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2 晩秋の風①

 例の『落馬事件』から、十日ばかりが経った。


 アイオールの傷もかなり良くなり、最近は、今までの勉強を軽くさらったり裏庭で剣の素振りをやったりし始めている。

 何度か型をさらい、手を止めて浮かない顔で首をかしげるアイオールへ、俺は声をかけた。


「痛むんなら無理するなよ」


 アイオールは苦笑する。


「痛むっていうのとはちょっと違うな。なんて言うのか……違和感?そんな感じなんだ。筋肉が落ちたのかもしれないし、新しく出来てきた皮や筋が全体となじんでいないのかもしれないし。よくわからないけどね」


 むごたらしい背中の鞭傷を俺は思い出す。

 痛みは無くなったとしても、あの傷跡がそう簡単に消えることはなかろう。


 冷静になってから思ったのだが、アイオールを襲った者は一体何を考えてあんなに激しく鞭で責めたのだろう?

 まるで罪人を打ち据えるような容赦のない責め方だった。

 あそこまでする必要が果たしてあったのか?気の弱い者なら、あの鞭打ちの衝撃だけで心臓を止めたかもしれない。


 アイオール、つまり王子が死んでしまえば。

 さすがに取り返しがつかなくなる。

 暴漢を雇った依頼者側も、おそらくそこまで想定していなかっただろう。

 アイオールにちょっと怖い思いをさせ、他人に言いたくない形で辱めることが出来ればそれで十分だった筈だ。


 おそらく犯人は、依頼者の想定を上回る責め方をしたのだろう。

 責めずにはいられなかったその歪んだ狂気に、俺はぞっとした。


 アイオールの体調や精神面は、このところ随分良くなってきた。一見しただけでは以前とほぼ同じだ。

 ずっと起きているのはさすがに辛いみたいだが、一日中寝台で横になっているなどということはなくなってきたし、食事も普通に食べられるようになってきた。


 ちょっと前に、元『学友』の少年たちがそれと知らずに遊びに来た時には(その頃はまだ一日中横になっていた)、寝台に半身を起こして相手をする余裕さえあった。



 実はうっかり薮に踏み込んで落馬をしてしまってね。

 あちこち傷めるは脱臼するはで散々だったんだよ。

 でも一番意外だったのは、ユキシロが私を置いてさっさと厩舎へ帰ってしまったことかな。

 あの時は腹が立ったなあ、思わずこの薄情者って叫びたくなったよ、痛くて叫べなかったけどね。

 まあユキシロからすれば

『なんで主は落っこちたの?もう乗らないんなら私は帰りますよ』

くらいの気分だったんだろうけどね。



 そんなことを口許に笑みを含んで身振りをまじえて語り、少年たちを笑わせていた。


(王族ってのはつくづく役者だな……)


 いや詐欺師か?隅で控えながら俺は密かに思った。



 そりゃあ王たる者、たとえうろたえていても臣下の前でうろたえた顔を見せてはならないだろう。

 すぐうろたえ、心の内をあっさり他人に読まれてしまうような小者に、王などとても務まらない。

 臣下をつかうのではなく臣下につかわれそうな頼りない王に、自分と自分の住む国を託す気になど誰もなれまい。俺だって嫌だ。


 俺はふと、いつも超然としていらっしゃるスタニエール陛下、大雑把そうでいてきちんと見るべきところは見ているライオナール殿下、常に人の一歩も二歩も先を読んでいるセイイール殿下のたたずまいを思い出す。

