2 晩秋の風④
夜が明けた。
俺はいつも通り顔を洗いに行く。
晩秋の北寄りの朝日は暗い。
朝焼けが神山を不吉なまでに美しく染めている。
泉で水をくみ、顔を洗う。
全身が縮こまるほど冷たい。
顔を上げて大息をつくと、白い息が朝焼けの中へほやほやと溶けていった。
(アイオールよう……)
心の中で呼びかける。
(生きてる実感のないお前にとっちゃ、父君も兄君も俺たちも……みんな夢の中の登場人物みたいなもの、なんだろうなあ)
生きている実感がない、と言い切るあいつの乾いた声を思い出すと慄然とする。
あの事件の傷の深さに言葉もない。
(……あいつは死んでる。やっぱりあの時、殺されてしまったんだ)
少なくとも心の大半を。思うと、何十回となく繰り返されたすさまじい後悔が俺の心を食んだ。
『おかあさま?迎えに来て下さったの?』
昨日池から連れ戻す時、小さい頃の口調でつぶやいたアイオールをふと思い出す。
つぶやき、ヤツはとても幸せそうに笑った。
(母君に迎えに来てもらいたいのかよ、アイオール)
そんな嬉しそうな顔をするくらい、お前は母君を待っているのか?
そんなに生きているのがつらいのか?
父君や兄君、俺たちといるより、眠りの国にいる母君のそばがいいのか?
問うのも虚しい問いを繰り返しているのに気付き、俺は深いため息をつく。
ひょっとすると母君がお亡くなりになられて以来、あいつはうつつを生きていなかったのかもしれない。
俺が時折感じた、あいつの中にわだかまる影の正体がこれだったのかもしれない。
あいつにとって世界は、母君が『御用』を済ませて迎えに来るまでいい子で待っている場所。
そう思い込むことが絶望から自分を守る為の一種のからくりだったのだろう。
尤も本人だって、きちんと自覚していないだろうが。
あの事件さえ起こらなければ、ヤツはおそらくジジイになるまでこのからくりに気付かず、お幸せないい子のままで天寿をまっとう出来たのかもしれない。
(畜生)
不意に怒りがたぎる。
……死なせねえ。
絶対、お前を死なせねえ。
死なせてたまるか、このくそったれ!
死んだら、お前を傷めつけた敵に完璧に負けちまうことになるだろうがよ。
心が死んでるんならこれから生き返れ、まだ身体は死んじゃいねえぞ。
たとえお前が何回自殺を図っても、俺が冥府の入り口まで追いかけて行って、首根っこ引っつかんでこの世へ連れ戻してやるからな。
甘ったれボケ王子め、この世はかーちゃんが迎えに来てくれるまでお利口さんで留守番する場所なんかじゃねえっつうの!
いつまで幼児みたいなことを考えていやがる、あと二年もすりゃお前も十六、大人なんだぞ!
歯噛みしながら俺は戻る。
何に対して怒っているのか自分でもはっきりしなくなってきたが、ぶつけようのない怒りが胸にくぐもる。
苛立ちまぎれに目についたでかい庭木の幹を思い切り蹴りとばしたら、不用意に蹴ったせいかつま先がとてつもなく痛かった。
じーんとしびれて涙がにじむ。
まったく、なにもかもが情けない。
朝めしの支度なのだろう、どこからともなくパンの焼ける香ばしい匂いと物の煮えるあたたかい匂いが、ほのぼのとただよってきた。
のどかな鳥のさえずりも聴こえてくる。
この穏やかな朝の中で荒れている自分が、なんだかひどくみじめだった。
身支度を整えて主の寝室へ向かう。
昨夜は自室で寝ませてもらった。
サルーンに、今夜は私が殿下のお側についておりますのでと言われたのだ。
逡巡する俺へ、サルーンは言った。
