3 厳冬の客人⑯
務めに復帰した。
早朝の鍛錬は、武術と剣術を一日おきにするようになった。
どちらにもサルーンが付き合い、積極的に稽古をつけてくれるようになったのが休養前との違いだろう。
アイオールも少しずつ体調が戻ってきているようだ。
どうせすぐあきるだろうと思っていたが、ヤツは武術の早朝鍛錬に休まず来る。
いそいそ来る。
そうだ、こいつは昔から粘り強いというか執念深いというか、やると決めたらとことんやる男だったと今更ながら思い出す。
あいつなりに積み木の土台を積み直し始めているようだ。
武術の基礎の基礎である柔軟は、アイオールにはほとんど必要ないくらいなので(俺は苦労している、畜生)、さっそくサルーンに型を教わっている。
定期的に身体を動かすようになったせいか、剣術より武術の方が性に合っていて楽しいのか、顔色が明るくなってきた。
務めに復帰しても俺はしばらく、薬湯と湿布の世話になる状態だった。
サルーンに投げ飛ばされた時に出来た打ち身や炎症はほぼ治まっていたが、武術の鍛錬で今まで使わなかった筋肉を使うようになったせいか、どうしてもあちこちが痛むのだ。
務めを終えて湯殿で汗を流した後、アーナン先生が部屋に来て簡単な問診の後に腰や背中に湿布を貼って下さる。
その際、アーナン先生と他愛ない話をするのが一日の終わりのいい区切りになっている。
ある宵。
いつものように湿布を貼ってもらいながら雑談をしていた時、思い出したようにアーナン先生からこう言われた。
「そう言えばあなたは前に、俺は最低の護衛官だとか言ってましたね。ひょっとして、今でもそう思っていらっしゃいますか?」
ぐ、と一瞬詰まったが、返事をしないのは卑怯だろう。
俺は苦笑いをしつつ、答えた。
「いやらしい自虐ですよね。もちろん今でも、自分は護衛官として最低に近いだろうなという気分は根強く残っていますが、だからと言って必要以上に貶めて無駄に悩むのはやめました。最低とか最高とかより、とにかく今の自分が出来ることをしっかりやってゆこう、と。まあ、馬鹿みたいに当たり前な話なんですけど、そう思うようになりましたから」
アーナン先生は柔らかく、そうですか、と言った。
(そ……そうですかって)
別にその返事で悪い訳ではないが(他に言い様がないかもしれないし)、正直拍子抜けした。
俺としてはかなり言いにくいことを、真面目に、つっこんで答えたつもりだったから、そうですかであっさり流されると心情的にがくっとする。
勢いよく踏み込んだが先には何もなかった、みたいな感じがして気恥ずかしい。
アーナン先生は湿布を貼り終わった後手を洗い、薬湯をカップに入れて俺へすすめてくれた。
「あなたの場合はあくまで自称、でしたけど。多くの他人から最低の護衛官と蔑まれ、苦しんだ方が昔にいますけどご存知でしょうか?」
「は?いいえ。そんな方がいたのですか?」
そんな噂、まったく知らない。
よっぽど昔の話なのだろうか?俺の表情にアーナン先生は、そうですか、あなたは若いですねと彼女は一瞬、遠い目をした。
「わたくしがまだ十代の頃でした。医師の資格を取る勉強の為、王都の遠縁の家に下宿させてもらっていたのですが、その頃こんな戯れ歌が流行っていました。
『王太子殿下の護衛官 史上最低の護衛官
主を守れず逃げ出して 助けてくれと気絶する』
この場合の王太子殿下は、先王シラノール陛下を指します」
「え?」
シラノール陛下の護衛官は常時、数人いたはずだが、王太子時代からかの方の護衛を務めていたのは一人だけだ。
浮かぶ名前と顔に、俺は思わず首を振る。
いや、まさか。王太子時代だけ護衛を受け持った護衛官が他にいたかもしれないではないか。
「意外でしょうが、その護衛官はサルーン護衛官なんですよ」
