのだろう。

 腹の底の底まで見通されそうな気がして、俺は昔から、この方がちょっと苦手だ。


「すっかり護衛官らしくなったじゃないか。務めは順調なようだね」


 一瞬言葉が詰まったが、俺は笑みを作る。


「ありがとうございます。ですがまだまだ覚えることばかりで。順調とはとても……」


 語尾を濁して頭を下げ、主からの伝言をお伝えします、とやや強引に話を進める。


「障りが出来て、今日の講義を聴きに来れない?……そうか。残念だな。私としてはこの間の続き、あれこれ作戦を立てて楽しみにしていたのだがな」


 講義の後にこの二人は、お茶を飲みながら将棋を指すのが習慣だった。

 最近になってアイオールの将棋の腕が上がり、いい勝負をしているらしい。


 子供の頃から将棋が好きなセイイール殿下は、並みの者では太刀打ち出来ないくらい強いらしいのだが(俺は将棋がさっぱりなので、正直よくわからない)、だからこそ彼の相手が務まるほどの者は少ない、とか。

 アイオールが強くなり、本人以上に喜んでいるのはセイイール殿下だ。


「マイノール」


 セイイールの声に、俺は頭を下げたままこわばる。

 先ほどまでとは明らかに声音が違う。

 まだ本題の入り口にも入っていないのに、この王子は何かを覚った様子だ。


「お前……何を隠している?」


 俺は思わず非礼も忘れて顔を上げる。

 セイイールの青く鋭い双眸が、俺を射抜くように見ていた。


「ただの伝言に、アイオールの護衛官であるお前がわざわざ来て、直接私に面会を求めるなど少し不自然だなと思っていたのだよ。ひょっとして何か大切なことを、人づてでなく私に言わなくてはならない事情があるのではないのか?……話せ。念のため、トルーノ以外の者はそれとなく人払いしてある。それとも一口では言いにくいほど込み入った、大きな声では言えないような事なのか?」


 俺は絶句し、この恐ろしいほど聡い王子の、人形のように美しい顔を見た。


「セイイール殿下……」


 言葉を発した瞬間、涙が浮いてきて驚いた。

 あえぐように何度か息を呑み、俺は声を絞り出す。


「どうか……どうかアイオールさまをお救い下さいませ」


 そして睡蓮宮の者たちを。

 なにとぞ……お救い下さいませ。



 セイイールの行動は早かった。

 涙をぬぐい、しどろもどろになりながら俺が事情の片端を話した辺りでセイイールは、詳細はあちらで聞こうと制した。

 そして傍らの小卓から呼び鈴を取り上げ、側付きの者を呼んだ。


「急だが、今から出かける。用意をしておくれ。睡蓮宮のアイオールが落馬をしたらしい。ひどい大怪我ではないようだがあちこち傷めた様子だ、見舞いに行ってくるよ。ああ……タイスン護衛官にお茶を。我々と一緒にあちらへ戻るから、彼にはちょっと待ってもらわなくてはならないからね」


