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3 厳冬の客人②

 主の居間へ戻る。

 アイオールは安楽椅子に座り、軽く目を閉じて背もたれに寄り掛かっていた。


「お客様はお帰りになられたかい、マーノ」


 やや疲れたような声でアイオールは問う。

 テーブルの上ではサーティン先生が用意した薬湯がかすかに湯気を上げていた。

 薬湯と言ってもカモミールが大半の香草茶に蜂蜜を落としたものだ。


「ああ。疲れたんなら休めよ」


 俺が言うと、目を開けてアイオールは苦く笑う。


「まったく。どうしてこれくらいで疲れるのかな?二時間ほど将棋を指しながらおしゃべりしただけなのにね」


「疲れるモンはしょうがねえだろ。一度に広範囲に付けられた傷は、表面的には治っても芯から完治するのは時間がかかるって、サーティン先生も言ってたぞ」


「そうらしいけど……」


 ため息をつき、アイオールは再び苦笑いをした。


 ヤツが自傷をしでかしてからもう一ヶ月ほど経つ。

 状態は一進一退だ。

 いや、一進二退半進……、とでもいう感じだろうか?あまり良くはない。


 アイオール本人は回復しようと努力している。

 それが王命だしね、と、冗談半分本気半分な感じで言って笑う。

 ともすれば沈みそうになる心を引き立て、出来そうなこと……本を読んだり学習をさらったりもし始めた。


 しかし、とにかく気力体力が続かないようだ。

 集中できるのは小一時間程度で、それ以上になると疲れてしまうらしい。

 本を読んだり学習をさらったり、毎日のようにコツコツとやっているが、すぐに手を止め、苛立たしそうに安楽椅子の背もたれに寄り掛かったり、時には長椅子に横たわったりする。

 嫌な汗をかきながら大きく息をつき、あらぬ方へ目を据えているヤツを見ているのは、俺も辛い。


 本人には特に伝えていないが(伝えても本人を困惑させるだけだろうと)、精神的な傷が癒えていないのが不調の原因だろうとサーティン先生は言っている。

 しかし、目に見える傷は医者も治療出来るだろうが、目に見えない傷は治療のしようもないだろう。


 俺は個人的に、馬に乗れなくなったせいで余計にヤツの精神状態がすっきりしないんじゃないかと思っている。

 アイオールは子供の頃から乗馬が好きで、くさくさした時は早駆けをして鬱を払ってきた。

 その乗馬が出来なくなってしまったのだ、鬱屈がたまるのも無理はない。

 さすがに自傷をしでかした時ほど激しい状態にはならないが、馬、特にユキシロを見るとどうしても例の『落馬事件』を思い出してしまうようで、具合が悪くなる。

 あれから何度か試してみたが、乗馬どころかアイオールは、ユキシロに触れることすら出来なかった。

 そもそも馬の姿を間近に見ると吐き気や眩暈を起こすので、触れるどころではない。

 厩舎の近くまで来ては引き返すアイオールを、寂しそうに目で追っているユキシロが可哀相だった。


 ユキシロは、アイオール八歳の誕生日祝いにと、ライオナール殿下に譲っていただいた大人しい葦毛の牝馬だ。

 母君の喪中だったので、特にアイオールの誕生日を祝うことはなかったが、ライオナール殿下が沈みがちな弟の為にと、お気に入りの馬たちの中から特に大人しくて穏やかな性格の馬を選んでくださったのだ。

