2 晩秋の風③
突然強く揺さぶられたような気がして、はっと目が覚めた。
半身を起こし、辺りを見回す。
窓から差し込む陽射しが黄色い。
午後を回って、もうかなり経つのかもしれない。ずいぶん長く眠りこけていたようだ。
何故か胸騒ぎがした。
俺は、寝台の上に投げ出していた上着を羽織り、合図もしないで主の部屋へ飛び込んだ。
そこには誰もいなかった。
薄暗い寝室の、天蓋の下にあるのは乱れたように半分めくられた上掛けのみ。
しまった、とでもいう後悔が胸をかすめる。
急ぎ足で寝台に近付き、敷布の上を触れて確認する。
温もりは、かすかながらまだ残っていた。
「マーノ?」
怪訝そうな母の声。
俺は鋭く振り返る。
盆を持った母が、不思議そうな顔で扉の向こうに立っていた。
「母さん、アイオールは?」
え?という母の意外そうな小さな声に、俺は血の気が引く。
「知らないのか?」
噛みつくような俺の問いに、うろたえる母の顔。
それ以上は聞く必要もなかろう。俺は寝室を飛び出した。
何処へ、という明確な当てがある訳ではない。
ただ控えの間へ下がる直前、アイオールがいつになく、母君の思い出話をしていたのがぐるぐると頭の中で回っていた。
(ラクレイドの秋のレクラは身も心も透き通る……)
そう言い、かの方は睡蓮宮の名の由来でもある睡蓮の池の汀で、時々舞を舞っていらした。
季節ごとに変わる歌や舞で神と一体になり、神と溶け合うのがレーンの神官の祈りの形だと聞かされていた……。
(池、か?)
理由はわからないが、俺には奇妙な確信があった。
アイオールはそこにいる。そして……急がなければ間に合わない!
ほとんど全力疾走で回廊を抜ける俺へ、誰かが驚いたように声をかけてきたが返事をする余裕などなかった。
敷地の南東にある池には、すでに薄闇がくぐもり始めていた。
水際の黒く濡れた土の上に、長々と白いものが伸びている。
寝間着姿のアイオールがうつ伏せに倒れているのだとすぐにわかった。
急いで近付き、長靴が濡れるのもかまわずぬかるみに入り、抱き起す。
動かした途端、濡れた土の上へ何か平たくて小さなものが落ちる音がした。
「あ……」
一瞬、ふっと気が遠くなった。
アイオールの左の首筋と、両の手首が不自然な赤に染まっていた。静かに閉じられたまぶたは、ひどく青白い……。
「タイスン殿!しっかりなさい!」
耳のそばで大きな声がし、俺は我に返った。
サルーンだ。
彼はアイオールの状態をすばやく確認し、にらむように俺を見た。
「大丈夫、まだ間に合いましょう。だが一刻も惜しい。私はサーティン先生を呼んでくるので、タイスン殿は殿下をお部屋へ」
的確で確信に満ちた大人の指示に、俺はただ幼児のようにうなずいていた。
アイオールを抱え、宮へ戻ろうとした時だった。
「……おかあさま?」
ふっと目を開け、幼い頃の口調でアイオールは言った。
幸せそうにほほ笑む。
「迎えに来て下さったの?僕、いい子にしてたよ、おかあさま」
(……アイオール!)
ぎりぎりと奥歯をかむ。
母君が亡くなった頃のことだ。
母君の死がどうしても受け入れられなかったアイオールへ、確かうちのお袋がこんなことを言ってきかせた。
「おかあさまはね、どうしても行かなくてはならない御用があるのですよ。ですけどアイオールさまがいい子で頑張っていらしたら、いつかきっと迎えに来て下さいますからね」
アイオールはのろのろと虚ろな目を上げ、乳母や本当?と訊いた。
本当だよ、だからおとうさまと待っていような。
涙の中でスタニエール陛下もそう言っていた。
(アイオール!アイオール!)
だから……だからお前は真面目に勉強してきたのか?
真面目に剣の稽古もしてきたのか?
そうやってずっと、母君を待っていたのか?
アイオール!