 それから二、三、彼は従者たちへ流れるように指示をし、俺がお茶に口をつけた頃には身支度がほぼ整っていた。

 トルーノと後は馬丁程度を数人連れ、セイイールは、俺が春宮の彼の居間を訪れて三十分ほどで馬上の人になっていた。


「……マーノ」


 ついと馬で寄ってくると、トルーノは鋭くささやいた。


「しゃんとしろ、ひどい顔だ。仮にも護衛官がそんな隙だらけのおびえたような顔をしていてどうする」


 俺ははっとし、知らず知らずのうちに丸まっていた背筋を伸ばす。


 春宮を抜けようとした辺りで思わぬ方と行き会った。

 純白の高襟の軍服に黄金の階級章、陸軍将軍・ライオナール王太子殿下だ。


 御年十八、剣術と馬術の上手さで聞こえた豪快なこの王子は、今年の秋に陸軍将軍になられたばかりだ。

 太陽の下で輝く黄金の髪、怜悧なはしばみ色の瞳はいかにもラクレイド王家の嫡男らしい。

 ただ、骨太で見上げるような立派な体格は、母方であるリュクサレイノの血を思わせた。


 かの方は我々に気付くと、文字通りあんぐりと口を開けた。


「セイイール?セイイールだよな?なんだ、珍しい。馬に乗ったお前など、私の記憶にある限りでは初めてだぞ。神山ラクレイが、まさか噴火するんじゃないだろうな?」


 不躾なまでの兄君の言葉に、セイイールは苦笑いする。


「おはようございます、兄上。ひどいですね、私だって馬くらい乗れますよ。遠乗りに出る自信はさすがにありませんけど」


 セイイールは幼い頃から腺病質で、十歳くらいまでは五日の内三日寝込んでいるような有様で、十日寝込まなければ皆が本気で喜んだものだ。

 最近でこそかなり丈夫になったとはいえ、月に一度はやはり寝込んでいる。

 だから剣術や馬術などはほんのさわりだけ、手解き程度にしか練習出来ていない筈だ。

 ライオナール殿下がこう言うのもわからなくはない。


「睡蓮宮の方へちょっと。アイオールがどうやら昨日、落馬をしたらしくて。見舞いがてら、少々からかいに行ってやろうかと思いましてね」


 笑いをまじえ、セイイールはそんなことを言う。

 兄君の後ろにいる秘書官たちを気にしているのだろう、わざと軽くそんな風に言う。ライオナールは目をむく。


「落馬?アイオールが?信じられんな、お前ならまだしも。あれはなかなか、昔から馬の扱いが上手だぞ」


「兄上、怒りますよ?まあ、あれにも油断があったのかもしれませんね、上手の手から水が漏るともいいますし」


 苦笑を深めながらそんなことを言い、では失礼しますとセイイールは進もうとした。


「待て、セイイール。なら私も一緒に行って、あいつをどやしつけてやろう」


 ライオナール殿下は弟君を呼び止め、笑いをまじえてそんなことを言う。

 しかし言葉とは裏腹に、目は笑っていなかった。


「それは……アイオールも喜ぶと言いましょうか迷惑すると言いましょうか。行ってやった方がいいはいいでしょうけど、兄上。お務めはどうなさるのですか?」


 やや呆れたような弟君の言葉へ、ライオナール殿下は鼻を鳴らす。


「そんなもの、何とでもなる。……クラーレン」


 秘書官を一瞥し、ライオナールは命じる。


「何とかしておけ。今日は特別急ぎの仕事はなかったはずだ」


 真面目そうな若い秘書官はやや青ざめながらも、御心のままにと答えた。



「いいのですか兄上。あまり秘書官をいじめないでやってくださいよ」


 秘書官たちと別れた兄君と睡蓮宮へ向かいながら、セイイールは軽く笑って兄のわがままをたしなめる。

 普段なら、人聞きの悪いことを言うなとかなんとかむきになって答えるであろうライオナール殿下だが、そうだなと妙に大人しく諾った。


「それはともかく、セイイール。お前、嘘をついているか、何かを隠しているだろう?」


 いきなり兄君から鋭く指摘され、さすがにセイイールは一瞬黙った。


「兄の目は節穴ではないぞ、セイイール。お前は昔から、嘘をつく時やごまかす時、笑いにまぎらせようとする癖がある。なかなか上手だが見る者が見ればわかる。気を付けろよ」


 慧眼恐れ入ります、と、セイイールは小声で答えた。

 そのまま二人の王子は、黙りがちに睡蓮宮へ向かった。



 王子二人がいきなり現れ、ただでさえ浮足立っていた睡蓮宮は混乱した。


「ああ、気を遣うな。我々はアイオールの見舞いに来ただけだ。すぐ帰るからかまわなくていい」


 うるさそうにそう言い捨て、奥へ向かおうとするライオナール殿下の前に、お許しください、主は体調を崩して臥せっております、などとロンさんたちが引き止める。

 うんざりとした顔でライオナールは足を止める。


「わからない奴らだな、臥せっているから見舞いに来たのだろうが」


「お気持ちは有り難いのですが、その、主に成り代わってその優しいお心にお礼申し上げますが、その……」


 しどろもどろになりながら引き止めようとするロンさんたちへ、俺は言った。


「殿下方は()()()()()()()()()()()()()のお見舞いに来られたのですよ、皆さん。アイオールさまへお伝えしてください。私は殿下方へ、今までの経緯を簡単にご説明いたします。応接間の方へ殿下方のお茶を用意して下さい」



