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3 厳冬の客人⑫

 二日ほど経つと俺の体調もずいぶん戻った。


 食事も普通に近いものを、普通の量くらい食べられるようになってきた。

 打撲や炎症も治まってきたようだ。

 まだどことなく違和感は残っているものの、日常の動作に必要以上気を遣うこともなくなってきた。


 実はものすごくほっとしている。

 元々が頑健な質だからか、俺はどうやら身体の不調に極端に弱いようだ。

 弱い、と今回初めて知った。

 体調が悪いと精神までがっくり萎えるらしく、それからそれへと鬱陶しいことを思いつめ、だんだん死にたい気分になってくるらしい。

 『死にたい気分』どころか、実際に死にかけたのだからしゃれにならない。


 あちこち痛かったりだるかったり、食欲がなくてメシが食えなかったり熱が出たり……という状態がどれほどつらいか、身に沁みて知った。

 体調がすっきりしなくてぐたぐたしているアイオールを見ては、この根性なしのお坊ちゃまめ、気合いが足りねえんだよと密かに苛立っていたが、これからはもうそんな不遜なことは思わない。


 こういうのは気合いや根性の問題ではない。

 痛いものは痛いし、つらいものはつらい。

 そういう状態になったら人間、どうしても落ち込みやすくなるものだ。

 よーくわかった。


 例の高熱が治まった後、朝夕の食事や湿布の貼り換えなんかは、おふくろが来てくれるようになった。

 そのこと自体は別にかまわないが、顔を見る度に同じことをくどくど言われ、参っている。


 熱が出た時どれほど心配したかから始まり、このままお前に死なれたらと思うと目の前が真っ暗になった、夫だけでなく息子にまで先立たれるなど、前世で私はどれほど罪深いことをしたのかと慄いた、何故こんなことになったのか、そもそもはお前を連れて乳母奉公に上がったのが間違えだったのだろうかなどなど、うわ言しか言わないお前を見ながら散々思い煩った……と。


 母は普段、この年配のおばさんにしてはさっぱりした気性というか、くどくどと愚痴を言ったりしない人だ。

 しかし今回は余程こたえたのだろう、涙ぐんで飽きもせずに同じ話を繰り返す。

 俺は、これも親孝行だと思って出来るだけ真面目に辛抱強く、彼女の話を聞くようにしている。


 アーナン先生は午後に一度、俺の様子を見に来る。

 その程度で大丈夫だと判断したのだろう。

 午後のお茶用の茶菓を手に、診察というより一緒にお茶を楽しむ雰囲気だ。


「順調そうですね」


 俺と目が合うとアーナン先生はそう言い、柔らかくほほ笑む。


「アイオールは大丈夫ですか?」


 俺が訊くと、ええ、体調は悪くなさそうでいらっしゃいますね、と彼女はいつもそう答える。

 しかしあの朝以来、アイオールは何故かこちらへ顔を出さない。

 いやまあ、相手は王子たるお方、俺の顔を見に来ないからって基本不平を言うつもりはないが、なんとなく不自然だ。


「そろそろ寝台から出て、睡蓮宮の中だけでも歩いてみてはどうですか?首元や足首は冷やさないように気を付けた方がいいでしょうけど、室内ならそれほど神経質にならなくても大丈夫でしょうから」


 ちょっと考え、そうですねそうしますと俺は諾った。

 夕方になっていつも通りおふくろが来た。

 が、どことなく顔色が冴えない。


「どうしたんだよ、かあさん。なんかあったのか?」


 訊くと、やや逡巡した後、おふくろは答えた。


「その……はっきりしたことは言えないんだけど。アイオールさまが、ちょっと……」


「具合が悪いのか?」


「具合が悪いっていうのとは違うんだけど」


 いつになく煮え切らない。


 食事をしながら聞いたおふくろの話をまとめると、こういうことらしい。


 アイオールの体調は決して悪くない。

 熱もないし吐き気もおさまっている。

 食欲旺盛とまでは言えないが、ちゃんと食事も摂れている。

 午前中は学習をさらったり読書をしたりと、体調の悪くない時の日課を淡々とこなしている。

 ただ、どことなく沈んでいる様子で、あまりしゃべらないし笑わない。

 午後は大体テラスで過ごすが、今までのようにゆっくり昼寝をするというより、ガラス越しに池の水面(みなも)をぼんやり見つめて考え事をしている時間の方が多い様子だ、と。