 もちろん、王子様のアイオールが一から十までユキシロを世話した訳ではない。

 しかし、それでもヤツは時間が許す限り厩舎へ行き、馬丁に教わりながらいそいそとユキシロに飼い葉をやったり身体を拭いてやったりした。

 初めての自分の馬が、嬉しくて仕方がなかったのだろう。

 教師について熱心に乗馬を教わり、瞬くうちに上達したのもこの頃だ。


 ユキシロも、ちょこまかと自分をかまいに来る少年に親しみや信頼を持つようになっていった。

 当時からすでにおばさん馬だったユキシロは、このちびの少年を自分の子供みたいに思ったのではないかと俺は思うが、まあそれはそれなりにいい関係の主従だった。


 ユキシロはこのところ、めっきり老け込んだと馬丁が辛そうに言っていた。アイオールが来てくれないのを寂しがり、馬なりに落ち込んでいるらしい。


「ロンさんが、年明けに暇をもらいたいって言ってきたよ」


 ぼんやり馬のことを考えていた俺は、え?と間の抜けた返事を返してしまった。

 どこか遠くを見ながらアイオールは続ける。


「私もそろそろ年ですから、なんて言ってたけど。ロンさんには私が成人の儀を済ませるまでいてもらいたかったんだけどね……」


 それはロンさん自身が、以前から何度となく言っていたことでもある。

 王子の成人の証である、王家の紋章を刻んだ黄金の指輪と貴色のベルベットで仕立てた高襟の上着を身に着けたアイオールさまを、是非おそばで見たい、と。

 可能なら、アイオールさまがお妃を娶ってお子様がお生まれになられたら、爺やとしてその方のお世話をしたいとまで言い、アイオールを呆れさせていた。


「……ロンさんのせいじゃないんだけどな」


 つぶやくようにひとりごちると、アイオールは安楽椅子の背もたれに深く身を預け、もう一度目を閉じた。頭の重みを持て余したのか、軽く首を傾けた。


 冬場ということもあり、柔らかく首を覆う襟やショールなんかで上手く隠しているが、こういう時に首筋の傷跡が見え、ぎくっとする。

 春までにはさすがにもう少し傷跡も薄れるだろうが……薄れてくれ。


「寝るんなら寝室へ行けよ」


 俺が声をかけると、渋々のようにアイオールは目を開ける。


「寝室は薄暗いからなんだか滅入るんだよね、夜ならあきらめもつくけど。テラスでひなたぼっこでもしながら、一時間ほど昼寝しようかな。なんならお前も、そばで昼寝をしたらいいよ」



 テラス、は睡蓮池が一望出来るように作られた小部屋のようなものだ。

 池に面して棟から張り出すように、幾層も煉瓦が敷き詰められた床、壁の代わりに分厚いガラスで周囲を覆って作られている。

 博物学の学者がラクレイドへ伝えた『温室』という寒さに弱い植物を育てる施設を参考に作られたらしい。

 ここは午後になると特に燦々と陽が差し込み、冬場でも晴れた日なら、ストーブに薪をくべなくても十分暖かい。


 そもそもはアイオールの母君・レーンの方の為に作られたという話だ。

 かの方は故国で、室内では裸足で過ごしていらっしゃったらしく(蒸し暑いかの国ではそうでないと辛いのだそうだ)、寝る時と風呂に入る時以外は靴を履いているラクレイドの暮らしは窮屈そうでいらっしゃった、とか。

