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3 厳冬の客人⑬

 扉を叩く音で我に返った。

 袖口で慌てて目をぬぐい、軽く咳払いをしてから


「どうぞ」


 と答えた。


 アーナン先生だった。

 小さな丸盆にカップとポット、薬湯を持って来て下さったのだろう。

 俺を一瞥して、先生は少し驚いたように目を見張ったがすぐ表情を戻した。


「薬湯を持ってきたのですけど……飲めますか?顔色が良くないですね、気分が悪いのではありませんか?」


「あ、いえ」


 曖昧に否定しかけたが、別に嘘をつく必要もあるまいと思い直す。


「実は、さっきアイオールとお茶を飲んだのですが、調子に乗って焼き菓子を食べ過ぎてしまいまして。今ちょっと胸焼けがしています」


 ああ、と納得したような声を上げ、アーナン先生は柔らかく笑んだ。


「では……そうですね。まだ寝間着に着替えてないようですし、一緒に外の空気でも吸いに行きませんか?」


 少し歩くとおなかもこなれるでしょうし、と彼女は付け加えた。


 もう一度襟巻きをまき直し、外套を身につける。

 部屋履きから長靴(ちょうか)にはき替えた頃、暖炉の火の始末をして下さったアーナン先生が立ち上がった。


「行きましょうか」



 裏庭へ出る。実に久しぶりだ。

 午後も遅いが、思っていたより陽射しが明るかった。

 春が近いのだなとぼんやり思う。

 

