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瞳に溜まった涙が一筋、頬を伝った。
「私を…好き……?」
エリスは混乱していた。
アインがエリスに、好きだ、と言った。その声は甘くて、低くて、ぞくりとした。
「私は、私……はアインを」
応えなくては。
だって、好きって、言ってくれた。
その想いに、応えなくてはならない。
エリスの想いを込めて。
エリスは執務室を駆け出した。
♢♢♢
「………はぁ……」
ため息をつくと幸せが逃げる、というが今更だ。
馬鹿なことをした。意識しないで想いを伝えて、エリスを困らせて、挙句……逃げ出した。
(最ッ低だろ……)
項垂れた。
もう、どんな顔をしてエリスと会えばいいのかわからない。
「俺は、どうすればいい……」
額にかかった髪が邪魔くさくなって、軽く掻き上げた。
目の前が暗い。
ここは、どこだろう。
蒼の宮であることは間違いないだろうが無我夢中で来たから、明確にはわからない。
「はは……本当に、馬鹿だ」
「今更気付いたのか!この馬鹿ッ!!」
怒号が響いた。
聞き慣れた、それでいて、もう聞けないと思っていた声だった。
振り返れば、恋焦がれていた彼女がいる。
「…エリス」
「貴方が私から逃げるなんて百年早い!」
♢♢♢
エリスは深く息を吐いた。
二十一にもなって逃げ出した幼馴染みの逃避先は変わっていない。
(真っ先にここに来て正解だな…)
エリスとアインとロナウドの三人が、まだ幼い頃に『秘密基地』と呼んでいた物置部屋は今も変わらずにあった。
窓がなく、陽の光がないここは薄暗い。
それでも、エリスはまっすぐにアインに近づいて、同じように床に座り込み、膝を抱えた。
「……リルに教わったからよくは知らないけど、アインはヘタレだな」
平民では情けない者や、小心者のことを『ヘタレ』と呼ぶらしい。
今のアインはまさにヘタレだ。
「…なんだ、それは」
「うじうじしてる貴方のことだ」
「う………、そうだな…」
「自分で認めるその情けなさもしっかりヘタレだ」
わざと辛辣にした言葉にアインはぐったりと項垂れた。
その様子を横目に、エリスは抱えた膝に顔を埋め、ぽつりと呟く。
「………私も、ヘタレだなぁ」
うじうじと考え込み、レイヴンに叱咤されるまで動けず、薬師の仕事を言い訳にして。
アインが来ないことに苛立ちを覚えて、それでも立場を盾に何もせずにいた。
「それに。馬鹿だね、私も」
意図せず、口が開く。
自分が弱くなったみたいでぐりぐりと立てた膝に顔を擦りつけた。
涙が不思議と溢れて、ロングスカートにしずくが染みていく。
「アインは、ずっと一緒だった。ずっと私といたね」
「エリス……、」
大きな手が、躊躇いがちに髪を撫で下ろす。
最近では触れられることもないその感触が優しくてエリスは膝に顔を埋めたままアインににじり寄った。
髪に触れる手が一瞬強張るが、すぐにまた優しく頭を撫でてくれる。
「エリス、……好きだ」
「…………さっきも聞いた」
「…あぁ、さっきも言った」
開き直ったような言い方にくすくすと笑ってしまった。
膝から少し顔を上げ、隣のアインと目を合わせた。
蒼い瞳はとろけるように甘くて、エリスでもそれがわかった。
「エリス、俺と結婚してくれ」
偽りのない正直な言葉だった。
エリスは少し悩んで---アインの黒髪を一房掴んで、引き寄せた。
「っ!?」
「---断る」
コツン、と優しい音がした。
アインと額をくっつけ、真正面から向き合う。
「貴方が政略結婚をするつもりがないなら、私は断る。とりあえず、今は」
「え、エリス……」
「いい?今は、よ。---私はまだ、貴方を愛しているとは言えない」
「あ、愛!?」
アインの動揺など構わず、エリスは続ける。
「だから、これから私を惚れさせろ」
自分でも、大胆だと思う。
アインの秀麗な顔がみるみる驚愕に染まっていく。
「それからだ。アインハルト・クローデル殿下」
額を離し、エリスはニッと笑った。
告白は、唐突すぎた。
だったら、ゆっくりにすればいい。
(今からが楽しみだ)
アインの顔は未だ困惑したような間抜けた表情だった。
大丈夫か、とエリスが口を開きかけた瞬間、バタンッ!、と音を立てて物置部屋の扉が開いた。
「あぁああーッ!!やっと見つけた!二人して子どもの頃みたいに!!私はやっとの思いで縁談断ってきたのに!!」
「あ、ロナウド」
「私は執務室でおとなしく待ってるように、と二回言ったじゃないか!何故いない!?」
「悪かった悪かった。すべての責任は………ロナウドにある」
「何故私なんだ!」
怒り心頭とばかりに喚くロナウドをからかい半分にあしらっていると隣からくすっと笑う声がした。
アインが肩を震わせて、笑いをこらえている。
「アイン、何がおかしい?」
「いや、エリス、おまえなぁ……くく」
「殿下!何を笑ってるんです!?貴方がエリスを好いてるってバラしますよ!?」
「ロナウド、それもう聞いた。でも断ったから」
「へぇ、そう、断った----はぁっ!?」
「それじゃあ、私は帰る。---また来るよ」
サッと立ち上がり、エリスは呆然とするロナウドと未だ笑っているアインに告げ、物置部屋を出た。
意外と時間が経っていたようで、窓から射す陽は橙だった。
(……チェリータルトを置いてきたな)
そういえば、と思い出した。
チェリータルトはレイヴンの好物だったから持って帰ってやろうか、と考えていたのだ。
しかしエリスは、「まぁいい」と自己完結した。
レイヴンにはまた作ってやればいい。
今日の99点のチェリータルトは、しっかりアインに食べてもらわなくては。