 スタニエール陛下と先王シラノール陛下がそれを気の毒に思われ、裸足でくつろげる暖かい場所をと考案し、作らせたのだそうだ。


 俺たちが幼児(ガキ)の頃も、特に冬場はここでよく遊ばせてもらった。

 子供は外で遊びたがるものだが、さすがに寒風の吹きすさぶ中、カチカチに凍った地面を踏みしめて遊ぶのは辛い。

 かの方が冬の午後、愛用の寝椅子で裸足になり、くつろいでお茶を飲んでいらっしゃる横にお邪魔をし、我々は遊んだ。

 やはり裸足で犬の子のように取っ組み合いをしたり、すごろくや積み木なんかもした。

 煉瓦の床の上に分厚く毛織物や毛皮が敷きつめられているので、寝転がっても痛くなかったし、冷えることもなかった。


 遊びに飽きた頃、レーンの方が命じた俺たちのオヤツが運ばれてくる。

 例の揚げ菓子や木の実がぎっしり入った焼き菓子、甘く煮た林檎の薄切りが層になったパイなんかがよく出た。

 供されるものそのものはいつもと同じだったが、テラスで食べるオヤツは何故か、殊の外美味しかったような印象がある。


 食事は当然別だったが、どういう訳か俺たちはガキの頃、同じ時間同じ場所で同じオヤツを食べていた。

 レーンの方の方針だったと後で聞いた。

 その習慣からかアイオールは今でも俺へ、お茶を付き合えとよく言ってくる。


 そういえば俺が初めてレーンの方とお会いした時、かの方は『赤ちゃんのおにいさまみたいなお友達』になってくれとおっしゃったが、本当にそのつもりでいらっしゃったらしい。

 王子と従者であることはわきまえつつも、互いに肌感覚で近しい友でいてほしい、そう思っていらっしゃったのだろう。



 侍女たちに声をかけ、我々はテラスへ向かう。

 冷めかけた薬湯を、アイオールはやや面倒くさそうにひと息で飲んだ。

 気休めにしかならない薬湯だったが、それでも飲まないよりは心が落ち着き、ゆっくり眠れる気がする、らしい。


 テラスに着くとアイオールは、入り口付近で部屋履きを脱いで靴下になり、床にしきつめた毛皮を踏みしめて池側まで進んだ。

 しばらくぼんやりと睡蓮の葉が浮かぶ水面を見つめていたが、ふと我に返ったように顔を上げ、母君が愛用なさっていた深紅のベルベットの寝椅子に横たわった。

 裸足で横たわるのを前提に、特別に背を低く作らせた背もたれのない寝椅子だ。

 池がよく見えるように、頭の部分がやや持ち上げられている。


 椅子の地と共布で作られたクッションを枕に、テラスの隅にある小箪笥に仕舞われていた母君愛用の厚めのひざ掛けに包まり、アイオールは目を閉じる。

 寝椅子がやや小さめなこともあるのだろうが、ちょうど池に背を向けるように寝返りを打ち、横向きになって膝を抱える。


 このところアイオールはテラスで過ごすことが増えた。


 そういえば母君が亡くなられて以来、アイオールはあまりテラスに近付かなかった。

 学習や鍛錬が増えて自由になる時間が減ったこともあるだろうが、母君との思い出が多すぎるテラスは、ヤツにとって辛い場所だったのかもしれない。


 しかし今、アイオールは母君の愛用品に包まれ、逆光の中で丸くなって眠っている。

 胎児のようだなと俺は思った。

 伏せられたまぶたの白さに、あの事件の時のアイオール、自傷をしでかして半分気を失って倒れていたアイオールの、血の気のない顔をふと思い出す。


(ひょっとすると、胎児からやり直したいのかもしれねえな)


