3 厳冬の客人③
その日もアイオールは昼前からテラスで寝椅子に横たわり、うとうとしていた。
俺はいつも通り出入り口付近で、片膝を立てた状態で座っていた。
いざという時に動けなくては何もならないので、長靴は履いたままだ。
となると必然的に、出入口付近にいるしかない。
そこより奥、鹿の毛皮を敷いている辺りから靴を脱いで入るのが決まりだから。
差し込む陽射しと池からの反射で、テラスは眩しいほど明るく、あたたかい。
その中でアイオールが、寝椅子の上で落ちたみのむしか何かのように丸くなって眠っている。
ほほ笑ましいような、なんとなく哀れなような、そんな気分で俺はぼんやりと、ガラス越しの景色込みでヤツを見ていた。
気配が近付いてくる。
足音から二人。
うち一人は主に下働きをしている若い従僕のもの、もう一人はおそらく睡蓮宮の者ではないだろう……。
思いながら目をやり、はっとする。
静かに立ち上がり、その場で出迎える。
「失礼致します、護衛官殿。こちらに殿下が……」
俺と目が合ったその人は、そこまで言うとあっと息を飲んだ。
途端に柔らかな笑みが、記憶よりやや皺の増えた品のいい顔に浮かぶ。
「その鳶色の瞳と髪。もしかしてマーノなの?」
「ええ。ご無沙汰をいたしております、アーナン先生」
そう言って軽く会釈すると、アーナン先生の目が少し潤んだ。
「まあ。まあまあまあ。あの小さかったやんちゃなボクちゃんが、こんな立派な青年に。あの頃からのあなたの夢だった護衛官になれたのね、素晴らしいわ。紺の制服と銀の襟章がなんてよく似合っているのかしら」
先生の手放しの寿ぎに、ふっと胸が塞ぐ。
あの頃からの夢をかなえたのは事実だが、自分が本当の意味で護衛官になれたとは微塵も思えない。
俺の顔が曇ったのが意外だったのだろう、アーナン先生はやや怪訝な顔をした。
しかしその瞬間
「誰だ?」
という少し眠そうな声がしたので、我々の意識はそちらへそれた。うたた寝していたアイオールが起きたらしい。
「え?アーナン先生?今日お着きになられたのですか?」
アーナン先生は目を見開いたまま一瞬言葉を失ったが、次に花がほころぶような笑みが顔中に広がった。
「まあ……アイオール殿下でいらっしゃいますか?まあまあ、あのお小さかった殿下が。ますますお父上に似てきていらっしゃいますこと」
アイオールは軽く苦笑いをする。
「父上に似ているとは確かにちょいちょい言われますね。残念ながら、髪と瞳はまったく似てませんが」
「髪と瞳は母上様に似てらっしゃいます。ああ、あのお小さかったアイオールさまがこんな立派な若者に。あなた様といいマーノといい、睡蓮宮のお小さかった人たちがこんなに立派になるのですから、わたくしが老いてしなびるのも当然ですわねえ」
感慨にふけるアーナン先生とは裏腹に、アイオールの顔は曇る。
「立派かどうか……は、なんとも言い兼ねますね」
目を伏せながらの屈託あるつぶやきに、アーナン先生の顔に再び怪訝そうな影がかすめる。
しかしアイオールは一瞬で思い直したか、明るい笑みを作った。
「いえ。まずは遠路はるばるようこそお越しくださいました、アーナン先生。おいでいただけると聞き、楽しみにしておりました。色々と伺いたいこと、教えていただきたいこともありますが、なによりまずはゆっくりと旅の疲れを癒し、お寛ぎになって下さい。アーナン先生に使っていただく部屋は、年明けすぐから用意させています。後で案内させましょう」
睡蓮宮の主に相応しい、アイオールのよどみない挨拶にアーナン先生も畏まった。
膝を折ってスカートのすそを持ち上げ、頭を深く下げる。
貴人へ対するご婦人の礼だ。
「ありがとうございます、殿下。お招きいただいたとはいえ、かつて睡蓮宮を去ったわたくしをこうしてあたたかくお迎えくださったこと、深く感謝いたします。微力ではありますが、わたくしでお役に立てることがございましたら務めさせていただきます」
頭を上げて下さい、とアイオールは言い、少しばかり苦笑いをする。
「正直、アーナン先生に殿下と呼ばれても落ち着きませんね。昔馴染みなのですから必要以上に堅苦しいのはよしましょう。風邪薬を飲むのが嫌で泣きべそをかいていた頃のように、私のことはアイオールと呼んで下さい」
アーナン先生は顔を上げ、ほほ笑んだ。
「では……アイオールさま。しばらくお世話になります」
午後になり、客間にお茶の用意がなされた。