見た目より傷が浅く、発見も早かったので大事には至らない。
それがサーティン先生の診立てだった。
だけど俺は昨日のように寝室の隅に座り、ぶるぶる震えていた。
右手には白いハンカチに包まれた小さな紙用のナイフがある。
サルーンがさっき、汀で拾ったという。
アイオールの母君の形見の品だ。
これは、かの方がラクレイドへ来られたばかりの頃、当時王太子でいらっしゃったスタニエール陛下が贈った品だそうだ。
ラクレイドのあれこれ、特に詩や歌に興味があったかの方は、紙を小さく切っては手元に置き、いろいろと書きつけていらっしゃった、とか。
その紙を切る為にと、軽くて切れ味のよい優美なナイフを陛下が贈られたらしい。
寝台のそばにある小卓の引き出しに、そういえばいつもこれは入っていた。
お守りみたいなものだと、いつかアイオールは笑っていた。
(これは私自身が自分でなんとかしなくてはならない問題なんだって……こういう意味だったのかよ、アイオール)
握りしめた指の先、白いハンカチから覗く刃がふるふると揺れる。赤黒いしみと白っぽく乾いた泥が、刃に細かく散っている。
錯乱状態のアイオールに、殺してくれと言われたことは二度ほどある。
しかし、まさか自殺をしでかすとは思っていなかった。
何故と問われると詰まるが、アイオールは自殺するようなヤツじゃないと俺は思い込んでいた。
己れの浅はかさを心の底から呪う。
(この大馬鹿野郎が。そこまで……そこまで死にたいんなら。俺がお前を、きっちり殺してやる!)
自殺したいくらい生きていたくないのならば。
いやそもそも、七歳のあの日から心の隅ではずっと、母君の迎えを待っていたのならば。
殺してやった方が、確かによっぽど幸せだろう。
『護衛というお務めは、主のお身体やお命をお守りするだけではない』
講師を務めていた頃のサルーンが時々、俺たち若者どもにこう言っていた。
『存在そのものをお守りして差し上げるのだ』
(では……もし主が心の底から死を望んでいらっしゃるのなら。その望みをかなえて差し上げることこそが、逆に『存在をお守り』すること……つまり護衛官の務めになるのではありませんか?サルーン先生)
「違いますよ」
不意に声がかかり、俺はぎくりとした。
サルーンだった。
今朝方お茶を持ってきてくれた時と同じ、大きめのカップが二つ乗った盆を片手に持って立っていた。
俺と目が合うと、彼はやや極まり悪そうに眉をしかめて目を伏せた。
「いえその。思い違いかもしれませんけど。ひょっとしてタイスン殿、あなた今、殿下が本気で死を望んでいらしゃるのなら自分がそれに応えて差し上げよう、そんな風に思っていませんでしたか?」
おそろしいまでの図星に俺は絶句した。
彼はやや苦く笑い、盆の上のものを俺に手渡してそばに座る。
かすかに酸味のある香りが湯気と一緒に上がってきた。
葡萄酒の湯割りらしい。
「何故……わかりました?」
目を伏せたままカップのものを一口すすり、俺は訊いた。
酒独特の熱が口中から喉を淡く焼いていった。砂糖か蜂蜜でも入っているのか、ほのかに甘い。
サルーンもすすり、言う。
「いえ……若い頃の私の目に似ている気がしましたから」
俺は驚いて顔を上げる。
カップの中の湯割りをもう一口ゆっくり飲んだ後、サルーンは目をそらしたまま微苦笑を口許に含む。
「シラノール陛下がお亡くなりになられ、もう十年は経ちますから言える話ではありますけれど。かの方はお若い頃、実はかなり微妙な立場でいらっしゃいましてね。正式に御位につかれるまで多くの敵がいらっしゃいました。正妃でいらっしゃるポリアーナ様をお迎えになられるまでにも、それこそ紆余曲折が。そんな中で数回、かの方は死を望まれたのですよ。その度に私はお止めしましたけど」
サルーンは苦笑を深める。
「でも一度、本気で思いました。かの方がそこまで生きているのがお辛いのならば、いっそ私が殺して差し上げよう、と。間違いだとすぐ気付きましたが」
「何故……間違いだと?」
上目遣いの剣呑な目をしている俺を、サルーンは真顔で見返す。
「生きているうちに解決できない苦しみは、死んでもやはり解決出来ないからですよ」
静かな声には苦みがあった。
おそろしく実感がこもっていた。
