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3 厳冬の客人⑧

 自室へ帰り、また時間をかけながら今度は寝間着に着替える。

 別にかけたくないのだが、どうしてもかかってしまう。


 健康のありがたみがしみじみ身に沁みる。

 己れの頑健さがうとましいと心の隅でいつも思っていたが、とんでもない話だった。

 何処も痛くない健やかな状態というのは、それだけで本当にありがたい。

 なんだか爺さまの説教みたいだが、俺は今、心の底からそう思う。


 寝台に横たわり、大息をつく。ぐったり疲れた。


 扉を叩く音にはっとする。

 どうやら横になった途端うとうとしていたらしい。


「どうぞ」


 応える。盆を手にしたアーナン先生だった。


「体調はいかがですか、マーノ」


「ええ……まあ」


 曖昧に答えを濁す。

 悪いと言えば悪いが、あちこち痛いのもだるいのも、原因ははっきりしている。事々しく言うようなことでもなかろう。


「昨夜、あまり食べられなかったそうですね」


 そうだった。

 俺にしては珍しく、昨夜は食が進まなかった。

 まあ、こうあちこち痛いとさすがに食い気も衰えるだろうが。


「そう…ですね。腕ひとつ上げるのも痛むものですから、なんだか食べるのもおっくうになってしまいまして」


 アーナン先生はかすかに眉を寄せた。


「なるほど。では、食事の介助をさせていただき……」


「い、いえいえ。とんでもないです、メシくらい自分で食えます」


 慌てて断る。いくら何でもそこまでしてもらう訳にはいかない。


「そうですか?わたくしでは気を遣うようなら、おかあさまに来ていただくことも出来ますが」


「あー、いえいえ。ホント、ホントに大丈夫ですから」


 ヘンな汗が出てきた。

 別に両手が使えない状態なのではない。

 それなのに、お袋に、あーんなどとクソ恥ずかしいことをやってもらうなど、はっきり悪夢だ。


 アーナン先生はやや可笑しそうに頬をゆがめたが、それ以上は言わなかった。


「あまり食が進まないようですので、厨に頼んで胃腸に優しい麦粥を作ってもらいました。今日のところはとりあえず、お粥を食べて下さいな」


 うへえ、と思った。

 押し麦を水と牛乳で煮込んだ麦粥は、俺は子供の頃から苦手なのだ。

 たまに朝めしで出た時などはわがままを言って、砂糖や蜜を多めにかけてもらい、なんとか流し込んできた。


「厨の方でマーノは麦粥が苦手だとは聞きましたが、今日のところは胃腸に余計な負担をかけないことを第一に考えましょう。蜂蜜も持って来ましたから、なんとか食べてみて下さいな」


 俺は寝台に半身を起こし、内心渋々、スプーンを握る。

 深皿に盛られた一杯を、蜂蜜の甘味を頼りにスプーンで流し込むように食べる。

 おくびをもらしながら少し冷めかけた白湯で、口の中の麦粥の名残りを清める。

 食事というより、何かの罰を受けているような気分だ。


「落ち着いたら薬湯を飲んで下さい。薬湯を飲んだ後に湿布を貼り換えましょうね」


 きびきびとした口調でアーナン先生はおっしゃった。

 逆らう自由などそもそもないのだ、先生のおっしゃる通りに致しますよ……。心の中で俺はつぶやく。

 白湯の後、あたたかみの残る薬湯をゆっくりと飲む。

 麦粥よりよほど飲み易く、ほっとする。


 お袋が顔を出した。

 あらかじめアーナン先生が話をつけていたのだろう。

 アーナン先生とお袋とで、湿布を貼り換えてくれる。

 貼り換える前に、ぬるま湯で絞った柔らかい布で身体まで拭いてもらい、やや気恥ずかしかった。

 こんな風に世話をされたのは、ごく幼い頃以来だ。


 二人が立ち去った後、俺はぐったりと寝台に身を預けて目を閉じた。

 一日分の仕事を済ませた気分だった。



 結局その日、俺はほぼ一日うとうとし続けた。

 薬湯の効果もあるのだろうが、眠っても眠ってもいくらでも眠れるのが我ながら不気味だった。


 夕食にと、再びアーナン先生が持って来て下さった粥を胃の中へ流し込んだ頃、ふらっとアイオールが訪ねてきたので驚いた。

 寝間着の上へあたたかそうな厚地のガウン、足元はうさぎの毛皮を張った部屋履きといういかにも病み上がりないでたちだった。


「お、おい!お前病み上がりだろう?ふらふら出歩いて大丈夫なのか?」


 半ば以上咎めるような俺の言葉に、アイオールは眉を寄せる。


「今のお前がそれを言うか?お前の方が私以上に大変な状態だろうが。話によると昨日の早朝、サルーン護衛官と鍛錬をしていて怪我をした揚げ句、意識不明になったそうじゃないか。本当は昨日のうちに顔を出したかったんだけど、中々正気に返らないって聞いたから、今まで遠慮をしていたんだぞ」