部屋で荷を解き、あっさりとした部屋着に着替えたアーナン先生を囲んでの、私的で気取りのないお茶会が開かれた。
春宮から急遽、セイイール殿下も遊びに来られた。
彼は以前からアーナン先生に個人的な親しみがあったようだ。
おいでになったら知らせてくれ、遊びに行くからと前々から彼は言っていた。
手土産にと先生が持ってきた、クリークス名物の蕎麦粉を使った小さな焼き菓子も茶うけのひとつに出された。
独特の香りがある、焼きしめるように硬めに作られたこの菓子は、牛乳を多めに入れたお茶によく合う。
隅にある背の高い小卓で、俺とトルーノも立ったままお相伴させていただいた。
アーナン先生は昔から聞き上手だ。
アイオールやセイイール、給仕に来て引き止められ、控えめに受け答えするおふくろの顔が、話が進むにつれ柔らかくなってゆくのがわかる。
彼女が穏やかな笑みを浮かべて熱心に耳を傾けてくれると、語り手はついつい言うつもりのなかったことまで気分よく話してしまう傾向がある。
時に語り手が、いらぬことまでしゃべってしまったかとはっとするが、すぐにアーナン先生なら大丈夫だと安心する。
彼女は何を聞いたとしても、余計なことは一切言わない。
他人にもらすことが無いのはもちろん、話し手自身に対してすら余計なことを言わない。
相手が必要としている場合はあたたかな言葉で助言するが、ただそれだけ。
(レーンの方のたたずまいに似ているな……)
今になって改めて俺はそう思った。
彼女が今、王に『客』という形で招聘された理由がわかった気がした。
医師としての知識と経験ももちろん期待されているだろうが、何より彼女の聞く力こそが、今のアイオールを癒すのに必要だと思われたのだろう。
「アーナン先生は怖いですね」
ふっと我に返ったような顔になると、セイイールはつぶやくように言った。
「何と言うか……うっかりしていると、胸に秘めた恋心までついついしゃべってしまいそうな気になりますね」
「恋心?」
ややわざとらしく、アイオールは目をむいてみせる。
「驚きましたね。こう言ってはなんですが、兄さまの口から恋などという単語が出てくるとは思ってもいませんでした。『ラクレイドの銀の月は 玲瓏たる知性の輝き』と歌われていらっしゃるセイイール殿下は、愛だの恋だのという下世話なことには一切興味ないのだと思っておりましたので」
セイイールは美しい顔を思い切りしかめる。
「おい、ひどいぞその言い方。お前、完全に私を馬鹿にしてるだろう?別に私は木石じゃないぞ。いくらお前とは将棋や博物学の話しかしないからって、それ以外には興味がない訳じゃないさ。淡い恋のひとつやふたつ、人並みに経験しているよ」
人が悪そうなにやにや笑いを口許にただよわせ、しかし言葉だけは殊勝そうにアイオールは言う。
「それは……大変失礼を致しました。我が兄上は木石ではないかと心ひそかに心配をしておりました、この愚かな弟の節穴のような目をお許しください」
「こいつ……」
慇懃無礼なアイオールのからかいに、セイイールはかなり本気で気を悪くしたようだ。
「なんだ、そう言うお前こそいつまでたっても子供っぽくて、それこそ愛にも恋にも興味がなさそうに見えるじゃないか。アイオール殿下はいつまでも変わらずお可愛らしい、なんて、うちの侍女たちが噂しているぞ」
一瞬むっとしたが、アイオールは美しくほほ笑んだ。
(あ、こいつ怒ってる……)
俺はヒヤッとした。
気を悪くしている時にやたら愛想良くにっこりするのは、こいつの場合かなりアブナイ。
「そのご令嬢へお気持ちを伝えられたのですか、セイイール殿下」
柔らかい口調で問われ、兄弟喧嘩をしかけていた二人の王子ははっとする。
アーナン先生に真っ直ぐ見つめられているのに気付き、セイイールは目を伏せる。顔がほんのり赤い。
「あ、いえその。私などに思われても、相手の方が迷惑するだろうと……」
「まあ。慎み深いのですね。しかし殿下のような素晴らしい方に思われて、迷惑する令嬢がラクレイドにいるのでしょうか?」
何か言いかけ、セイイールは言葉を苦笑いにまぎらせる。
「ほらそうやって。うっかりしゃべりそうになりましたよ。これ以上は乗せられませんからね、先生」
トルーノの顔が心配そうにやや曇ったのが、目の端でちらっと認められた。
どの主も大なり小なり、悩みや問題を抱えているらしい。
兄弟喧嘩はなし崩しに消え、十分も経つ頃には元通り和やかな空気に戻った。
久しぶりにいい午後だった。
お茶を飲み干しながら俺は思う。




