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1 誓い ④

 それから半年ばかりは穏やかに過ぎた。


 セイイール殿下が秋の終わりに満十六歳になられるので、『学友』は夏前に解散されることになった。

 王子が十四から十六になる頃合いを見て『学友』は解散されるのが慣習(ならい)だから、時期的にはそんなものだろうが……あの件が関わっているのはまあ、間違えなかろう。


 しかし、それもそう悪くなかった。

 定期的に少年たちが集められなくなったので、噂も徐々に鎮まってきたようだし、元『学友』の少年の何人かが個人的に睡蓮宮へ遊びに来てくれるようにもなった。

 王子の元『学友』が王子を訪ねる場合は大抵、後々役立つ人脈の確保の為だろうが、彼等はどちらかと言うと個人的にアイオールと誼を持ちたい様子なのが俺は嬉しかった。

 特に、いつもクレイールの相手をさせられて苦労していたロクサーノの御曹司・グラノールは、損得勘定抜きでアイオールに親しみを持ったようだった。


 睡蓮宮の侍従長はロクサーノ所縁(ゆかり)の者だったから、元々少しは親しみがあったろう。

 が、例の一件でこの華奢で大人しそうな王子の意外な一面を知り、お坊ちゃんなりに『王子の漢気(おとこぎ)に惚れました』とでもいう気分なのだろう。

 十日に一度くらいは睡蓮宮へ遊びに来て、アイオールと剣で打ち合ったり読んだ本の感想を言い合ったりして、楽しく過ごすようになった。


 いかにも侍従をはじめとした高位の文官を数多く輩出してきた、ロクサーノの血筋らしい実直なグラノールは、アイオールと気が合った。

 やがて彼はアイオールから、『殿下ではなく名前で呼べ』と許された初めての臣下の少年になった。

 貴人から家名や尊称ではなく名前で呼ぶのを許されるのは、個人的な親しみと信頼の証だ。



 秋。

 俺はめでたく、正式に護衛官へ任じられた。


 支給された護衛官用の紺のお仕着せ。襟には銀の襟章。

 きちんと身に着けて鏡の前に立つ。

 照れくさいが感慨深い。

 まだ服に『着られている』雰囲気だが、そのうちきっと違和感がなくなるだろう。

 トルーノことクシュタン護衛官だって、去年の今頃はこんな感じだった。 


 初代ラクレイド王の盾が神山ラクレイの奥にそびえていた千年樫で作られたという逸話にちなみ、『王家の盾』たる近衛隊を現す襟章は昔から樫の葉の意匠が用いられる。

 並の近衛武官は青銅の襟章、そしてその中でも精鋭とされる貴人の身辺警護を務める護衛官は、銀。


 銀の襟章を憧れの目で見上げた子供の頃のことを思い出す。

 焦げ茶のお仕着せに青銅の襟章の並の武官たちとは明らかに違う、際立ったたたずまいの護衛官に憧れるようになったのは一体いつだろう?もはや思い出せないくらい前なのは確かだ。


 あの日の自分の憧れに足る、立派な護衛官に俺はなれるのだろうか、とふと思う。

 影のような不安が刹那、胸をかすめた。


 大きく息をつき、俺は鏡の中の自分へにやっと笑んだ。

 いや。なってみせる。なってみせるとも。



 護衛官としての日々が始まった。

 といっても、具体的に何かが大きく変わる訳ではない。

 仕事の内容そのものは見習い時代と大きく変わらない。

 むしろ『学友』が解散されて出かける機会が減った分、却ってのんびりしているくらいだ。


 それにこう言ってはナンだが、睡蓮宮の中での護衛など、必要ないと言っても過言ではない。

 睡蓮宮の従者たちはレーンの方がいらっしゃった頃から務めている者がほとんどで、気心がしれている。

 彼らはほぼ例外なくアイオールを、息子か孫か甥っ子のように思っている。主に害意を持つ者は九割九分九厘、ここにはいない。


 また、さすがに大きな声では言いにくいが、正妃の御子息である立派な兄君が二人もいる、しかも外国から来た側室を母に持つアイオールのような王子など、現宮廷では暗殺する価値すらない。