 俺は思わず口をつぐむ。


 まあ……その。

 あの状況を言葉で説明するのなら、確かに『鍛錬をしていて怪我をした揚げ句、意識不明になった』で間違ってはいないが、アイオールの認識と俺の実際にはずれがあるような気がする。

 これは、アイオールの認識ほど大層な話なのではなく、俺が間抜けだったからしなくてもいい怪我をし、睡眠不足だったから結果的に気を失った、ただそれだけなのだ。

 少なくとも俺はそう思っている。

 アイオールはふと真顔になった。


「最近お前、なんとなく顔色が冴えないなとは思っていたんだけど。でもまさか、倒れて意識をなくすほど体調を崩していたとは思っていなかったんだ。己れの護衛官がここまで疲弊していることに気付かなかったなんて、主人として失格だと思う。今後はもっと心を配るよう努める、許してくれ」


 そしてきちんと姿勢を正して頭を下げたので、俺は大いに慌てた。


「あああ、いや、あのその。わ、悪いのは自己管理が出来なかった俺の方で、え、えーとその。も、申し訳ありません、殿下をはじめ皆様方にご迷惑をおかけして……あ、あのその、心からお詫びを……あ、あのその、えっと……」


 へどもどしている俺の前に、いつもの薬湯が差し出された。


「アイオールさまもお座りになって下さいませ」


 アーナン先生に柔らかく椅子を勧められ、アイオールは、半ば仕方なさそうに座った。


「昨日も少しご説明させていただいた通り、マーノの怪我の大半は、打撲と関節や筋肉の炎症です。大量に出血をしたという訳でもありません。外から見てわかりにくい怪我なのが厄介ですが、時間さえかければ必ず治ります、あまりご心配なさらなくても大丈夫ですよ」


 アーナン先生はアイオールを安心させるようにそう言う。

 しかし、ただ……と言葉を継ぐと、少し考えるように彼女は目を伏せた。


「どちらかと言うと怪我そのものより、疲労がたまって内臓まで疲れている状態なのが気になりますね。でも、これもきちんと休めば回復しますから」


「内臓?」


 俺が素っ頓狂な声を上げると、アーナン先生は真顔でこちらを見た。


「マーノ。あなたはかなり内臓が弱っていますよ、自覚してらっしゃらないでしょうけど。念の為に一応聞きますが、あなたは日常的に深酒をしますか?」


 思いもかけない問いに、俺はきょとんとする。


「は?いいえ。酒は嫌いじゃありませんけど、ものすごく好きというほどでもないですから日常的には飲まないですね。第一、深酒は務めに差し障りますし。寝付けない時なんかに蒸留酒を少し、飲むというか嘗めるというかはありますけど」


「きつい煙草を嗜んだりは?」


 俺は首を振る。


「しませんね。煙草は味覚や臭覚を鈍らせるのでやめておいた方がいいと教わりましたし。自分自身に煙草のにおいがしみつくのも、こういう務めをする者としてはいろんな意味で良くないでしょう。そもそも、刺客の気配や危険な薬物なんかを察知するのに味覚や臭覚は大事ですから、損なうようなことはしたくないですしね」


 苦笑じみたような笑みを浮かべ、アーナン先生は言う。


「護衛官として模範的ですね、当然と言えば当然の心がけですけど。お酒も煙草も内臓にあまりいい影響を与えないのですけど、あなたはどちらも嗜んでいないご様子。でも、それにもかかわらずあなたの内臓はかなり疲れていますよ。肉体的、精神的な疲れが限界を超えてたまっていたということでしょう。お気づきになりませんか?あなたの汗は今、鉄さびのにおいがしますよ」


 え、とアイオールが声を上げる。


「じゃあ……このかすかな鉄さびのにおい、マーノの汗のにおいだったのですか?てっきり武具か馬具の何かが錆びているのだと……」


 俺は慌てて自分の腕や寝間着の胸元のにおいをかいでみたが、別に変なにおいはしなかった。

 首をかしげる俺へ、アーナン先生は言う。


「自分のにおいは自分で感じにくいですから、わからなくても仕方がありませんね。でも、こういう汗をかくのは肝臓や腎臓が弱っている証拠なのです。わたくしが最低でも五日、安静にと言った訳を納得していただけましたでしょう?」


 俺も絶句したがアイオールも絶句していた。

 顔色が一気に青ざめ、俺としては自分の体調よりそちらの方がよほど気になった。


「お、おい……」


 声をかけたが、アイオールは黙ったまま菫の瞳をかげらせてうつむいてしまった。何か考え込んでいる様子だ。


「甘くみてはいけませんが、マーノの病はきちんと休めば回復する病ですよ。マーノの心労を減らす為、あなたが回復なさらなければ。今日のところはもうお部屋へお戻りになり、休んで下さいませ、アイオールさま」