「それだけならまだいいんだけど……」


「え、まだなんかあるのか?」


 おふくろは言いにくそうに、一瞬口ごもった。


「その……泣いてらっしゃるのよ、眠りながら」



 翌日の午後。

 俺は寝間着を脱ぎ、あたたかい部屋着を選んで着替えた。

 首に、まだ子供の頃に母が編んでくれた小さな襟巻きを巻く。

 濃い灰色の、上等の細い毛糸で編まれた襟巻きだ。

 正式な名前は知らないが、肌あたりの柔らかい編み方で丁寧に編まれてある。


 子供の頃は、地味でじじむさい襟巻きだなと思い、編んでくれた母の気持ちは嬉しかったものの、ありがた迷惑な気分が強かった。

 しかし、質の良い毛糸で丁寧に編まれた襟巻きは、大人になった今でも十分役に立つ。

 むしろ今の方が重宝しているくらいだ。

 おそらく母は、長く使えるようにと考えて編んでくれたのだろう。


 母がアイオールの乳母になって以来、俺は、自分が母にとって二番目の存在なのだと思ってきた。

 あの人はまず、俺の母親というより王子の乳母でなくてはならないのだから。

 そして俺は王子の乳兄弟にして腹心の従者、なのだ、子供の頃から。


 当たり前すぎて疑問を持つ余地すらなかった、あまりにも自明なこの状態。

 決してそれが嫌なのではない。

 過去に、そういう自分の境遇を鬱陶しく思った事はあるが、心底嫌だと思った事は一度もない。


 軽くため息をつき、もう一度襟巻きにふれて形を整える。

 そして俺は自室の扉を開けた。



 こうして歩くのはずいぶんと久しぶりのような気がする。

 ほんの三、四日部屋にこもっていただけだが、数か月ぶりのような気すらした。


 思えば、のんびり歩くということそのものがなかったのかもしれない。

 そんな余裕など、ここしばらくまったくなかった。

 まったくなかった、ことを改めて自覚した。


 まずはアイオールの居間へ行く。

 居間に詰めている侍女に、あの方はテラスで寛いでいるはずだと聞かされる。


 果たしてテラスにアイオールはいた。

 はいていた部屋履きをテラスの入口で脱いで靴下になり、鹿の毛皮を踏んでヤツに近付く。

 サルーンは近くにいない。

 おそらく、いる必要はないと彼は判断しているのだろう。


 おふくろの話ではヤツはこのところ、池を見つめて深刻そうに考え事をしているということだったが、今見る限りでは寝椅子に長々と身を横たえ、のんきにお昼寝あそばしている。


(なんだ、昼寝してるじゃねえか。そんな大して深刻でもなさそう……)


 思いながら近付き、次の瞬間、俺はぎょっとした。

 深紅のベルベットの寝椅子にあおむけに寝転び、腹の辺りに母君のショールを乗せたアイオールの閉じられたまぶたが、うっすらとぬれていたのだ。


 気配を感じたか、アイオールは目を開けた。

 腫れぼったい重いまぶたをこじ開け、俺に気付くとちょっと笑った。


「やあ。散歩を始めるとかアーナン先生からも聞いてたけど、ずいぶん良くなってきたみたいだね。痛みの方はどうだい?」


 ごく普通の口調、静かな声でヤツは言った。

 ぬれた目許と平静な声のちぐはぐさ、強烈な違和感がある。


「いや……おかげで痛みはほとんどない」


 茫然と答える俺へ、そうか良かったと言いながら、アイオールは起き上がった。


「せっかく来たんだ、一緒にお茶でも飲もうよ。お菓子と軽食、どっちを食べたい気分だ?いい方を多めに……」


 呼び鈴に手を伸ばそうとして、棒立ちになっている俺を訝しく思ったのか、アイオールは動きを止める。


「なんだ、どうした?」


(どーした、じゃねえよ……)