 アイオールに王位継承権はあるものの、現状では有名無実だ。

 そんな王子を睡蓮宮へ忍び込んでまで暗殺を企てるなど、まず考えられない。

 主が今後仕事であちこち出向くようになれば話は別だろうが、ここ一、二年はこんなのんびりした感じだろう。


 ただ正式に護衛官となった以上、見習い時代よりいろいろな面で煩わしいのは否めない。

 憧れの護衛官のお仕着せだったが、はっきり言ってずっと着ていたいほど着心地のいい服でもない。

 そのうち慣れてくるだろうがとにかく窮屈で、着ないで済むなら着たくない服だ。

 これを着て毎日朝から晩まで務めるのは、思っていた以上に疲れた。

 実際やってみるまで、お仕着せをきちんと着て務めるなどという些細なことが、こんなに心身にこたえるとは思っていなかった。


 日誌の類いの記録や睡蓮宮詰めの近衛武官の勤怠管理も、俺の仕事の範疇に入ってくる。

 基本、上がってきた報告を承認するだけとはいえ、こまごまとした事務的な仕事が増えた。


 また、着任から半年ばかりは十日から二十日に一度ほどの割合で、実技だけでなく近衛武官としての心得などの講義も受けなくてはならないのが決まりだが、これが想像以上に大変だった。


 元々俺は、実用性の薄い有り難いお話をくどくど聞かされていると猛烈に眠くなってくる質なのだが、特に実技の鍛錬の後、こういうのを聞かされるのは個人的に言えば拷問だった。

