1 誓い ③
俺はうっかりしていた。
アイオールとクレイールの『決闘事件』は、俺の想像した以上に波紋が広がったのだ。
普段はおっとりと大人しい王子が逆上し、決闘だのなんだのと言う話になったのだ。
学友の少年たちは相当の衝撃を受けたし、そのきっかけになったクレイールの暴言の内容も衝撃だった。
俺たちが稽古場を出て行った後、クレイールは他の学友たちにかなり色々、半ばつるし上げに近いくらい言われたらしい。
元々クレイールはリュクサレイノの息子であることを鼻にかけて威張っていたので、皆から嫌われていた。
だから誰もクレイールを庇わなかったし、慰める者もいなかった。むしろ、ここぞとばかりに大義にかこつけ責め立てられただろう。
そんなクレイールに同情する気なんか、俺にはない。あの男の自業自得、不徳の致すところってなもんだ。
睡蓮宮へ出向いて正式に詫びを入れるべきだとか、言い訳せずに『学友』を辞めて今すぐ謹慎するべきだとか。
王のお耳に入ればリュクサレイノ全体に類が及ぶとか、その類が我々学友にまで及んだらどうするつもりだとか。
まあ、あの暴言から考えれば当然の内容・当然の懸念であろうが、学友たちにネチネチ言われ続け、クレイールは再びブチ切れたらしい。
己れに非があることがわかっていても、あの『頭の黒い王子』に改めて詫びるなど彼には受け入れがたい話だったのだろう。
クレイールは最後に、うるさい黙れと学友たちに吠えて、そのまま帰ったとかいう話だ。
少年たちは帰宅後、それぞれの親や保護者へ事の顛末を話した。
当代最も力のあるリュクサレイノは、反面、敵も多い。この話は瞬くうちに広まり、王の耳にも入った。
王は静かに怒った。
王はまずアイオールへ、お前は臣下が失言するたびに剣を抜くのかときつく叱ったものの、クレイールの暴言は王家への不敬以上の意味を持つと断じた。
弁解の機会もほとんど与えられずにクレイールは、許しがあるまで今後一切、宮廷に顔を出すなと命じられてしまった。
レーンは南方の海域の防衛上大切な同盟国であり、その同盟の証であるレーンの方は、お亡くなりになられたとはいえ重要な意味を持つ。
アイオールはラクレイドとレーンの同盟の象徴、そのアイオールを辱める暴言は、防衛の根幹を揺るがす事態にもなりかねない、と。
それも嘘ではなかろうが、王が怒ったのはもっと人間的な部分が大きいと俺は密かに思う。
王はレーンの方を愛していらしゃったし、王妃に劣らず大切にしていらっしゃった。
頻々に睡蓮宮へお渡りになっていたとまでは言えないが、お渡りになられた際の、初恋の少年のようにとろけた目をしていた幸せそうな王を今でも思い出す。
スタニエール陛下はラクレイドの王族らしい怜悧なご容貌の、さながら冬の神山ラクレイを思わせる超然とした雰囲気の方だ。
が、レーンの方の前での王は、ただの男だった。
レーンの方がお亡くなりになられた頃のお悲しみ様は子供心にもお気の毒で、母を亡くして茫然としているアイオールを抱きしめ、さめざめと泣いていらっしゃったのをよく覚えている。
その大切なご側室を、クレイールは踊り子呼ばわりした。
芸をひさぐ者は春もひさぐのは、古今東西変わらない。
クレイールは、要するにレーンの方を売女呼ばわりしたのだ、王の怒りは計り知れないだろう。
クレイールの出世の道は閉ざされた。
今後、王の許しがそう簡単に出るとは思えない。
少なくともここ十年、ひょっとするとスタニエール陛下が在位していらっしゃる間ずっと、クレイールは宮廷に顔を出すのが難しいかもしれない。
当然、リュクサレイノも面目をつぶした。
クレイールの父親であるリュクサレイノ侯爵は、御寵愛の深かった今は亡きご側室を悪しざまに罵るような、不届きな息子を出してしまったことを恥じ、自ら要職を退いた(すぐ王が慰留したが)。
内心はどうだかわからないが、これもすべて己れの不徳、と、身を慎んで殊勝にしているらしい。
ここ最近リュクサレイノは増長気味だったので、王とすれば今回の件を上手く使い、舅殿の陣営を抑えたという面もあろう。
大人達の思惑や駆け引きは、俺にとってはどうでもいい。
ただこの件は、俺もいろいろと考えさせられた。
その日、俺は睡蓮宮の裏庭で鍛錬をしていた。
主に出かける予定がない場合、その頃、俺は鍛錬をして過ごしていた。護衛官の実技試験が近かったのだ。
「マーノ」
不意に後ろから声をかけられ、少し驚きながら手を止める。
振り返るといつの間にか、紺のお仕着せと銀の襟章の護衛官が立っていた。
(うへえ……)
内心情けない声を上げるが、出来るだけ無表情で頭を下げる。
こいつは本当に昔から、気配を殺すのが上手い。
「クシュタン護衛官。いつもお世話になっております」
俺の態度にクシュタンは苦笑いをする。
「やめろよ、お前にクシュタン護衛官なんて言われても気持ちが悪い。今まで通りトルーノでいいよ」
「そうはいくか」
俺はため息まじりに応える。
「あんたは俺の試験官じゃないか」
トルニエール・クシュタンは俺より一つ上、セイイール殿下の乳兄弟で去年護衛官になった男だ。
王子の乳兄弟同士であり、幼馴染の友ともいえる。
だが今は、俺の適性を調べる試験官の一人だ。
武官にあるまじきことだが、この男は磨いた銅のようなやたら綺麗な髪を貴人のように長く伸ばしてきちんと束ねている。
セイイール殿下のご下命で伸ばしているという話だが、すらりとした体型の優雅な雰囲気の男前だ。