 心で言うが、声に出すのはさすがに躊躇する。

 アイオールは気付いたか、ああ、と言ってやや恥ずかしそうに苦笑し、目をこすった。


「悪い……夢でも見てたのか?」


 そんな風に言ってみると、アイオールは苦笑を深めた。


「そうとも言えるけど、必ずしもそうじゃないな。実はこのところ、眠ると母上の夢を見るんだ」


 言うとアイオールは俺から目をそらし、まあその辺にでも座ってくれよと手で示す。

 俺はいつもの習慣の通り、片膝を立てた形で寝椅子のそばに座った。

 軽く目をこすり、アイオールは続ける。


「夢の中で母上は大抵、睡蓮の池の周りで舞を舞っていらっしゃるんだ。真っ白なレーンの神官の衣装を身につけていて、軽やかに、とても優雅に舞っていらっしゃる。私はどこからともなく、舞う母上の姿をうっとりと見ている……」


 そこでヤツは言葉を詰まらせた。

 俺は黙ってアイオールの言葉を待った。


「そして思うんだよ。ああ、母上は亡くなられたんだなって」


 鼻声になりかけた声で言い、慌てたようにヤツは口をつぐむ。

 軽く唇をかんでうるんだ目を一瞬伏せ、きまり悪そうにちょっと笑った。


「今更、だろう?でもそう思うんだ。すごく寂しい夢なんだけど、私としては決して悪い夢じゃない。何かがすとんと腑に落ちて、むしろ清々しい感じさえする」


 息をつき、一度軽く目を閉じた後に俺を見る。

 水気を含んだ腫れぼったいまぶたの下で、菫色の瞳がゆれていた。


「本当を言うとわかっているんだ、最初からちゃんと」


 とても静かな声でアイオールは言い、ふっと目を伏せた。


「母上は私が七歳の冬に、重い雪花熱を患ってお亡くなりになられた。乳母(ばあ)や……タイスン夫人が、母上の死を受け入れられず混乱している私をなだめる為に、おかあさまは御用が出来てラクレイドを離れることになったって言ったことも。全部ちゃんとわかっている、たとえその時七歳の子供だったとしてもね。だけど……」


 アイオールは眉を寄せ、つぶやく。


「心の何処かが、それを認めようとしないんだ」


 疲れたような怒っているような複雑な感じに、アイオールは頬をゆがめた。


「ヒトとはそういうものなのかもしれないし、もしかすると私だけの悪癖なのかもしれないんだけど。受け入れるのがつらすぎる事実は、形をゆがめてでもごまかそうとするんだ」


 俺はぎくりと身じろぎした。


「私は母上が大好きだった、多分他の誰よりも。もう会えないなんて、当時の私にはとても耐えられなかった。だから自分に言い聞かせ続けたんだ、ほとんど無意識だったんだけどね。……おかあさまはどうしても行かなくてはならない御用で出かけていらっしゃるけど、いい子で待っていたら必ず迎えに来て下さる……って」


 さすがにアイオールは恥ずかしそうに頬を染めた。


「わかっている。馬鹿馬鹿しいよね、本当に馬鹿馬鹿しい、自分でもよくわかっているよ。わかっているくせにその欺瞞、その戯言にしがみついて……一番大切なことを、取り落としてしまっていたんだよ。私は今の今までずっと、母上をちゃんと悼んで弔わなかった」


「え?」


 思いがけない言葉に驚く俺へ視線を合わせ、アイオールは静かに笑んだ。

 ひどく大人びた綺麗な笑みだった。

 自傷を図った時の笑みに似ているが、あの時のようなもろく儚い笑みではなかった。


「もちろん儀式や形式の話じゃない。それはちゃんとしてきたはずだよ、母を亡くした王子としてね。でも思うんだけど、『悼む』『弔う』の本当は、大切な人がもういないことを事実として受け入れること……なんだよ、きっと。今更だけど私は亡くなった母上を心から悼み、弔っているんだ」


 言葉を失くして黙り込む俺へ、アイオールは少し困った顔をした。


「ごめん、なんだか変な話をしてしまって。さあ、気分を変えてお茶にしようよ」


 アイオールは今度こそ、小卓の呼び鈴を取り上げた。



 自室へ戻り、俺は寝台の縁に座った。

 何故かがっくり疲れていた。


 お茶を始めてからアイオールは、すっぱりと切り替えたように明るくなった。

 お菓子にも軽食にもよく手を伸ばしたし、お茶のおかわりもした。

 話題も明るい。明るくなるよう選んでいたのかもしれないが。

 たとえば、ライオナール殿下の婚礼が初夏に予定されている、そのおめでたい席でセイイール殿下と一緒に祝いの歌や曲を披露する予定だが、セイイール殿下が練習に乗り気でない風で困っている、とか。