「私も護衛官ですよ、タイスン殿。老いぼれですが、一日くらいの不寝番ならまだ務まります。どうしても必要な事態になれば、その時はタイスン殿をお呼び致しますので。私はタイスン殿の補佐官、正護衛官の補佐が任務です。あなたの補佐がしたいのです、お任せいただけませんか?」
ふたつ名持ちにここまで遜られて(しかも嫌味ではなく、本気で言ってるらしいのがおそろしい)、とても否とは言えない。
このところ色々あって精神的にぐったりしているが、結構昼間に寝ていたし、変な感じに頭も冴えていたから寝付けないんじゃないかと思っていた。
が、自分の寝台で自分のにおいがしみついている夜具に包まると、墜落するような勢いで眠り込んでしまった。
明け方自然に目が覚めるまで、夢ひとつ見なかった。
おかげで頭はすっきりしたし身体も軽いが、気分は沈む。
何があろうとなかろうと、メシは食えるしぐうすか眠れる。
仕事柄、有り難いと言えなくもない体質だろうが、人間的な繊細さと無縁の我が身に我ながら呆れた。
寝室の扉を叩くと、どうぞという声が返ってきた。
サルーンの声らしい。
扉を開けると、寝台の近くに座っていたサルーンが立ち上がる。
直前まで談笑していたような雰囲気だった。
「おはようございます、タイスン護衛官。それでは交代いたしましょう」
寝台に横たわっているアイオールへ挨拶をすると、サルーンは俺へ目礼し、部屋を後にした。
「マーノ」
寝台に横たわる主が俺を呼ぶ。近付く。
天蓋の陰になっていたのでよくわからなかった、首筋と両手首に巻かれた白い包帯が露わになる。
改めて見るとその痛々しさに、心臓の辺りがぎくっと音を立てた。
「おはよう、マーノ。昨日は本当に迷惑をかけてしまった、すまない」
さすがに極まりが悪そうに目を伏せてアイオールは謝る。
思ったよりも普通の態度なのでほっとする反面、猛烈に腹が立ってきた。
むっつりと黙ったまま俺は、さっきまでサルーンが座っていた椅子に腰を下ろす。
「サルーン護衛官に聞いたよ。お前が早くに私を見つけ出し、色々と動いてくれたそうだね、ありがとう。しかしすごいな、どうして私が池にいると思ったんだい?私自身だって直前まで、あそこへ行こうなんて思っていなかったのに。例の事件の時も私を見つけたのはお前だったそうだし、何か特別な才能でもあるのか?たとえば、実は犬並みに鼻が利くとか」
暢気なことを言いやがって。悪態をつこうとした途端、目頭が熱くなった。
「うるせえ、この大馬鹿野郎が」
落涙だけはとどめ、俺はアイオールをにらみつける。
「どうせ俺は、お前の見ている悪夢の敵役みたいなもんなんだよっ。お前がどんだけ死のうとしたって絶対に俺が阻止してやる、ざまあみろ。悔しかったらまずは俺をぶち殺せ。ま、お前ごときに簡単に殺されるような俺じゃねえけどよ、こそこそ自殺を図るくらいなら、いっそ相打ち覚悟で俺へ向かってこいってんだ!」
そこまでするならきっちり殺してやらあ、と言いかけ、さすがにとどめる。昨日の今日だ、しゃれにならない。
俺の剣幕にアイオールは目をむき、まじまじと俺を見た。
しばらく黙っていたが、ふっと目をそらしてため息をついた。
「ごめん」
ため息と一緒に小さな声で謝ると、アイオールは真面目な顔で俺を見た。
「ごめん。お前には本当に迷惑をかけたし……それだけじゃなく、ずいぶんと傷付けてしまったんだね」
思いもかけないことを言われ、俺は絶句した。
(傷付けてしまった?俺が……傷付いてる?)
とんでもない的外れにカッとした次の瞬間、さっき庭木へ八つ当たりしてしまった怒りを思い出した。
持て余す、行き場のないあの怒り。
何に怒っているのか自分でもわからなくなったあの怒り。
でも涙がにじんだのは、単につま先が痛かったから……だよな?
