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3 厳冬の客人⑪

 とにかくその場でぼうっとしている訳にもいかない。


 俺はアイオールを立たせ、引きずるように陽だまりの石段へ連れて行く。

 襟巻を取り、きちんと閉めていた首元を寛げる。

 思ったよりも襟巻や外套に吐瀉物は付いていなかったので、ちょっとほっとした。


 アイオールがちゃんと座ったのを確認すると、俺は厨へ走ろうとした。

 が、きびすを返して思い切り地面を蹴った途端、ぐきっ、と身体がゆらいだ。

 たたらを踏み、不本意ながら走るのはあきらめた。

 だが可能な限りに早く歩いて進む。


 時間が中途半端だからか厨は無人だった。

 手近にあったコップで水を汲み、俺は急いで戻る。


 石段の下に、黒っぽいものが長々と伸びていたのでぎょっとした。


「アイオール!」


 叫ぶように呼びかけると、アイオールは身じろぎした。


「ああ……ごめん。びっくりさせたかな?座ってるのが何だかつらくなってきて。行儀悪いし服も汚れるけど、横になりたくなったんだよ」


 疲れた感じだったが落ち着いた口調なので安心し、力が抜けた。

 どっと汗がふき出す。

 ヤツはのろのろ起き上がり、やや恥ずかしそうに笑った。


「水を持って来てくれたのか?ありがとう」


 差し出したコップを受け取り、軽く口をゆすいで石段の陰に数回そっと吐き出した。

 空になったコップを俺に返し、少しさっぱりした顔でアイオールは笑む。


「ありがとう。世話をかけたね。戻ろうか?」


 立ち上がり、歩く。

 ふらつくほどではないが、雲を踏むような頼りない足取りだ。

 俺はコップと襟巻を持ち、アイオールの後ろを歩く。

 もし倒れるようなことがあれば支えなければならない、利き手を空ける。


「……マーノ」


 ふと思い付いたように立ち止まり、アイオールは俺を呼ぶ。俺はヤツの顔を覗き込む。


「人の心って不思議だな」


 俺と目が合うと、アイオールは茫然とした感じでそう言った。


「え?」


 意味がよくわからず聞き返した。

 アイオールは、ふっと正気に返ったような目になると曖昧に笑って首を振り、後は何も言わずに足を進めた。



 宮に戻るとアイオールの世話は侍女たちに頼み、俺はサーティン先生を呼びに行く。

 そしてアイオールが寝室に落ち着いたのを確認した後、自室へ戻った。

 のろのろと寝間着に着替える。

 時間が経つにつれ、じわじわと後悔が深まってゆく。


(なんで……あんな言い方をしてしまったんだろう)


 あれでは、お前は下衆なちんぴらどもの慰みものになったと言ったも同然ではないか。

 いくら何でもひどい、もう少し配慮のある言い方だって出来たはずなのに。


 あくまでもあいつは被害者だ。

 それも、例えばこっそり宮殿を抜け出して独りで危険な場所を出歩いていたとか、襲われても仕方がない状況だったのではない。

 生まれた時から住んでいる離宮の庭で、日課の散策をしていただけだ。

 襲われるなどあってはならない、いや、あり得ない状況で襲われてしまった。あいつには落ち度などまったくない。

 落ち度があるとすれば我々、特に護衛官である俺の方にこそ……。


(あっ!)


 頭で何かが閃く。

 すべてが一瞬で見え、息が止まって硬直した。


「あ……、は、ははは」


 渇いた笑いが次に出てきた。身体中から一気に力が抜ける。

 俺はがっくりと寝台の縁に座り込んだ。


(俺は……)


 自分の落ち度、自分の罪を嫌というほど知っている。


 だが、来る日も来る日も自分の落ち度を自覚し続けるというのは苦しい。

 鼻先に己れの罪を突きつけ続けられる状況も、かなり辛い。

 アイオールの苦しみが続く限り、俺は己れの落ち度をまざまざと自覚させられ、罪を突きつけられる。


 だから俺は一日も早く、アイオールに立ち直って欲しかったのだ。

 あいつが立ち直ってさえくれれば……俺の苦しみの半分以上、もしくは大半が消えるから。

 なのにアイオールはいつまでも立ち直らない。

 それどころか、いつ立ち直るのかさえまったく見通せないのが現状だ。


 つまりは俺の苦しみも果てしなく続く。

 要するにそれが身を損なうほどの俺の悩み、俺の絶望だったのだ!


 トルーノに言った理由は、嘘とまでは言わないが、美しくもっともらしく取り繕われた建前だ。


 本音はそんなにいいもんじゃない。

 俺を苦しくさせる今の状況に、単に心底うんざりしていただけなのだ!


「ははははっ!」


 ……最低だ。反吐が出る。

 護衛官としてどうとかいうより以前、人間としてどうなんだ。

 最低だ、最低の男だなマイノール・タイスンよ。

 俺はお前を、世界で一番軽蔑する!