 この春から侍従として出仕するグラノール・デュ・ラク・ロクサーノは、睡蓮宮の侍従長の補佐役につく予定だから楽しみにしている、とか。

 セルヴァン公国のシュルツ公子は、まだ十二歳なのに玄人はだしの達者な絵を描くが、本人はあまり気付いていないようでもったいない、とか。


「ライオナール兄上への婚礼祝いの品のひとつに、小さいのでいいからシュルツの絵を加えようと思っているんだ」


 あの子、驚いて目を回すだろうね。そんなことを言ってアイオールは笑う。


 常より饒舌なアイオールに相槌を打ちながら、俺もついつい、刻んだくるみがたっぷり入った焼き菓子を食べ過ぎてしまった。バターの油っけが重くて、少し胸焼けがする。


「ふうう……」


 思わず大きく息をつく。

 胸焼けのせいもあるのか、なんとなく気分がすっきりしない。

 そのまま寝台に横たわり、見慣れた天井の木目を見る。


(そもそも……俺は。アイオールの護衛官をやっていていいのか?必要とされているのか?)


 そんな言葉がふっと、もやもやとした胸から浮かび上がり、ぎくっとした。

 問うてはいけないと、無意識のうちに押し込めてきた疑問だ。うやむやにしてごまかしてきた自覚が、正直言ってなくもない。

 俺はもう一度大きく息を吐き、意味もなく天井板をにらんだ。


(俺が……あいつの護衛官でなければならない必要は、ない、よな?)


 母君をきちんと弔えれば、あいつの中でしつこくわだかまっていた不穏な影は、ゆっくりと消えてゆくだろう。


 同じように、例の落馬事件のあらましを正確に知った上で受け入れることが出来れば、アイオールはきっと立ち直れる。


 そもそもヤツは立ち直りたいが為に俺を散歩に誘い、気絶しそうになりながらも己れの身に起こった事実を確かめたのだ。

 少なくとも、ヤツをよく知る者がそばで支えてやらなくては正気すらあやうい、そんな状態は脱しつつある。

 アイオールが立ち直りそうで良かった、嬉しいと思う感情が決してないのではない。

 しかし何故か、それを上回る脱力感や虚無感にひしがれてしまう。

 俺がこの世にいる必要などない気がして、ひどく寂しい。寂しくてたまらない。

 その寂しさの裏側で、なんだかあいつに裏切られたような恨めしさすら湧いてくる、恨む筋合いなどないと言うのに。


(護衛官としてあなたに従う、己れの命を差し出すのも厭わない……あの誓いをまっとう出来るのか?こんな状態で)


 あの誓いに相応しい護衛官は、俺ではない誰かなのではないか?


 これは、あいつを守れなかったあの日から深い後悔と共にある疑問であり、ある意味確信とも言えよう。

 俺は銀の襟章に相応しくない最低の護衛官だ。

 最低なら最低なりに前へ進んでやろうと開き直ったものの、そもそも俺がアイオール・デュ・ラクレイノの正護衛官である意義の第一番は、精神的にあやういところのある主を知っていて支えられる、幼馴染の乳兄弟だという部分だろう。


 だけど、あいつが精神的に大人になり、そのあやうい影を自ら昇華出来るのであれば。

 俺が、あいつのそばにいる必要など、ない。

 ない。ない。必要など、ない。


「ははは」


 笑うしかない。

 のろのろと身を起こし、のろのろと立ち上がる。


 暖炉の前にしゃがみ、埋めておいた火をかきたてる。

 めらめらとゆれる火の中へ新しい薪をくべる。

 薪の肌をなめる炎のゆらぎをしばらく見た後、俺は再びのろのろと立ち上がった。


 着替えをしようと、まずは襟巻を取る。

 柔らかく優しい毛糸の感触。

 ふと、これを編んでいた時のおふくろは、アイオール王子の乳母ではなくマイノールの母親、だったかもしれないなと思った。


「……神山ラクレイの西・クルサテのタイスンを祖とするルクリエールの息子、マイノール・タイスンと申します」


 正式な名乗りの作法に則った挨拶の口上を述べ、俺は、虚空へ向けて頭を下げる。


「ルクリエールと……サリアーナの息子、です」

 不意に目頭が熱くなり、視界がぼやけた。

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