 もちろん本人は意識していないだろうが、母君の腹の中から人生をやり直したいのかもしれない、こいつは。


 哀しいことも辛いことも知らない、まどろみの夢の中にいた胎児に戻りたいのかもしれない。



 テラスの隅、出入り口付近に片膝を立てて座った俺は、そんなことを思う。なんだかぐったりした気分になり、知らず知らずのうちに深いため息をついていた。



 年が明けた。


 成人前の王子や王女は、王宮で行われる公的な行事は冠婚葬祭以外出席しないのがラクレイドの慣習ならいだ。

 だからアイオールの新年の行事は個人的に父君や兄君へ挨拶をするくらいだ。

 後はいつもの新年と同じように、のんびりと穏やかに、睡蓮宮でご馳走やお菓子を食べて過ごす。


 しかし、例年なら兄君や『学友』と王家の森辺りへ馬で出かける日もあるだろうが、今年は一切それは出来ないのが辛い。

 宮殿での公的な新年の行事が一通り済む頃、ロンさんは睡蓮宮を離れる予定だ。

 すでに新しい侍従長が年末から来ていて、引き継ぎも始まっている。

 ただ、彼と入れ違いに昔馴染みを客として招いた、二~三ヶ月ばかり睡蓮宮に逗留する予定だと王から告げられた。


 ロンさんの退職後、寂しくなるアイオール(大きな声では言えないが、だったらロンさんを辞めさせなければ良さそうなものだと俺は思う。まあ、睡蓮宮の管理の総責任者である彼すら留任させるには、起こった出来事が重大過ぎると言われたら俺としては一言もない)の話し相手兼サーティン先生の相談相手というところだろう。

 医師であり産婆でもある、クリスティーナ・アーナン女史だ。

 かつて睡蓮宮の侍医を務めていた方で、アイオールを取り上げた産婆でもある。


「アーナン先生が?懐かしいですね、何年ぶりになるのかな?」


 アイオールは顔をほころばせる。


 アーナン先生は元々、産婆が家業の家の娘だったそうだ。

 が、それだけでは飽き足らずこつこつと勉強を続け、ほぼ独学で医師の資格を取ったという話だ。


 それだけでも大変だが、当時は今以上に女性で医師を目指す人は少なかったので、若い頃から余計な苦労も色々なさったそうだ。

 そう聞かされるとどんなすごい信念の人、すごい女傑・烈女だろうと思うが、ご本人はごく穏やかで静かな雰囲気の方だ。

 少なくとも俺は、白いものの混じった栗色の髪をきちんと結い上げてしゃんと背筋を伸ばし、陽だまりのようにあたたかくほほ笑んでいる彼女しか思い描けない。


 医師としても申し分なく、産婆としても申し分ないアーナン先生はやがて、王都でも評判になっていった。

 そこを見込まれ、身ごもったレーンの方の侍医として招かれた。

 レーンの方とは親子ほども年が離れていたが、とても気の合ういい友人同士であった。


 レーンの方は身ごもられて以来、体調がすっきりしなくなったのだそうだ。

 出産後もなかなか体力が戻らず長く寝込んでいらっしゃったし、アイオールが一歳の誕生日を迎えるころになっても身ごもられる前の体調には戻らなかった。

 日常をただ暮らすだけなら支障はないもののそれ以上は無理、ちょうど今のアイオールの状態に近い感じで回復が止まってしまったらしい。

 俺のよく知るレーンの方は、確かにそういう感じだった。


 アーナン先生はレーンの方を献身的に支えていらっしゃった。

 かの方の日々の体調に留意し、文字通り万全を期す対応をしていらっしゃった。

 レーンの方が雪花熱にかかってしまった時も、ご本人より早く気付いたのもアーナン先生だ。

 結果的にお亡くなりになられたとはいえ、アーナン先生でなければここまで早くレーンの方の体調の変化を見抜いて対処出来なかっただろう。


 彼女はしかし、かの方の命を救えなかったことを重く受け止め、王へ辞職を願い出た。

 侍医としても友としても、かの方を救えなかった事実が責任以上に辛かったのだろうと、俺は今になって身に沁みて思う。


 王を始めとして皆、アーナン先生を引き留めた。

 レーンの方がお亡くなりになられた主な原因は、彼女の怠慢や診立て違いなどではない。

 元々かの方はお身体が弱かったし、弱くなられたきっかけは懐妊とお産かもしれないが、そもそもはかの方の体質とラクレイドの気候は相性が悪かったせいだろう、と誰もが思っていた。


 しかし彼女は慰留に感謝しながらも決然と睡蓮宮を去った。

 後任のサーティン先生へ念入りに引継ぎを済ませると、甥だか姪だかを頼ってラクレイドの西のはずれにある生まれ故郷の町へと帰ってゆかれたのだ。

 その見事な去就に俺は、烈女の片鱗を彼女のすっきりとした後姿に見た気がした。

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