俺の中で湧きあがった反発は、悔しいくらい簡単に萎え、ひるんだ。
サルーンはもう一度湯割り葡萄酒をすする。そして静かに言葉を続けた。
「タイスン殿。殺してくれと言う者は、果たして本当に『死にたい』のでしょうか?実は、『生きていたくない』と思っているのでは?『死にたい』と『生きていたくない』は、同じようでいてまったく違います。少なくとも私はそう思いますね」
(『死にたい』と『生きていたくない』は、違う……)
サルーンから目をそらし、湯割りの葡萄酒をもう一口、飲む。
タイスン殿、と再び呼びかけられ、俺は顔を上げてきちんとサルーンを見た。彼は相変わらず真顔だった。
「我々は武人ですから、場合によれば殺人も辞さない、そういう立場です」
淡々とそう言われ、心臓の辺りがぎくりと音を立てる。
もちろん頭ではわかっているが、改めて言われると全身がこわばった。
「しかしその相手は己れの任務を遂行する上での敵、得物を手にこちらを殺傷する意図を持つ者に対してでしょう。それ以外の者、ましてや己れの守るべき主を殺すのは、護衛官である前に人としてどうでしょう?」
俺はうつむき、唇をかむ。腹は立つが正論だ。
「我々は護衛官です。何よりもその務めをまっとう致しましょう。そのうち殿下も根負けして、それでは生きてみるかとお思いになられますよ、きっと」
シラノール陛下がそうだったのだろう。
が、先々代の王の正妃の独り子で、王太子だったシラノール陛下とアイオールでは立場も違う。
そんなことを思っていた俺の心を見透かしたのか、サルーンはふと、例の人懐っこい笑みを浮かべた。
「ご存知でしょう?デュ・ラクレイノというのは、したたかでしぶといお血筋です。尤もそうでなくては王など務まりませんから、当然でしょうが。アイオール殿下とて……例外とは言えないのではないでしょうか?あの方のしたたかでしぶとい血を、信じて差し上げませんか?」
俺は思わず苦笑いをし、カップの中身を一気に飲み干した。
空きっ腹だったので、そのわずかばかりの酒は恥ずかしいくらい素早く全身に回った。
身体があたたまり、頭に軽く遮蔽がかかる。
寄るものすべてを切り捨てたいような尖った感情が、酒が回るにつれて曖昧になっていった。
大きく息をつき、俺は長椅子の背もたれに寄り掛かる。
サルーンが俺の手から柔らかく、ハンカチに包まれたナイフを取る上げる。
一瞬、抵抗しようとしたが、考えてみれば抵抗する意味などないのに気付き、力が抜けた。
彼はナイフを丁寧に包み直すと、自分の懐の隠しへしまった。
「私がお預かりして、保管しておきましょう」
殿下が落ち着かれればお返し致しますので。
そう言われれば文句も言えない。
なんとなく、一から十までこのジジイにうまくごまかされたような気もしたが、軽く酔いが回っているからか、まあいいかとも思う。
背もたれにもたれたまま、俺は軽くまぶたを閉じた。
泣いた後のようにまぶたは重かった。
ふっと我に返った。いつの間にかうとうとしていたらしい。身じろぎすると、柔らかい布がすべり落ちた。
お袋のショールだ。
拾おうとして、床がずいぶん暗いのに気付いた。早い秋の日はもう暮れていた。
その時、俺は初めて、寝台のそばに立ち尽くしている人物がいるのを知った。
長く伸ばした髪をひとつにまとめている、均整の取れた身体つきの男。
一瞬トルーノかと思ったが、もう少し恰幅がいい。
窓のかすかな光を透かしてよく見る。
……王、だった。
王は、迷子の子供のようなたたずまいで茫然と立ち尽くしていらっしゃった。
寝台に横たわっている人影が動く。
つい今しがたまで眠っていたアイオールが目覚めたらしい。
サーティン先生が処方した、心を鎮める薬の効果が切れてきたのかもしれない。
「アイオール……」
しわがれた声で王は息子へ呼びかける。
深い息をひとつつき、アイオールは小さな声で返事をした。
「はい。父上」
王は何度か息を飲み込み、自分を納得させるようにこうおっしゃった。
「何はともあれ。生きていてくれてありがとう、アイオール」
ふふ、と鼻先で笑う声がした。
「生きて……いるのでしょうか?私は」
ひどく乾いた声音。王が息を引き込む。
少し考え、アイオールは言葉を続けた。