 扉を叩く音が何度か、遠くから聞こえた。

 部屋に戻ってずいぶん経つらしい、陽射しが斜めになってきている。

 だが俺はあれきり、掛け物もろくに掛けず寝台に寝転がったまま放心していた。


「入りますよ、マーノ。よろしいですか?」


 そう言いながらアーナン先生が扉を開ける。

 俺は目だけを動かし、ぼんやりと老女医を見る。

 老いたとはいえすっきりとしたそのたたずまい、己れに恥じず生きてきた人とはこういう感じなのだろうか。思わず卑屈に口許が歪む。


 アーナン先生は茶器らしいものを乗せた盆を持ち、驚いたように入り口で立ち尽くした。


「まあ。こんな冷え切った部屋で。風邪をひいてしまいますよ」


 盆を小卓に置くと、アーナン先生は急いで部屋の暖炉の火を起こす。

 俺はその様をぼんやり見ながら、取りあえず半身を起こした。寒さのせいか長く同じ姿勢でいたせいか、関節がミシミシと痛む。


 火を起こして振り返り、俺と目が合うとアーナン先生は眉を寄せた。


「顔色が良くありませんね。どうかしましたか、マーノ?」


「アイオールは大丈夫ですか?」


 あえて問いには答えず、おためごかしだなと自分でも思ったが、俺はアイオールの具合を聞く。

 アーナン先生は思い直したように柔らかく笑んだ。


「お散歩中に戻されたということでしたけど、ご本人は落ち着いていらっしゃいますよ。まだなんとなく吐き気は残っていらっしゃるそうですけど、特にお熱もありませんし」


 そうですか、と気の抜けたように答え、俺は再びごろっと横になった。

 妙にだるくて座っているのが辛い。


 アーナン先生は軽く眉を寄せて俺を見たまま、静かに言葉を続けた。


「わたくしはあの方に、マーノの様子を見てやってくれと頼まれたのですよ。私のわがままであれに辛い思いをさせてしまったから、と」


 え?と俺は、横になったままつぶやくように問う。

 意味がよくわからない。

 辛い思いをさせてしまったのは、むしろ俺だろう。


「あの方は、散歩の後はあなたと一緒にお茶でもと思って用意させていらっしゃったのです。残念ながら吐き気が治まりきらないから、せめてマーノだけでもお茶とお菓子を楽しんでもらいたい、無理なことばかり言って済まなかったと伝えてくれ、そうおっしゃっていました」


「は……そ……なん、です、か……」


 なんだか息苦しくなってきた。

 気付くと浅い呼吸を何度も繰り返している。

 額に浮いた汗を、無意識のうちにてのひらでぬぐう。


 アーナン先生はきつく眉を寄せた。


「マーノ」


 口調が変わる。どことなく緊張をはらんだ医師の声音だ。


「あなた、ひょっとして熱があるんじゃないですか?」


(熱……?)


 アーナン先生の言葉を胸で繰り返した辺りで、俺の記憶は曖昧になった。



 ぼやけてゆがむ視界の中に、色々な顔が現れては消える。

 でもそれが夢なのかうつつなのか、正直よくわからない。


「ごめん。すまない。俺のせいだ」


 誰の顔を見ても俺は謝っていた。

 せいせいとせわしなく呼吸しながら、俺は詫びの言葉を繰り返す。

 一体何を詫びているのか自分でもわからなかったが、重い罪悪感がどっしりと胸に居座っていて、とにかく詫びずにはいられなかったのだ。


「すまない。すまない。俺が悪いんだ……」


 繰り返す詫びに、意味があるのかないのかすらもすでにわからない。

 途切れ途切れに明るむ意識を、俺は謝罪で埋め尽くしていた。


「すまない。俺のせい……」



「大馬鹿者!」


 突然怒鳴りつけられ、さすがに俺は驚く。

 ぼやけた視界の中で、菫の瞳を怒らせたアイオールの顔が見えた。


「いい加減にしろ!お前はこれ以上謝る必要などない!勝手に罪悪感を抱え込んで、勝手にこのまま自滅する気かっ?」


 怒り狂ったアイオールの目には涙がにじんでいる。


「これ以上必要のない罪悪感は持つな!これは命令だ!わかったな、マイノール・タイスン!」


 ぼんやりと俺は、無茶苦茶な命令をする主の顔を見た。


「返事はっ?」


 裏返った声で叫ぶ主の、勢いに押されるように俺は答えた。


「み、御心の、ままに……」



 目が覚めた。

 激しい清流で身体中を晒されたような、不思議な清々しさがあった。

 息をつき、俺はゆっくりと身を起こす。


「熱が下がったようですね、これで一安心です」


 アーナン先生の声。俺は声の方へ顔を向ける。


 疲れた顔をしたアーナン先生がそこにいて、笑みを浮かべた。彼女のそばには持ち込まれたらしい寝椅子があり、掛け物を引き被った誰かが丸くなって眠っていた。


「先生、俺は一体……」


「あなたは一時、危篤だったんですよ」


 俺に湯冷ましをすすめながら、静かな顔でアーナン先生は言った。

 キトク、という単語の意味が一瞬わからず、混乱する。

 混乱しながらも口にした湯冷ましが、びっくりするほど甘い。

 あっという間に飲み干した。

 すぐに先生がつぎ足して下さったので、喉を鳴らしてまた飲み干す。


「丸一昼夜高熱が続いて意識も朦朧としている上、水分も十分取れない状態でしたので。最悪の場合を覚悟して下さいとおかあさまにも申し上げました」


「最悪?」


 息をついて問うと、


「つまり死ぬということだ」


 と、寝椅子で丸まっていた者が不意に起き上がった。

 腫れぼったい憮然とした顔の、アイオールだった。


「へ?な、なんでお前がここに……」


「この親不孝者。乳母(ばあ)やは泣いていたんだぞ。どれだけ呼びかけてもごめんとすまないしか言わないし、アーナン先生と自分の母親の顔もわかっていなかったんだろう?」