アーナン先生があまりにも淡々と言うので俺は瞬間的に、当時同姓の護衛官がいたのだろうかと思った。
「もちろん、この戯れ歌がどこまで本当かはわかりません、当時からいろいろと尾ひれのついた噂もされていましたしね。でも可能な限り信憑性のある話を綴り合わせると、こんな感じでしょうか。サルーン護衛官はある朝、血まみれで近衛武官詰所に転がり込んできた。彼は、殿下が大変だ、医者を頼むとつぶやいて気を失った。武官たちが王太子の寝室へ駆け込むと、争ったような跡のある部屋の中で倒れている、やはり血まみれの王太子殿下がいらっしゃった。致命になる傷はないものの、出血が多いせいで二人とも生死の境をさまよった。凶器は寝室の床に落ちていた匕首で……」
「ちょ……ちょっと待って下さいアーナン先生」
俺は思わず声を上げる。
「それって単に、複数の暴漢に乱入されてサルーン護衛官が戦ったけれど多勢に無勢、何とか撃退したもののサルーン殿も陛下も負傷してしまった、という話ではないのですか?」
アーナン先生は曖昧に笑む。
「それがそうとも言い切れないようなのですよ。まず第一に、怪しい者が忍び込んだ形跡が、まったくといっていいほど見付けられなかったそうですから。凶器となった匕首は、当時のシラノール陛下が個人的に、護身用として肌身離さず持っていらしたものだそうです。時の王太子殿下が護身用にと、実用本位の武器を常に携帯していらっしゃるというのもすさまじい話ですが、当時かの方は叔父君と密かに王位を争っているらしいというきな臭い噂もありましたから、そちら方面からの刺客に対する対策かもしれませんね」
ふっとひとつ息をつき、アーナン先生は軽く目を伏せる。
「その後、王太子殿下はあの時自殺を図ろうとなさっていたようだとか、精神的に不安定なところのあるかの方が錯乱なさったのだとか、いや錯乱したのは護衛官の方だとか、いろいろな噂が流れました。でも、この件についてかの方もサルーン殿も口をつぐんで一切語らなかったので、結局はっきりしたことはわからないままうやむやになってしまったのですよ」
「そんな……」
納得できない顔で絶句している俺へ、アーナン先生は目を上げると困ったように笑い、言葉を続けた。
「一切弁明をしなかった為でしょうか、最終的にサルーン殿は、傷付いた主を放置して逃げた護衛官として『最低』の汚名を着ることになってしまったのです。『シラノールの血塗られた匕首』と名付けられたこの事件は、半ば面白おかしく噂され、サルーン殿の名は嘲笑と共にささやかれるようになりました。もしかすると護衛官を『最低』とすることで王太子の凶行から皆の目をそらさせようとした、あるいは逆に、腰抜けの護衛官を喧伝することで王太子を貶めようという叔父君側の思惑から、あえて噂が流され続けたのかもしれませんね。王宮勤めでも何でもない、わたくしのような市井の小娘ですら頻繁にその噂を耳にしたくらいですから、まだ二十歳にもならない若者だったサルーン護衛官にとって、どれほど辛い状況だったか想像も及びませんね」
「シラノールの……匕首」
サルーンのふたつ名だ。
今、畏敬を込めて呼ばれているこのふたつ名の始まりに、こんなすさまじい事情が隠れていたなど想像すらしたことがなかった。
『いえ……若い頃の私の目と似ている気がしましたから』
『殺してくれと言う者は、果たして本当に『死にたい』と思っているのでしょうか?実は、『生きていたくない』と思っているのでは?』
『生きているうちに解決出来ない苦しみは、死んでもやはり解決出来ないからですよ』
アイオールが自傷をしでかした日の、サルーンの言葉のあれこれが頭の中で響く。
淡々と紡がれた言葉に、俺の苦悩ごときでは太刀打ちできない重みと苦みを感じたが……当然かもしれない。