 性格は違うものの、彼らはそれぞれに王の資質を持つ方々だと思う。

 この三人に比べればいかにも凡人っぽい『芋の煮えたも御存じない』風のアイオールでさえ、この程度の芝居が出来るのだ。

 デュ・ラクレイノの血というのはおそろしい。


 アイオールは回復してきている。

 何がどうあれ、この事実が俺は嬉しい。

 油断するとじわっと涙がにじんでくるくらい嬉しい。

 もう少ししたらきっと、今まで通りの暮らしに戻れるだろう。

 死人のように薮の陰に倒れていたアイオール、何も言わず虚ろな目を見開いて寝台に横たわっていたアイオールを思い出す。

 あの日、元通りの暮らしに戻れるなんてとても思えなかった。

 少年たちと笑いあっているアイオールの姿が、俺には夢のようにさえ思える。



 しかし……そう簡単に終わらないのだ、と、我々、いやアイオール自身も含めすぐに思い知らされた。



「そろそろユキシロに乗ってみようかと思うんだ」


 素振りを始めてしばらく経った頃、アイオールが言った。

 ヤツは元々乗馬は好きだ、今まで言い出さなかったのがおかしいくらいだろう。


「今まで毎日のように乗ってきたんだ。ユキシロもきっと寂しがって、退屈しているだろうね。可哀相なことをしたよ」


 そんなことを言ってヤツは笑った。


 次の日の午後。

 いつもしていたように俺とアイオールは、乗馬の支度をして厩舎へ向かう。


 風が冷たい。

 すっかり秋が深まっていた。

 厩舎のある方は落葉樹が多いのでそれがよくわかる。

 ついこの間までそれなりに葉を茂らせていた木々が、今は裸になって寒そうにこずえを揺らしている。


 さっきからアイオールは黙っている。

 なんだか顔色が冴えなかった。

 気になったが、久しぶりの乗馬に緊張しているのかなとも思った。


 ユキシロと、俺が乗ることの多い鹿毛のハヤブサが、鞍を乗せた状態で馬丁に引かれて来た。

 アイオールを認めたのか、ユキシロが嬉しそうにぶるると鼻を鳴らしたのが聞こえてきた。


 だしぬけにアイオールが立ち止まったので、俺は驚いて振り向いた。


 アイオールの顔に血の気はなかった。

 驚愕したように目は見開かれ、身体は細かく痙攣していた。

 白っぽく色変わりした唇の奥から、カチカチというかすかな音がもれてくる。


「おい……」


 声をかけた刹那、いきなりアイオールはくずおれ、すさまじい勢いで嘔吐した。

 意味をなさない幾人かの叫び声、驚いた馬たちのいななきが響き、辺りは騒然とした。



 半ばかつぐようにして俺は、アイオールを宮の中へと連れ戻す。

 何が起こったのか本人もよくわかっていない。

 放心したような主を、宮の者たちが世話をする。

 うがいをさせ、顔を拭き、泥と吐瀉物の飛沫で汚れた乗馬服を脱がせる。


 顔色が戻らないし、震えも止まらない。手足が異常に冷えている。

 サーティン先生を呼んで、当人には寝間着を着せて寝室へ連れていく。

 寝台に横になったアイオールは、あらぬ方を見つめて小刻みに震えている。

 サーティン先生の問いかけにもほとんど答えなかった。

 いや、どちらかというと答えられない、のかもしれない。うなずいたり、小さく首を振ったりする程度の反応はする。


 そのうちに今度は体温が上がってきた。

 熱そうに上掛けをはぎ、大きな息をつく。

 輾転と寝返りを打ち、最終的にうつ伏せになった。


「サ…ティン……先生」


 熱い息を吐いてうめくようにアイオールは侍医の名を呼ぶ。


「いたい、いたいです。背中が。右肩も」


 え、と不思議そうなつぶやきをもらすサーティン先生へ、じれたようにアイオールは続ける。


「本当です、本当に、痛い……」


 そのつぶやきを最後に、アイオールの意識は混濁した。



 俺はサーティン先生や侍女たちの邪魔にならないように寝室の隅に座り、うつむいて歯を食いしばり、馬鹿みたいに涙を流していた。

 思い出したのだ、あの日のことを。

 ユキシロの姿を見、風に乗ってただよってきた馬のにおいをかいだ途端に。


 本人だって想像していなかっただろう、まさかユキシロを見ただけであんなになるなんて。

 思えば、乗馬の支度をした時から様子が変だった。

 なんとか傷口を覆っていた薄いかさぶたが、『乗馬』『ユキシロ』をきっかけに乱暴にはがされた、ようなものなのだろう。


(アイオール!)


 あの時の傷の深さに、俺は改めて打ちのめされた。苦しい息の合間に、いたい、いたい、とつぶやくアイオールを見ているのは、はらわたが食いちぎられるようでたまらなかった。