 アーナン先生に促され、アイオールははっと顔を上げる。

 ぎこちなく笑み、そうですねと言って立ち上がる。


「また様子を見に来る。大事にしろよ」


 言って、アイオールは自分の部屋へ帰っていった。


「薬湯を飲んでしまって下さいな、マーノ」


 茫然とアイオールが出て行った扉の方向を見ていた俺は、アーナン先生の声で我に返り、薬湯をすすった。

 なんとなく、朝より癖と苦みをきつく感じた。



 湿布の貼り換えを済ませてアーナン先生が帰ったしばらく後、俺は部屋の灯りを絞り、本格的に眠ることにした。

 今日は一日寝てばっかりいたにもかかわらず、夜が更けてくると段々まぶたが重くなってきたのだ。


(内臓が……疲れている?)


 まったく自覚できないが、こうまで眠いのは異常だろう。

 確かに普通ではない、こんなことは生まれて初めてだ。


(……へっ、上等じゃねえか。だったら寝て寝て寝倒して、内臓のだろうがなんだろうが、疲れという疲れを完全に取ってやらあ。ざまあみろ!)


 何がざまあみろだか自分でもよくわからないが、妙に好戦的な気分で俺は、しっかりとまぶたを閉じた。



 夢を見ていた。

 夢を見ているな、と自分でも半分わかっていながら、俺はその夢の世界に浸り込んでいた。


 古びた感じの床板や簡素な調度品、明かり取りから差し込む黄色っぽい陽の光。


 睡蓮宮へ来る前に住んでいた家のおぼろげな記憶が、夢独特の都合の良さで形になっている。


 俺は子供、というより幼児だ。テーブルや椅子がひどく高い。

 テーブルの下にもぐりこみ、俺は遊んでいる。

 気に入りのおもちゃをそこへ運び込み、隠れ家風にして遊んでいた、そう言えば。


 玄関で気配がする。

 俺はテーブルの下からはい出し、とことことそちらへ向かった。


 ガチャガチャと武具を鳴らして父が帰ってきた。

 出迎えている母。

 逆光の中で立つ男は見上げるばかりに大きく、マーノ、と呼ぶ声は優しい。


 顔はわからない。

 でも夢の中だからそんなことは気にならない。

 俺は父へ向かって両腕を差し伸べる。

 筋張った太い腕が俺を抱き上げる。

 眩暈がするほどの高さへ抱き上げられ、俺は訳もなく嬉しくなってきゃらきゃら笑う。


 次の瞬間、俺は泣きながら紺のお仕着せの男へ向かっていた。

 わあわあ声を上げ、無茶苦茶に剣を振り回しているのだ。

 だが、切り付けても切り付けてもお仕着せの男は倒れない。

 確かに手ごたえはあるというのに、男はまるでこたえない。

 虚しい。更に泣けてくる。


「畜生!畜生!」


 涙で曇る視界の中で俺は叫び続け、剣を振り続ける。


 不意にお仕着せの男の腕が軽く動く。

 すさまじい衝撃。喉元ががっと熱くなる。

 よろめくと、俺は背中からどうと倒れた。


 ぬるぬるした血が胸元を濡らす。

 鉄さびじみたにおいが口の中に広がる。


「マーノ、おいで」


 差し伸べられる右腕。優しい声。

 太陽を背に立つ男は、父のようでもあり紺のお仕着せを着たサルーンのようでもあった。


「おいで」


 ふと、連れて行ってもらおうかと思う。

 なんとなく、とても良いところへ連れて行ってもらえるような気がした。

 腕を伸ばしかけ……、はっとする。


「いやだ」


 鉄さび臭い口から俺は言葉を絞り出す。


「いやだ、行かない」


 逆光の中の男が苦笑する気配。わかった、とだけ彼は言った。

 俺は心の底から安心し、ゆっくりと目を閉じた。



 目を閉じたのに、俺は暗い天井をまじまじと見ていた。


(夢、か……)


 だよな。思い、大きく息をつく。


 首筋から胸元がぐっしょりと冷たい。

 ひどい寝汗をかいていて、たまらなく喉が渇いていた。

 ゆっくり身を起こす。全身の痛みは、心なしかましになったような気がした。


 枕元にある小卓の上にある水差しから水を注ぎ、飲む。

 全身にぐんぐん冷たい水が沁みてゆく。心地いい。


 大息をつきながらグラスを置こうとした刹那、ふっ、と、鉄くさいようなにおいが鼻先をかすめた。


(……ああ。なるほどね)


 思わず苦笑いをもらす。

 それからもう一度横になったが、今度は夢ひとつ見ないで明け方までぐっすりと眠れた。

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