「明るいですねえ」


 後ろから来た先生が言う。

 ゆるく腰に巻いていたショールを、きっちり首筋から肩へ巻き直していたが、それでもやや寒そうで申し訳ない気がした。


「春が近いのがわかりますね。気温より先にまず、陽射しが春めいてくるものですから」


 しかし俺の隣に立つと、先生は不意に医師の目と口調になった。


「まず肩幅ほどに両足を開いて立ち、鼻からゆっくり息を吸い、口からゆっくり息を吐く。今からこれを何度も繰り返して下さい」


「は?」


 唐突な指示に戸惑う。


「胸焼けがするのでしょう?すぐに効くとは言えませんけど、野外の新鮮な空気をたっぷり吸い込み、身体の中のよどんだ空気を吐き出すのは、どんな病にも有効ですからね」


 そんなものなのか、と、首をひねりながらも俺は、言われた通りに足を開いて立ち、鼻から吸って口から吐くを繰り返すことにした。


 吸う。

 冷えた空気が鼻腔をくすぐる。

 冷たくて新しい空気は微熱がある時に飲んだ水のように、血の中に潜んだ嫌な熱を鎮めて洗い流してくれるような気がした。


 ゆっくりと口から息を吐く。

 身体の中にある鬱陶しいものが、吐く息に乗って出て行くような感触。


 吸う。

 吐く。


 余計なことは考えず、俺はただ呼吸を繰り返した。

 血の入れ替わるような清々しさが、次第次第に全身を満たしてゆく。

 湿った土とかすかに青臭いようなにおいが、空気に混じっているのにふと気付く。

 芽吹こうとしている新芽のにおいなのだろう。


「芽吹きのにおいでしょうか、早春らしい、いいにおいがしますね」


 隣でアーナン先生が言うので、うなずく。

 先生は俺の顔を見ると、安心したようにほほ笑んだ。


「では、そろそろ戻りましょう」


 先生と連れ立って自室へ戻る。

 俺が着替えている間に先生は暖炉の火をおこし、その火で冷めた薬湯を、厨で借りた小鍋に入れて温め始める。

 例の、カモミールが多めに入ったお茶のような薬湯だ。

 長めに放置されることになった薬湯は、さすがにいつもより色が濃かったが、見かけほど渋みや苦みは濃くなく普通に飲めた。


「胸焼け、おさまりましたか?」


「え?ああ、そう……ですね、はい」


 寝台の縁に座って薬湯をすすりながら、俺はもぞもぞと答えた。

 そう言えば胸焼けしていた、すっかり忘れていたが。


「ものすごく単純ですけど、けっこう効くでしょう?深呼吸。ちょうど部屋の空気を入れ替えるように、身体の空気も入れ替える方がいい場合が多いのですよ」


「……そうですね」


 俺は苦笑いをかみしめてうつむき、薬湯を飲んだ。

 飲み易い温度に温め直された薬湯がゆっくりのどをあたため、じんわりと胃に広がる。


「アーナン先生」


 自分でもよくわからないまま俺は、アーナン先生に呼びかけていた。

 物問いたげに振り向いたアーナン先生と目が合い、少し困る。


「あ……いえ、その。前から少し、気にはなっていたんですけど」


 不躾かと遠慮していた問いを、俺は思い切ってぶつけることにした。


「先生は何故、医師になろうと思われたのですか?先生のお家は確か、代々領主お抱えの産婆の家系で、領主夫人をはじめとした貴婦人方や富豪の奥方の出産に携わっていらっしゃった、と聞きました。名誉ある素晴らしい家業ですよね。でも先生はわざわざ医師を目指された、とっても大変だったでしょうに」


 俺の言葉を聞き、先生は少し寂しげに笑った。


「まったくですね。医師を志したことそのものに悔いはありませんけど、アーナン家の為には決して良くなかった、そこには少し悔いもありますから」


「え?」


 王族の侍医にまでのぼりつめた彼女を、きっと一族は誇りにしているのだろうと単純に思っていた俺は、間の抜けた顔で彼女を見返した。

 彼女はもう一度寂しげに笑う。


「わたくしの出世を確かに親戚は喜んでくれましたけど、クリークスのアーナン家はわたくしの代で絶える形になりましたから。アーナンは産婆の家系、産婆は女性つまり娘でなければ家業を継げない縛りがあります。実際、産婆の娘が婿を取って今まで家を継いできました。優秀な若い産婆をアーナンの養女に迎え、弟の誰かとめあわせて家を継がせる話も出ましたが、うまく進みませんでした。わたくしはアーナン家の長女で唯一の娘、そのわたくしが産婆としての技術を持った上に医師の資格まで取ってしまったことで、逆にアーナンはクリークスで肩身が狭くなってしまったんです。少なくともクリークスで、わたくしが医師として診療することは事実上不可能でした」


「何故……」


 茫然と問う俺へ、アーナン先生はほほ笑む。


「クリークスの医師の(れん)が、わたくしを認めなかったのです。産婆は大切な仕事ですけど医師から見れば下等で、おまけに不浄不吉とされる仕事ですから。わたくしなど絶対連へ入れないと強硬に申し渡されましたね」


「……は?」


 意味がわからない。

 ポカンとした俺の顔を見て、アーナン先生はやや面白そうに、それでいて無知な子供をいたわるような感じに目許をゆるめた。


「今ならもう少し、ゆるやかなのかもしれませんけどね。三十年ばかり前の田舎町というのは、どこもそんな雰囲気だったのですよ。お産はラクレイアーンとレクライエーンのせめぎ合い、生、つまり光の側へと人を導く仕事である医師は、闇との際であるお産に近付くな、近付いて万一レクライエーンに魅入られれば患者に死をもたらす医師になってしまう……王都ではそんな迷信、とっくに忘れられていますけどね、田舎の方では未だに根強く残っているものなんです。たとえ領主お抱えのアーナン家の産婆であったとしても、我々は医師たちから常に冷たい扱いを受けていました。実はわたくし、幼い頃からそれが腹立たしくって。ならいっそ医師になって見返してやろうと思ったのですよ、気の強い娘でしたから。そうですね、マーノの質問に答えるのならば、わたくしが医師を志した一番目のきっかけは、クリークスの傲慢な医師たちへの怒り……でしょうか?」