 適度に疲れた身体でうららかな午後、座って有り難いお話を聞く。寝るなと言う方が無茶だ。

 しかし後で講義内容の試験もされるから、当然居眠りなどしていられない。

 手の甲を爪の先でつねりながら必死に睡魔と戦うのは、鬼教官に剣技をしごかれるのとは別種の、しかしそれに負けないほど辛い鍛錬なのだと心の底から思った。

 王子の従者に必要な最低限の教養は、子供の頃から少しずつ教わってきたが、こういう類いの立派なお話はどうもその……鬱陶しい。


 武官とはいえ官吏なのだから、窮屈なあれこれは仕方がない。必要悪と割り切り、やっていくしかないだろう。



 その必要悪の為に睡蓮宮を離れていたある午後のことだ。

 着任して一ヶ月ばかり経った、秋も深まった頃だった。


 例の講義と試験で絞られ、俺はげっそりしながら睡蓮宮へ帰ってきた。

 しかし敷地に入った瞬間、全身の毛がぞわっと逆立った。

 何がどうとは言えなかったが、いつもの睡蓮宮の空気ではなかった。


「マーノ……」


 ロンさんことデュ・ロクサーノ氏、睡蓮宮の侍従長が俺を見つけて早足に近寄ってきた。

 彼は、生まれてこの方慌てたことも怒ったこともないような、穏やかな雰囲気の優しい方だ。

 だが今、そのロンさんの顔がこわばっている。

 こんな彼は見たこともない。

 強いて落ち着こうとしているのか、ひとつ大きく息をついて彼はこう言った。


「アイオールさまが行方不明だ」



 俺はすぐさま、乗っていた馬で睡蓮宮の裏手へ回る。


 アイオールは十歳ごろからほぼ毎日、夕食前のひとときに睡蓮宮の裏手辺りをのんびりと馬でそぞろ歩くのを日課にしていた。

 ロンさんの話では、今日はタイスンがいないので誰か他の者をお供にと勧めたそうだが、アイオールは笑って、必要ないと言って独りで出かけたらしい。

 俺が用で手が離せない時にはちょいちょいあることなので、誰もそれ以上は勧めなかった。


 しかし、いつもの時間になってもアイオールは戻らなかった。さすがにおかしいと思い始めた矢先、主を乗せずにユキシロが厩舎へ戻ってきた。

 これはただ事ではないと皆でアイオールを探し始めたのだ……と。


 裏手に回って適当な木の枝に馬をつなぎ、すでにその辺りで主を呼びながら探している者たちと合流する。

 まずはその場に立ち、静かに息をしながら耳を澄まし、ゆっくりと辺りを見渡す。

 その状態を保つように気を付けながら、少しづつ足を進める。

 焦りに押されて違和感を見落とすことが無いよう、他の者の声や気配に惑わされないよう、じりじりする心を押さえつけ丹念に辺りを探る。


 しばらく歩いていると、何かが感覚に引っかかった。

 俺は立ち止まり、用心深く見回した。

 何か……何かが強烈な違和感を訴えてくる。

 不快なにおいとでもいう感覚、説明しきれない不吉な違和感だ。


 そこは一見したところ、特にどうということもない低木の植え込みだった。

 しかし静かすぎるそのたたずまいに、俺は何故か引っかかった。

 丁寧に茂みをかき分け、ゆっくり進んでみる。

 普段はまず行くことのない茂みの裏へ抜けた途端、俺は息を止めた。



 目の前の状況を理解するのに、しばらく時間を要した。


 壊れた等身大の人形、とまず思った。死体、とも。


 後ろ手に縛られ、不自然に折り曲がった腕。

 むき出しの背にはいくつもの赤黒い筋。

 そして汚れたむき出しの脚。

 頭部には菰のようなものが被せられている。

 菰の陰に土のこびりついた乱れた黒髪が、見える……。


 弾かれたように飛び出し、菰を取り去る。

 そして死体のような人物を抱き起こした。

 血のにおいがむっと鼻腔を突く。

 胸元や腹にも赤黒い筋が浮いていた。


 アイオール、だ。

 汚れたさらしで目隠しされ、さるぐつわを噛まされていた。

 震える手で腰の剣を抜き、目隠しとさるぐつわ、手首の戒めを切る。顔色は紙のように白く、細かい擦り傷が頬にあった。

 静かに伏せられた目の周りは涙の跡でどろどろに汚れていた。

 噛ませていたさるぐつわを外すと、大量のよだれが流れ出た。

 いやにだらりと右腕が垂れ下がっている。脱臼しているのかもしれない。


「あ……あい、おーる……」


 うわ言のように主の名を呼ぶが、返事はない。

 まさか事切れているのか、と、血の気が引いた。

 がくがく震えながら俺は、息と鼓動を確認する。

 かすかだが、どちらも確認できた。ひとまず大きく安堵する。


 着ていた秋用の外套を脱ぎ、半裸というより全裸に近いアイオールの身体を包む。

 自分でも呆れるほど手が震え、中々上手く包めず苛立った。


 どうにかアイオールの身体を外套で包み、抱き上げる。

 その刹那、血のにおいと一緒に栗の花に似たにおいが鋭く立ち上った。

 衝撃に砕けそうな足腰に力を込め、キリキリと奥歯を噛みしめる。


(くそっ……なんてこった!)


 この状況、答えはひとつしかなかろう。

 少なくとも今は秋、栗の花の咲く季節ではない。



 それから後のことを、俺はあまりきちんと覚えていない。


 アイオールを抱き上げた状態で、ひたすら俺は睡蓮宮へと戻る。

 途中で会った宮の者の短い叫びや慌てた様を、ぼんやりと覚えてはいるが現実感はあまりない。


 ただロンさんが、感情の消えた青い顔で我々を見た後、がくがく震えながら恐慌状態の宮の者たちへ指示し、詰所から侍医のサーティン先生を呼んでくるよう手配をしていたのは覚えている。


 宮の者たちにアイオールの身体を託すと、俺はその場へ、腑抜けたように座り込んでしまった。


 人手はいくらでも必要だったろうから、座り込んでいる場合ではないのはわかっていた。

 わかっていたが、足腰にまったく力が入らなかったのだ。


 薄暗い、冷たい玄関先に座り込み、俺は長くぼうっとしていた。


 遠くから聞こえてくる喧騒を他人事のように聞きながら、ただただぼうっとしていた。



 不意に我に返った。

 身体が冷え切り、少し動いただけで関節がみしみし鳴るような気がする。

 すでに日没から時間が経っているようだ。

 辺りは闇に沈み、星が瞬き始めている。


 混乱の為か、なかなか灯りを点されることのない暗い宮の奥をじっと見ているうち、言葉が浮かんできた。

 感情の抜け落ちた、冷たい言葉だった。


(アイオールは……死んだ)