 むっとした顔でなじるように言われたが、記憶が曖昧なのでピンとこない。

 首をかしげる俺へ、アイオールは苛立ったように言葉を続ける。


「私は今までも何度か言ったはずだぞ、罪悪感を持つなって。持つなと言われても、はいわかりました持ちませんってことにはならないだろうがな、だからって何も自分で望んで病気になることはないだろうが!そんなことされても誰も喜ばない、悲しむ人間が増えるだけだぞ!」


「……は?え?」


「アイオールさま」


 たしなめるようなアーナン先生の呼びかけに、さすがにアイオールは口をつぐむ。


「マーノはまだまだ本調子じゃありませんよ。ようやく熱がおりたばかりで、自分がどんなに危険な状態だったかさえ理解出来ていないでしょう。もう少し落ち着いてから……」


 アーナン先生に言葉が終わる前に、すさまじい物音がしてだしぬけに扉が開いた。

 よれよれの服に乱れた髪、そそけた表情の母だった。


「マーノ!」


 断末魔の鶏のような声で叫び、母は真っ直ぐ俺のそばに来ると有無を言わせず抱きしめた。


「マーノ、マーノ!」


 状況がよくわからないながらも俺はおずおずと、俺の名を呼んでむせび泣く母の背を撫ぜた。

 深い疲れを感じさせる、汗のにおいの濃い母の体臭。訳もなく物悲しかった。


「ごめん、心配かけて」


 そう言うと母は寄り掛かったまま、軽くげんこつに固めた右手で俺の肩を何度も叩いた。

 生暖かい涙が寝間着の胸元にしみてくる。


 視界の隅でアイオールが一瞬、寂しそうな瞳でうつむいた。



 まぶたに明かり取り越しの午後の陽射しを感じながら、俺はゆるゆると眠る。


 ほとんど快いといえる疲労感。今までになく穏やかな気持ちだ。


 目覚めた朝は熱を出した午後から数えて二日経っていると聞かされ、驚いた。

 ずいぶん長く苦しんでいたような気もする反面、朦朧としていた時間が長かったせいか、せいぜい半日程度のような印象もある。


「熱を出した直接のきっかけは、身体を冷やしてしまったせいで風邪を呼び込んでしまった為でしょう。けど、すさまじいまでの高熱が出てなかなかそれがおりなかったのは、あなたの中に根深くある罪悪感のせいだと思われますね」


 母とアイオールがそれぞれ、食事などの為に俺の部屋を後にしてからアーナン先生はおっしゃった。


「熱に浮かされたうわ言はすべて、謝罪の言葉でした。ごめん、すまない、俺のせいだ。とても苦しそうに何度も何度も、あなたは謝っていらっしゃいましたよ」


 周りにいる者がいたたまれなくなるうわ言でしたね、苦笑まじりのアーナン先生の言葉に、


「それは……申し訳ありませんでした」


 もぞもぞと俺は詫びた。

 誰かの顔を見るたび意味なくしきりに謝っていたような記憶は、確かにある。


「でも、昨夜遅くにアイオールさまから叱られて以来、あなたの中で何かが納得出来たのでしょうね。謝罪をやめ、以後ゆっくりと熱がおりてゆきました。熱さましの薬湯以上に、アイオールさまの一喝が効いた様子ですねえ」


 あなた方の絆は本当に素晴らしいですね、とアーナン先生はほほ笑む。

 なんと答えてよいのかわからず、俺は目をそらして曖昧に笑った。


 スープの上澄みにパンの柔らかいところ、などという軽い食事を済ませた後、アーナン先生は、もう大丈夫でしょうと自室へ戻られた。


 一人になり、俺は寝台でうとうとする。


 不思議な気分だ。

 なんだかとても心が穏やかだ。


 状況は何も変わっていないのに、発熱する前の狂おしい自己嫌悪の大半は消えていた。

 うじうじしている自分が白日の下にさらけ出され、開き直ったというか諦めがついたというか、そんな気分なのかもしれない。


(最低なら最低から始めてやる。これより下はないんだ、失うものもありゃしねえ。ある意味気楽じゃねえかよ)


 思うともなく思いつつ、俺はとろとろと眠り続ける。

 やけくそじみているが、決してやけくそなだけではなかった。


 そして、今日からさらに向こう五日間、このまま安静を続けるようにと、アーナン先生から厳命されてしまった。

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