 混乱しながらも彼等は動いてくれた。

 王子たちは応接間に落ち着き、茶菓が供された。

 といっても彼らは当然、そんなものを楽しむつもりはない。


「マーノ」


 笑みを作り、あえて俺を愛称の方で呼んでセイイールは促す。


「春宮でも少し聞いたが。昨日の夕刻、馬で散策に出かけたアイオールが戻ってこず、皆で探したところ薮の向こうで倒れて気を失っているアイオールを見つけた……とか。しかしそれだけにしてはお前たちの様子、只事ではないな。出来るだけ詳細に、私たちに話しておくれ」


 俺はひとつ大きく息をつき、出来るだけ感情をまじえずに話す決意する。


「アイオール殿下は夕食前のひととき、馬で睡蓮宮の敷地をのんびりと散策なさるのを習慣にしてらっしゃいます。その場合、いつもは私がお供を致しますが、昨日は新人武官の講習がありましたので、私は睡蓮宮におりませんでした。誰か他の者をお供にと宮の者たちはお勧めしたようですが、殿下は不要だと仰せられ、そのままお出かけになられたそうです」


 ふむ、と鼻を鳴らすように言い、ライオナールは腕を組んで背もたれに身を預ける。

 はしばみ色の彼の瞳にきつい光が加わった。


「しかしいつもの時間になってもアイオールさまはお戻りになられませんでした。皆が不審に思い始めた頃、主を乗せないでユキシロが厩舎へ戻ってきました。これは只事ではないと総出で殿下をお探し申し上げたのです。ちょうどその頃、私も睡蓮宮に戻って参りましたので捜索に加わりました」


 俺はひとつ、大きく息をつく。額に浮く汗をてのひらで軽くぬぐう。


「まもなく殿下をお見つけ出来たのですが、その時のご様子がその、只事ではない、有様で……」


「只事ではない、とはどういうことなのだ?奥歯に物でもはさまっているのか、マイノール。はっきり言え」


 やや苛立たしそうにライオナールが言う。

 俺はもうひとつ息をつき、言葉を押し出す。


「アイオールさまは……」


 不意に胃がせり上がってくるような気がした。

 唾を呑んで吐き気をこらえ、出来るだけ淡々と事実を述べる。


「私がアイオールさまをお見付した時、アイオールさまは気を失っていらっしゃいました。目隠しをされ、さるぐつわを噛まされ、後ろ手に縛られた状態でした。抵抗なさったからでしょう、右肩が脱臼し、むき出しの背中には馬の鞭でつけられたと思われる傷がいくつも……」


「マイノール!」


 ライオナールは吠え、立ち上がった。


「この大馬鹿者が!何故それを昨日のうちに近衛隊へ報告しない!」


「お待ちください、兄上」


 セイイールが青ざめた顔で兄を制した。


「マイノールは決して、保身や怠慢で上へ報告しなかったのではないでしょう。報告しなかったのではなく報告しにくい訳があった、そういうことですよ」


 聡いこの方はすでに、事のあらましをおおよそ察していらっしゃるのだろう。


「マーノ」


 セイイールは苦みのある笑みを作って俺へ問う。


「さっき『むき出しの背中』とか言っていたな?何故……むき出し、なのだ?アイオールの着衣はどうなっていた?」


「着衣?」


 ライオナールが怪訝な顔をするが、セイイールは兄を見ず、真っ直ぐ俺へ視線を向けていた。俺は一瞬唇を噛み、答える。


「着衣は……着ていらっしゃいませんでした」


 なに、とつぶやくライオナールへ、セイイールは青ざめた顔を向ける。


「つまりそういうことなのです、兄上。アイオールへの暴行は、単純な暴行ではなかった、と。だからマイノールにせよ誰にせよ、報告をためらったのですよ。公にするのはアイオールの為にもならない、そう判断される暴行だった。だからまずは私……成人前で出仕前の、立場の軽い私という兄を頼ったのでしょう、彼等は。私なら、最小限の者にしか知られずに事を運べるであろうという慮りでしょう」


 ライオナールはがっくりと長椅子に座り込んだ。 

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