「いえその。生きている、のでしょうけど。なんと言うのか……すべてが曖昧で。時々思うのです、私はあの忌まわしい事件のあったあの日のあの時、本当は死んでしまっているのではないかと。今ここにいる私は、死んでしまった私が見ている、最後の夢のようなもの……」
「アイオール!」
悲鳴のような声が響く。王の声だった。
「馬鹿な、お前は生きている、生きているとも!お前は決して死んでなどいない!」
泣きそうな必死の声だ。
普段、感情を露わにすることが少ない王には珍しい。
「お願いだアイオール、自分は死んでいるのだとか、死んでしまいたいだとか、そんなことは思わないでおくれ。この父のわがままだと思ってくれてかまわない、頼むから生きることだけを考えてくれ!お前の母だけでなくお前まで失うなど、私にはとても耐えられない。こうしている間もお前を襲った犯人どもはのうのうと暮らしている、罪ある者が平然と生き、罪もないお前が死ななくてはならない道理などない!」
「父上……」
父王の剣幕に驚いたのか、アイオールは戸惑ったような声で父を呼んだ。
「申し訳ありません、父上にそこまでのご心痛をおかけしていたとは思っていませんでした……」
ですが、と続け、アイオールは言いよどむ。
「ですが、どうした?」
激情に我を忘れかけたことが照れくさいのか、王は軽く咳払いをして問う。
「その。上手く言えないのですが。私は決して死にたい訳ではないのです、父上。でも何と言うのか……生きている実感がなくて。何をしても薄い膜を一枚隔てているような、このところずっとそんな気がしているのです」
ふふ、とアイオールはもう一度笑う。
「さっきだって直前まで、死ぬつもりなんかなかったんです。でも……何の気なしに引き出しから、母上の形見のナイフを取り出して見ているうちに、これで我が身を切ったら何もかもがすっきり終わるのかな、と。生きるにせよ死ぬにせよ、きちんと決着がつくのかな、と。そんな気が……してしまいまして」
申し訳ありません、浅はかでした。
そう言ってアイオールは謝ったが、形をなぞるだけの虚しい謝罪にしか感じられなかった。
王も同じ印象を持ったのかもしれない。
しばらくは身じろぎもしないで寝台の息子を見下ろしていた。
「アイオール・デュ・ラクレイノ」
何度か息をついた後、王は、いやに改まった感じで呼びかけた。
「アイオール・デュ・ラクレイノよ。ここが夢であれうつつであれ。お前が死んでいるにせよ生きているにせよ。お前は、ラクレイド王スタニエールの息子であり、臣である。それに変わりはない、違うか?」
え?と怪訝そうな声を出すアイオールへ、違うのかと王は問いを重ねる。
「い、いえ。違いません。父上のおっしゃる通りです」
「ならば。王命に従うな?」
父王の真意が読めず戸惑いながらもアイオールは、もちろんですと諾った。
「では。アイオール・デュ・ラクレイノ。第十代ラクレイド王・スタニエールとして汝へ命ずる。生きよ。たとえここが夢であろうとうつつであろうと、今後自ら命を絶つことを禁じる。反論は一切、許さぬし認めぬ」
「ち、父上……?」
困惑するアイオールに、王はさらに厳めしく言葉を重ねる。
「父ではない。私は今、ラクレイド王として話しているのだ。ラクレイド王としてアイオール・デュ・ラクレイノへ命じる。生きよ。これは王命である。逆らうことは王命に反するということだ。汝は王命に逆らうのか?」
「い、いいえ。私は決して、王命に逆らうなど……」
「では従え。生きよ。アイオール・デュ・ラクレイノ」
不意に王は膝を折り、腕を伸ばしてアイオールの腕をそっと取る。
包帯に包まれた細い手首を痛ましそうに見つめ、くぐもった声でつぶやくように言う。
「頼む。生きてくれ。少なくとも生きる、努力をしてくれ。お願いだ」
アイオールは茫然と父王を見つめている。
この『王命』をどう解釈すればいいのか戸惑っているようだ。
ややあって、アイオールは半身を起こした。
無理をするなと言いたげに肩に手をかける王の手を、自らの手で覆う。
王を見上げ、アイオールはほのかに笑んだ。
「お気遣いを感謝致します。御心のままに、スタニエール陛下。アイオール・デュ・ラクレイノ、ご命令に従うよう最大限の努力をすることをここに誓います」