一見したところ剣をふるうより竪琴でもポロポロつま弾いている方が似合いそうだが、見かけによらずかなり強い。
昔から俺はこいつに、三度に一度くらいしか勝てない。
「まあな」
曖昧に同意すると、クシュタンは手近な木の下へ座った。
そして俺へ、まあこの辺にでも座れよと自分の家の庭みたいに手招きながら言った。
俺は黙って従った。あまりいい予感はない。
「なに?抜き打ちの口頭試問ですか?」
あえて軽く訊くと、そうとも言えるが正解はあってない質問だな、と、奥歯に物がはさまったようにクシュタンは言う。
「……なあマーノ。ずばり訊くが、護衛官の仕事とは何だと思う?」
あまりにもど真ん中の質問がきて、俺は一瞬、つまる。
「仕える主を守る、ことかと……」
用心深く俺は答える。
「主を守る、とは?」
クシュタンは問う。
深みのあるヤツの青い瞳は冴えざえと輝き、俺を鋭く射抜いた。
「第一は何と言ってもお命をお守りすること。命だけでなく、お怪我もさせないこと。刺客やならず者なんかを寄せ付けないよう警護し、必要ならば撃退する。事故や事件に主が巻き込まれないよう、常に辺りに気を配る。護衛官にとっての主な仕事はその気配りだろう。剣を抜かずに主をお守りできるのが一番、火急の場合は剣を抜いて主をお守りできるだけの技術を保持していること。そして、場合によったら主の意に反しても主の命を守るのを優先する。護衛官は何よりも、主の身の安全、主の命をお守りする努力をすべきだと思う」
ふん、とクシュタンは鼻を鳴らす。
「基本はまあそんなものかな。己れの仕事についての理解は及第だろう。では……現実でのお前の判断を訊こう」
俺は身をこわばらせた。
何について訊かれるか、その瞬間予想がついた。
「先日、春宮にある剣術の稽古場で、アイオール殿下とリュクサレイノ侯爵の六男・クレイールさまがいさかいになり、剣の私闘に発展した。マーノ……いや。タイスン。お前はその場にいたのに、その私闘をなかなか止めなかったようだな。理由があってあえて止めなかったのか?それとも止める必要性を感じなかったのか?あるいは何らかの理由で行動を制限されていたのか?」
俺は大きく息をつく。
「ひとつは……」
唇をかみ、声を絞り出す。
「とっさには動けなかった、情けないが。俺はアイオール殿下が赤子の頃からの付き合いだが、あの方のあんな怒りの形相は初めて見た。でも半分は、怒りの理由が身に沁みたから動きたくなかった、部分もあった。お袋を売女呼ばわりされて逆上しない息子なんかいない。王子だろうが見習い武官だろうが、あるいは下町の商店の奉公人のガキだろうが、おんなじ気持ちになるだろうよ」
クシュタンは無表情のまま、俺の次の言葉を待った。
「アイオール殿下の剣の腕前が、リュクサレイノの坊ちゃんに遜色ないことも知っていたから慌てる必要がないとも思ったな。それに、あの王子様の性格上、ここまで来たらある程度気の済むまで打ち合いをさせないとおさまらないだろう予想もついた。一見大人しそうに見えるが、アイオール殿下はあれでなかなか気が強いし、その……あからさまに言うのなら、執念深い。無理にとどめれば必要以上の禍根が残る、そうも思った」
さほど好きでもない剣技でさえ地道に練習を続ける粘り強さは、反対に出ればすさまじい執念深さになる。
もしもあの時、打ち合いをさせずにとどめていたとしたら、リュクサレイノの馬鹿ボンボンは遠からず、アイオールに殺されるような気がした。
殺さずにはいられなくなるくらい、あいつの心は拗れるだろう、と。
しかしたとえ王子でも、私情で重臣の息子を殺すなどとんでもないではないか。
もちろん現実的に考えれば可能性は低いが、下手をするとヤツは、暗殺者を雇ってでもクレイールの息の根を止めようと画策するかもしれない。
あの時、瞬間的にそんな危険を感じたのも事実だ。
「主な理由はそんなものだ。護衛官として正しい判断だったと言い切る自信は正直ない。でもあの時のあの状況では、私にはあの行動しか取れなかったと思います、クシュタン護衛官」
「なんだよ、急に丁寧語になるな。かえって気持ち悪いじゃないか」
クシュタンは言いながら苦笑した後、真顔になった。
「わかった。お前はお前なりの理由があってあえて動かなかった、そういうことだな?その場の雰囲気に呑まれて動けなかったのではなく」
「ええ……はい」
「なんだ、歯切れが悪いな。違うのか?」
知らず知らずのうちに目が伏せ気味になる俺へ、クシュタンが怪訝そうに問う。
「でもその判断に今、自信がない。事が思ったよりも大きくなり過ぎた。アイオールの為を思ってやったつもりだったが、禍根を残さないつもりでより大きな禍根を生んだ可能性がちらつく。リュクサレイノを敵に回して、今後いいことなんかひとつもないからな」
「だが、それはお前の務めの範囲外の悩みだな」
クシュタンがやけにきっぱりそう言った。
「お前の判断が生んだ結果が今後どうあれ。主をお守りする上でその場その場で最良と判断した行動を取り続ける。我々に出来るのは、結局それしかないものだよ」
実感のこもった言葉だった。
たとえ一年に満たない期間であっても、実際に護衛官をやっている者でなければ出てこない感慨だろう。
俺は、ちょっと笑ってクシュタンの青い瞳を見る。
「そうですね……ご教授ありがとうございます、先輩」
クシュタンはやや顔を赤らめ、先輩はよせと美しい眉をよせた。