「ここは私たちが看ているから、マーノは部屋に帰って休みなさい」


 お袋が何度か俺のそばに来てそう言ったが、俺は曖昧に首を振ってその場にい続けた。

 はっきり言って、ここに俺がいても役に立たないどころか迷惑だろうことはわかっていた。

 でもアイオールの苦しみから目をそらすのは、己れの失態・己れの罪から目をそらすような気がして、どうしても動く気になれなかった。


 とっぷりと日も暮れた頃、アイオールは小康状態になった。

 熱が落ち着いてきたのか、呼吸も楽そうになってきた。



 お袋たちに促され、俺は従者用の食堂へ向かう。

 とにかく夕食を食べてこい、あちらも片付かなくて迷惑しているから、と、半ば叱られるように言われてしまったのだ。

 灯りを手に、厨の隣にある食堂へのろのろ向かう。

 昔からただ『おばちゃん』とだけ呼んできた老婆が、とろ火にかけておいてくれたひき肉団子のシチューを多めによそってくれた。

 潰したとうもろこしと牛乳で煮た、とろみのあるシチューだ。


 胸に石でも詰まった感じで食欲はないが、食べない訳にもゆくまい。

 半ば仕方なく口にしたが、熱いシチューが胃に入った途端、身体に生気が戻った。

 凍え切った飢えた身体に、熱いシチューがたまらなく旨い。

 よそわれた分だけでは物足りず、もう一皿おかわりした上に残っていたパンまで少しもらった。


 白湯を飲み、一息つく。腹は満足したが気分は落ち込む。

 つくづく……俺は意地汚い。

 獣のように貪欲で真っ直ぐな己れの生命力に、我ながらうんざりした。



 アイオールの寝室へ戻る。

 うつぶせの状態でアイオールはこんこんと眠っていた。


「大丈夫なんですか、身動きひとつしないで寝てますけど」


 サーティン先生へ訊く。

 先生はやや疲れた顔を、それでもほころばせた。


「大丈夫ですよ。熱さましが効いて楽になられただけですから」


「それならいいんですけど……」


 いたい、いたいという悲痛なつぶやきが耳から離れない。

 俺の屈託を察したのか、先生はため息をついた。


「殿下のお苦しみは、幻痛……幻の痛み、などと言いますが、それだろうと思われますね。戦場で重傷を負った兵士などが苦しめられる病です。身体の痛みを心が覚えていて、もう治った、ありもしない傷の痛みに苦しむ状態をいいます。殿下のお心が怪我の治癒を納得するまで、我々は根気よく見守り続けるしか出来ませんねえ」


 不甲斐ない話ですが。そう言ってサーティン先生はもう一度、重いため息をついた。

 俺もため息をついた。言葉もなかった。



 その夜更け。

 俺は以前と同じように、長椅子で仮眠のような形で休んでいた。

 お袋たちには戻ってもらい、サーティン先生には控えの間に待機してもらうのも同じだ。


 そもそも俺以上に彼らが疲れているのは明白だ。

 俺の方から強く言って、彼らに休んでもらうことにしたのだ。

 気にかけながらも皆は、それぞれ引き上げた。


 うめき声に俺は飛び起きた。

 見ると、前と同じようにアイオールが、うつ伏せの状態で敷布を握りしめ、苦しそうにうなっていた。


「おい……」


 声をかけ、肩を揺する。途端におそろしい勢いでアイオールは身を起こす。


「さ、さわるな、触るなっ」


 菫の瞳に混乱が揺ぐ。


「殺せ、いっそころ……」


 皆まで言わさず強引に抱きしめる。

 混乱状態のアイオールには、大きな声で話しかけるなり強く拘束するなりするのが有効なのは、経験上わかっている。

 息をつめて硬直しているアイオールへ、俺は言う。


「しっかりしろアイオール、俺はマーノだ、マイノールだ!」


 何度か言うと混乱が治まってきたらしく、硬直は和らいだ。

 しかし今度は身体が小刻みに震え始めた。

 

「マーノ……」


 カチカチと歯を鳴らしながらアイオールは俺を呼ぶ。

 腕を緩め、顔を覗き込む。

 焦点の定まりきらない菫の瞳が俺を見返す。


「マーノ、助けてくれ、助けてくれ!痛い、痛いんだ。肩も背中も……痛くて痛くて、身体が砕けそうなんだ、マーノ、マーノ!」


「わかった。大丈夫だ、大丈夫だから、な?」


 子供をなだめるように言って聞かせるが、アイオールはかぶりを振る。


「大丈夫じゃない、痛い、痛いんだ。痛くて痛くて……気が変になりそうなんだよ……」


 いつの間にか菫の瞳は涙で曇っていた。


「お願いだ、もういっそ殺してくれ。頼む、頼むよマーノ。もう……もう嫌なんだ、辛いんだ。殺してくれ!」


 俺は一瞬息をつめ、素早くアイオールのみぞおちをなぐった。

 声も立てずに哀れな少年は、俺の肩にくずおれる。


「マーノ……」


 気配を察したサーティン先生が青ざめた顔で後ろに立っていた。慌てて着たらしいガウンの襟口がゆがんでいる。

 俺は先生に軽く頭を下げ、アイオールの身体をそっと横たえる。


「大丈夫です。錯乱なさったので強引に眠っていただきました」


 乱暴だなと言いたげにサーティン先生は眉をひそめたが、アイオールを軽く診て、小さく息をついた後俺を見た。

 何か言いたげに口を開きかけ、息をもうひとつついて、遅いですから休んでくださいねとだけ言った。



 控えの間に戻るサーティン先生を見送った後、思い付いてアイオールの身体に上掛けをかける。

 気を失っている半ば狂った哀れな少年の目尻には、ひとすじ涙の跡があった。


(本当に。殺してやった方がいいのかもしれない)


 物騒なことをふと思う。

 真面目な話、それくらいしか俺に出来ることはないのかもしれない。

 無力感に唇をかみ、俺は長椅子へ戻った。

 まだしばらく、夜は明けそうもなかった。

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