 思いもかけない話に、俺はアーナン先生の顔を見つめたまま絶句した。


「それではわたくしもお訊きしましょうか。マーノはどうして護衛官を志したのですか?」


 逆に問われ、俺はやや慌てる。


「え?いえ、馬鹿みたいに子供(ガキ)っぽい理由ですよ。紺のお仕着せと銀の襟章が格好よくて憧れた、それだけです」


 澄んだ目でじっとこちらを見ているアーナン先生の視線をさけ、俺はごまかすように薬湯を一口すする。


「あ……その。五、六歳の頃に遊び半分で剣の手ほどきを受けてみたら、面白いくらい簡単に腕が上がったので調子に乗った……辺りも多分、理由ですね。この道を選んだらきっと俺は誰にも負けない、みたいなヘンな自信がありましたから。十歳くらいまでは、俺は自分のことを天才だと思っていましたし」


 ころころと楽しそうにアーナン先生は笑う。


「わかるような気がしますね。子供の頃のあなたは確かに、ちょっと鼻持ちならないくらい自信満々な男の子でしたから。でも、その自信に見合うだけの努力を惜しまないのは偉い、わたくしはいつもそう思っていましたよ」


 俺は首をかしげた。


「努力……してましたか?俺」


 暇さえあれば子供用の木の剣を振るってはいたが、自分としては遊びの延長みたいな感覚だったので『努力』だとは思っていなかった。


「練習し過ぎると肘や肩を傷めるからほどほどでやめなさいって、そういえばよくあなたへ注意しましたね。ものすごく不本意そうに睨まれましたけど」


「ううっ。も、申し訳ありませんでした」


 赤面ものの過去の話だ、俺としてはもごもごと謝るしかない。


 今ならわかる、アーナン先生が止めて下さった意味が。

 実際、アーナン先生が睡蓮宮を離れて一年ほど後に俺は、右肘を傷めて一ヶ月ばかり練習が出来ず、焦ったことがある。

 そしてその間にめきめきと腕を上げたトルーノに、あっさり追い越されてしまった。その差は未だに十分埋まっていない。己れが決して天才ではないことが、この件でよくわかった。


「でも、そういう地味で地道な努力を惜しまないあなたなら、きっといい護衛官になるだろうとわたくしは思ってましたよ。たとえ護衛官以外の仕事に就くにせよ、アイオール殿下にとってあなたはなくてはならない友であり、同時に腹心と言える従者になるだろうとも。大人になったあなたが、わたくしが思っていた以上に素晴らしい護衛官に成長していて、とても嬉しくなりましたね」


「それは……買いかぶりです、先生」


 薬湯の残りを飲み干し、俺は小さな声で答える。

 小さいが、自分でもぎくっとするほど苦みのある声だった。

 アーナン先生が驚いたように身じろぎしたので、俺はひとつ息をつき、彼女の方を見て笑みを作る。


「そう言っていただけるのは光栄ですけど、素晴らしいどころか最低の護衛官ですよ、俺……マイノール・タイスンは。素晴らしい護衛官なら、睡蓮宮内へ易々と暴漢に忍び込まれ、主が瀕死の状態になるまで傷付けられるような、取り返しのつかないへまなどしません」


 アーナン先生はただ、静かなまなざしで俺を見ていた。

 その包み込むようなまなざしに、ふっ、と何かが胸の中でゆれ動いた。

 てのひらで受けていた水がこぼれ落ちるように、押し込めていた思いがあふれ出る。


「アーナン先生。俺は最近、自分は何の為に護衛官になったのか、そもそも護衛官として勤め続けていていいのか、正直言うとよくわからなくなってしまっているんです」


 ひとつ大きく息をつく。

 あふれ出た思いは春の雪解け水のように滔々と流れ出す。


「俺がアイオール・デュ・ラクレイノ殿下の正護衛官でなくてはならない、必要は別にありませんよね?むしろ、俺みたいな最低の護衛官よりもっといい護衛官が近衛隊にはいるのですから、その人がアイオールの正護衛官を務めるべきじゃないかって思います。はっきり言ってその方がずっとアイオールの為かもしれません。俺が護衛官でなかったとしても、もっと言うと俺が睡蓮宮にいなかったとしても、アイオールが本当の意味で困ることなんかあるのだろうかとも思います。そりゃあ、今までそばにいた人間がいないと寂しいでしょうし、少しは困ることも出てくるでしょうけど、でもきっとそれだけですよね?俺がいてもいなくても、世界も睡蓮宮も変わりなく動くでしょうし、アイオールだって困らない。困らない、大して困らないんですよ、ちょっと真面目に考えてみたら。だったら俺がここにいる意味、アイオールの護衛官でいる意味なんかない……」