思いつつ、俺は冷めかけた薬湯をすすった。
アーナン先生は、むっつりと薬湯を飲む俺を見て静かな声でこう言った。
「サルーン護衛官を軽蔑しますか?」
思いがけない言葉。
顔を上げ、俺はまじまじとアーナン先生を見つめる。
しかしその一瞬後、自分がそう言われた以上に腹が立った。
「はあ?軽蔑?意味がわからないんですけど?」
言ってしまった後で、さすがにこの言い方はアーナン先生に対して失礼だなと思ったので口調は改めた。
だがどうしても声音に怒気がこもってしまう。
「どこをどう見ればこの話から軽蔑なんて言葉が出てくるんですか。確かに真相はわかりませんし、今後もわからないままでしょうね。でもサルーン護衛官が、軽蔑すべき卑怯者だとは思えません。仮にそんな下衆なら、逆にあることないことしゃべりまくって、自分が有利になるよう画策するんじゃないでしょうか?でもあの人は極限状態でも主を救う努力を続けましたし、『最低』なんて言われても言い訳ひとつしないで、歯を食いしばって務めを続けたんですよ?こんなこと……俺ならとても出来ません」
なんだか涙がにじんできた。
自分のことのように、いや以上に、胸が痛む。
やけくそのように俺は、カップの薬湯を飲み干した。
「尊敬こそすれ……軽蔑なんてする訳ありません」
俺の手から空のカップを受け取ると、アーナン先生は何故か目許をゆるめた。
「その尊敬すべき比類ない護衛官が、あなたを認めているのですよ、マーノ」
は?と間の抜けた声が出た。さっきまでの話題と今の言葉、どこがどう繋がっているのかまったくわからない。
「サルーン殿ご本人から何かの折に聞いた話なのですが。彼が去年の秋に睡蓮宮へ来たのは、自身で望まれたからだそうです。彼は、武官候補生として教練を受けていた十二歳のタイスン少年を見た頃から、あなたの並々ならぬ才能を認めていたそうですよ。当代の若者たちの中で、すでに一、二を争う腕前の剣士でありながら、更に大きな伸びしろを感じさせる才能は恐ろしいばかり、何より彼の野生の獣を思わせる勘の鋭さは……」
「えええ?ちょ、ちょっと待って下さい!」
誰の話だ、誰の。
あわてている俺を見て、アーナン先生の目は更にゆるんだ。どことなく、おかしがっているようでさえある。
「……野生の獣を思わせる勘の鋭さは教えて身につくものではない、正に天賦の才。上手く伸びれば、彼は稀代の護衛官になる逸材だ。陛下にそう進言し、睡蓮宮に護衛官を増員するならぜひ私をやって下さい、可能な限りタイスンを育てるのが私の最後のご奉公になるでしょうから……と、直々に申し出たそうですよ」
あの方から直接聞いた話です、と、アーナン先生はもう一度そう言った。
「え……えーと」
どう反応していいのか困る。
あー、その。褒められてる、んですよね?
えーっと、それも、ものすごく。
自惚れじゃありませんよね?褒められてるって考えて、間違っていませんよね?
「もっともサルーン殿も人間、間違える場合もあるでしょうが」
俺の浮かれかけた気分を叩き折り(アーナン先生は、俺が子供の頃に漠然と思っていたよりずっと辛らつな方だ)、可笑しそうに笑む。
「しかし彼自身も稀代の護衛官であり、今まで何十人何百人もの武官を育ててきた実績をお持ちの方。その方をオッと思わせるだけの輝きが、あなたにはあった。それだけは確かだと思います。その輝きをどうするのかは、最終的にはあなた次第でしょうけど」
小卓の上にある薬剤や道具を鞄にまとめて持ち、カップを乗せた小盆を手に先生は立つ。
「では帰ります。おやすみなさい、お大事になさって下さいね」
おやすみなさい、ありがとうございました。
俺は茫然と、いつもの挨拶を口にして彼女を見送った。