 死んだ。

 殺されたのだ。

 あの身体は生きていない。

 息はしているし鼓動は打っているが、本当の意味では生きていない。

 俺は、主を守れなかった。守れなかったのだ……。


 胸の内で何度もそう繰り返しながら、俺は立ち上がる。

 そして星明りを頼りに、足を引きずるようにして奥へと向かった。



 汚れた身体と傷が洗われ、しかるべき処置がなされた。

 その途中でアイオールは一度、目を開けたらしいのだが、目を開けた途端猛烈な勢いで嘔吐し、再び気を失った。


 その後アイオールは寝台へ運ばれたが、眠っているのか目覚めているのかも曖昧だった。

 傷のせいで発熱し始め、苦しそうにうなされる。

 短く荒い息を吐き、時折がくがく痙攣する。

 低いうなり声を上げ、何かを振り払うように脱臼していない方の左腕や首を振る。



 長い夜がようやく明けた。

 さすがに少し熱が下がってきたらしく、アイオールは今、こんこんと眠っていた。

 このまま息を止めやしないかと、不安になるような深い眠り方だった。


 まんじりともせずに夜を過ごした我々は、充血した目でげっそりとした互いの顔を見合う。


「王に……ご報告を……しかし……」


 死人のような顔色で茫然とつぶやくロンさんを見ているうち、俺の頭は不思議と冴えてきた。


 今まで何度か聞かされた言葉、先代シラノール陛下の護衛官を務めていた老練な指導教官の言葉を、何故かいやに鮮明に思い出していた。


『護衛というお務めは主のお身体やお命をお守りするだけではない。時には主の面子や体面もお守りしなくてはならないものだ。つまり、存在そのものをお守りして差し上げるのだ。難しいが、これこそが真の護衛であると心得るように』


(真の、護衛……)


 俺には今更な言葉かもしれないが、アイオールがこれ以上、傷付くままには出来ない。


「デュ・ロクサーノさま」


 俺がいつものように気安くロンさんと呼ばないことに余程驚いたのか、彼はぎょとしたように目をむく。


「マーノではなく護衛官のタイスンとして、侍従長デュ・ロクサーノさまへおうかがいします。今回のことは基本、公にするべきではありませんよね?」


 ロンさんは迷うように瞳を揺らしたが、頷いた。


「もちろん王へご報告しますが、その前に。親身になってご協力いただけそうな方に事情を話し、おすがりすることも考えませんか?我々はどうなろうと仕方がありませんが、他の睡蓮宮の者に必要以上のきつい咎が与えられては不憫です」


 ロンさんは今度は、しっかりと頷いた。



 王は、亡きレーンの方の忘れ形見であるアイオールを溺愛していると言っても過言ではなかった。

 決して兄君たちを愛していらっしゃらない訳ではないが、アイオールへ向ける王の笑顔が特別だということくらい、誰の目にも明らかだった。


 そのアイオールがとんでもなく害され、冷静でいられるとは思えない。

 常日頃感情を露わにされない方だからこそ、怒りに我を忘れればどんな処置がなされるかまったく読めず、恐ろしい。

 もし父君が睡蓮宮の者へ必要以上にきつい咎を与える結果になれば、最終的に傷付くのはアイオールだ。

 アイオールは宮の者を、家族のように思って育ってきたのだから。


「今日は確か午後から、春宮のセイイール殿下と一緒に博物学の教授の講義を受ける予定でしたよね?」


 一瞬虚を衝かれるような顔をした後、ああそうだ、そうだったとロンさんはつぶやいた。

 週に一度春宮へ出向き、最新の博物学の講義を受けた後に兄弟で午後を過ごすのが、『学友』解散以来の二人の習慣だった。


「とりあえずセイイール殿下へ、今日はアイオールさまに障りが出来たのでご訪問出来なくなりましたということは、お伝えしなくてはなりませんよね?私がこれから行ってきます。そして……セイイール殿下に、なんとか事情を話しておすがりしてきます。あの方は年齢以上にご聡明で、アイオールさまとも仲の好い兄君でいらっしゃいます。アイオールさまの今後に一番いい道を模索し、助けて下さいましょう」


 言いながらも心許なかったが、それ以上のことは考え付かなかった。

 人がいいのが取り得の睡蓮宮の従者たちに、目端の利くはしっこい者は皆無だ。

 目端の利くはしっこい者なら、そもそも睡蓮宮のようなのんびりしているのだけが取り柄の、場末的な離宮に何年も務めている訳がない。


 普段はそれが睡蓮宮のいいところだが、こういう緊急事態には対処出来ない者ばかり、とも言える。

 そう……ロンさんも例外ではない。

 緘口令だけはすぐ敷いたが、その後のことは後手後手になっている。

 右往左往する宮の者たちを十分統率出来ていない。

 彼自身もどこか右往左往している様子なのが見て取れる。


 我々だけでは今回の事態を対処しきれないのは明白だ。

 味方が。アイオールへ純粋に愛情を持っている、お身内の味方が。

 是非とも必要、だ。

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