 言いながら、俺は一体何が言いたいんだろうと呆れた。

 子供じみた駄々、馬鹿みたいな愚痴に過ぎないではないかと思い、急に恥ずかしくなった。


「……申し訳ありません、つまらないことを言いました」


 口をつぐみ、先生から顔をそむけるようにして、カップに残った薬湯を飲み干すふりをした。



 アーナン先生は静かに近付いてくると、とっくに空になった薬湯のカップを俺から受け取る。


「つらいですね」


 ささやくような静かな声音で言い、先生はそばの椅子に腰掛けた。

 少し考え、やはり静かに彼女は言葉を続けた。


「マーノが何をもって『最低の護衛官』としているのかわたくしにはわかりませんけど。もし、『最低』の定義を務めを十分果たせず取り返しのつかない事態を招いたこと……とするのなら。わたくしは、最低の侍医でした」


 俺はぎょっとして先生の顔を見返す。


「侍医としてのわたくしの務めの第一義は、レーンの方とアイオールさまの健康を守ること。しかしわたくしはレーンの方が雪花熱を患うのを防げず、まだ三十歳にも満たないあの方がお亡くなりになってしまうのを防げませんでした。陛下の最愛の方を守れず、アイオールさまから母君を奪う結果に……」


「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 俺は思わず立ち上がる。


「そんな、先生が最低の侍医なんてとんでもない!むしろ最高の侍医でいらっしゃいました。俺は当時子供でしたから記憶があやふやな部分もありますけど、確かあの年、レーンの方は常より体調がいいと喜んでいらっしゃいませんでしたか?雪花熱だってそれほどひどい流行はしていませんでしたし、レーンの方が病を得られた時は冬になったばかりで、いつも雪花熱が流行するより早い時期でしたよね?でも先生はその頃から、宮の中をアルコールで消毒したり、空気が乾燥しないよう暖炉やストーブを点ける場合は湯を沸かす指示を皆に……」


「そんな程度の対策なら医師なら誰でもやっていますよ、マーノ」


 俺の言葉を断ち切るように先生はおっしゃった。


「それに、仕事は結果がすべて。そうでしょう?」



 絶句する俺へ、先生は、言葉とは裏腹の柔らかい笑みを浮かべる。


「あなたの苦しみや悔い、わたくしにもわからなくありません。あの当時、わたくしは己れの無力さにひしがれ、無能さに吐き気がしました。マーノは今、わたくしを最高の侍医だと言ってくれましたが、わたくし自身はとてもそうだとは思えませんね。そう……おそらくあなたが今、わたくしに素晴らしい護衛官だと言われても受け入れられない程度には」


「……先生」


 柔らかな笑みの中に、痛ましいものを見るような影がかすめる。


「もしあなたが、本気でご自分を最低だと思うのなら。おそらく最低なのでしょう」


 ぎくりと身が竦んだ。

 先生のその言葉は、自分でも思いがけないくらいの衝撃だった。


「どんなに周りの者が違うと言っても、あなたがそう思う限りそうでしょうね。でも、ただあなたがそう『思っている』だけで、本当は最高の護衛官かもしれないのですけども」


 やや諧謔めいた光が一瞬先生の目許に閃き、もう一度さっきのもの柔らかな笑みにかえる。


「思っていることを無理に変える必要はありませんよ、マーノ。あなたの心が感じていることを、無理にゆがめるのも健全とは言えませんから。ですが、自分が思っていることだけが事実でもなければ真実でもない、ただ自分がそう思っているだけなのだということは、頭の片隅に置いてみて下さいな」


「自分が……そう思っている、だけ」


 馬鹿な子供のように繰り返す俺へ先生はうなずき、ほほ笑む。


「夕食までもう少し時間がありますね。横になって休んだ方がいいですよ」

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