アイオールは真顔のまま言葉を続ける。
「父上と話していたこと、お前もそばにいたから聞いていただろう?私は……確かに今、生きている実感が薄い」
包帯に包まれた手首を目の高さへ持っていく。
「今見えているこの両手も、なんとなく薄い膜の向こう側にあるような気がするんだよ、目をつぶったらなくなってしまいそうな。でもそれは……ここが悪夢だからじゃない。むしろ、覚めてほしくない夢なんだ。覚めて、吊るされて冷たい風に揺れている哀れな首の方が現実だったらどうしようとびくびくしながらここにいる、そんな感じなんだ」
腕をゆっくり降ろし、アイオールはもう一度俺を真面目な顔で見た。
「父上にも言ったけど、でも、だからって死にたい訳じゃない。びくびくしているのに疲れてしまうのは確かだし、こんな状態ならいっそ終わらせたいという衝動に駆られるのも本当だ。だけど……」
アイオールの顔が一瞬、苦しそうにゆがむ。
「昨日、あんな馬鹿なことをしでかしたのはそれだけじゃなくて。実は耳の奥で、突然声が聞こえたからなんだよ」
え?という間の抜けた声が出てしまった。
アイオールはひとつ息をつき、続ける。
「多分、三十代くらいの男の声だな、こちらを馬鹿にしたような調子で言うんだ。『死なれちゃ困るんだよ、王子様』」
「ええ?おい、それは……」
俺が言いかけると、アイオールは苦く笑う。
「ああ。私を襲った者のうちの誰かの言葉だろう。あの件で、犯人が言った言葉で思い出したのは今のところ、それだけ……」
言葉の途中で急に咳き込む。額に汗が浮き、顔から血の気が引いている。
「おい、苦しいのなら無理すんな」
慌てて立ち上がり、俺は言ったが、アイオールは荒い息をつきながらかぶりを振る。
全身が細かく痙攣していた。
「死なれて困るんなら死んでやる、あの時私は、瞬間的にそう思ったんだよ。愚かだったよ本当に。ごめん、許してくれマーノ。もう……もう二度とあんなことはしない。誓うよ」
誓うよ、本当に誓うよと、アイオールはその後、苦しそうな息の中でうわ言のように何度も繰り返した。
朝めしを食いに食堂へ向かう。今朝は本当に食欲がない。
(だけど食ったら食えるんだろうなあ、多分)
哀しいようなおかしいような気がする。
俺の身体は、心の鬱屈と連動してないらしい。
この貪欲で真っ直ぐな生命力を、生きることに何の疑問も持たないめでたい身体を、あの気の毒な王子様に半分わけてやりたい。
サーティン先生を呼んだ頃にはアイオールも落ち着いてきた。
本人は吐き気で食えないくせに、いいから朝食を食べてこいと命令されてしまった。
なので俺は今、とぼとぼと食堂へ向かっているという訳だ。
「マーノ。アイオールの命を救ってくれてありがとう。礼を言う」
昨日、帰り際の王に本気で礼を言われ、俺は驚愕した。王子の自傷を止められず護衛官としてきつく咎められるのだとばかり、俺は思っていた。
「これからもあれを守ってやってくれ。頼む」
寂し気にほほ笑み、王はおっしゃった。
そして、私にはあれを救えないし十分守ってもやれないだろうから……と、小さな声で独り言のようにつぶやいた。
(俺だって救えません、陛下)
歩きながら思う。
ふと思い付き、裏口のひとつから外へ出てみた。
いつも鍛錬をしている裏庭だ。
冴えた空気の中、冬を思わせる黄色っぽい陽射しを見上げる。
神山ラクレイは今日も超然とそびえ、空はあくまでも高い。
地上にしがみついている人間たちが、どれだけ泣こうとわめこうと苦しもうと、世界の理は微塵も揺るがない。
(俺の身体は……世界の理の側にいるのか?)
柄にもなくそんなことを思い、苦笑する。
へっ、そんないいモンかよ。要するに鈍いってことだろうが。
(だったらそれでもいい。鈍いのなら鈍いなりに、この身体は使いようがあるってもんだ)
繊細な主が倒れかかってきても、俺なら支えて歩けるはずだ。
生きている実感すらない主を救うことなど出来ないだろうが、心の鬱屈に押しつぶされない頑健なこの身体なら、ふらふらの主を引っ張ってなんとか安全な所へ連れて行けるだろう。
「……朝めしを食いに行くか」
つぶやき、きびすを返す。
今朝方蹴りとばした太い庭木は、木枯らしの中でも微動だにせず、しゃんと立っていた。




