7話
「あ、あ、あ」
昔、親父と飲んでいた飲兵衛が語った一つの物語を思い出した。
確か臆病な男が題材の物語だったはず。
内容はよく覚えてない。
だが、その男が魔物に直面したとき恐怖によって声が出ず震える場面を覚えている。
あの時は、その男になりきっていた飲兵衛の表現が面白かっのが印象的だった。
それに俺はどんな魔物と出会ってもそんな風に怯えることはないと高を括っていた。
だが、現実は違った。
目の前にいるのはライカンスロープ。
狼系の魔物に分類されている通り、見た目は大きな狼。
四足歩行も二足歩行も出来る大狼。
今回の依頼はこのライカンスロープのことを指していたのだろうか。
「いや、いや、いやっ!」
現実逃避しかけていた頭が現実へと引き戻された。
ライカンスロープがリーリャの方へと体を動かした。
そりゃあ、リーリャを狙うのは当然だろうな。
一番近いのはリーリャなんだから。
正直逃げたい。逃げたいけど……
仲間を見捨てられなんかできねえよ!
「う、うわぁぁ!」
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!!
さっきまで三人でいたのに。
さっきまで会話をしてたのに。
「お前がいなければっっぅが!」
剣を持って突撃をしてはみたもののやはり簡単に弾き飛ばされる。
奴が片手を振っただけだというのに。
「ダン!」
「っぐ、げほ、お前は、街に戻れ」
「で、でも……」
ライカンスロープは俺っちたちの抵抗をまるで楽しんでいるかのように会話を邪魔してこない。
強者の余裕ってやつか。
挑発でもしているのか、目の前でゆっくりとエルンを食べ始めてすらいる。
「いいから街に戻ってこのことを話せ」
「ダ、ダンは?」
「誰かが足止めでもしないとな」
さっき返り討ちにあったせいで体が思うように動きそうにない。
どこか骨が折れているのかもしれない。
これでは一緒に逃げたとしても逃げ切れるわけがない。
「さっさと行ってくれ。今はあいつが遊んでいるから生きていられるだけなんだぞ」
「……私も、戦――」
「いいから行ってくれよ。こんな奴と戦っても……わかってるだろ」
ライカンスロープを討伐できる者なんて上級冒険者たちぐらいなものだ。
間違っても俺っちたち初級が束になって勝てるような相手ではない。
渋らないでくれ、リーリャ。
ここで二人が戦っても二人とも死ぬだけだろ。
「……パパ、パパを呼んでくるから!」
心の声を汲み取ったのか泣きそうな顔をしながらもリーリャが走り去ってくれた。
よかった。もう仲間が死ぬとこなんて見たくない。
ライカンスロープを見るとこっちを見て笑ってやがる。
「何がおかしいんだよ」
魔物相手につい口を開いてしまった。
答えなんか期待していなかったが次に起きたことは耳を疑うものだった。
『ぐっぐっぐ、どうせ二人とも俺に食べられるというのに必死になっているお前らが面白くてな』
「……何で、魔物が言葉を」
『さあな。それよりもほら、いいのか。お前の仲間はあらかた食べてしまったぞ」
もうエルンの体はほとんど残っていない。
あの短時間で……クソッ!!
どうせ俺もすぐあの状態になるんだろうな。
震える奥歯を噛み締めて、ライカンスロープに向かって剣を向けた。
せめて、リーリャのために少しでも時間稼ぎをしなければ。
『ほう、ふむ、恐怖と諦め。なのに覚悟か。ああ、お前を早く食べたいな』
「っ!」
来るか。
今の俺ではライカンスロープと対峙しても全てにおいて負けているから何も出来ないだろう。
だが、弱者といっても時間稼ぎぐらいはできるはずだ。
ひたすら襲い掛かってくる恐怖を押さえ込む。
震えていては何もできない。
剣は効かないだろうが牽制することぐらいできるだろう。
『さて、そろそろ喰うか』
のっそりと鈍重そうな動きをしてこっちを向いてきた。
だが惑わされない。
前に聞いた話が本当なら目に見えないほどの速さを誇るはずだ。
ゆっくりと近づいてくる。
一歩、一歩、ゆっくりと歩いてきて……
いきなり目の前に血まみれの爪が現れた。
避けようと咄嗟に体を動かしたが遅かった。
今まで俺っちと一緒だった腕が簡単に消えた。
「あっぐうぅあああああああ」
『ふっふっ、ぎゃっはっはっはっ』
駄目だ、俺っちの力じゃ足止めすらできない。
嬲り殺されるだけだ。
ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、ああ……
絶望の闇に囚われていく。
『さて、さっさと喰らってやろう。逃げた奴も追いかけないといかんしなぁ』
「……待てよ。まだ戦ってやる。あいつのとこには行かせねえよ」
もう自分が死ぬのはわかった。
このまま血が流れすぎても死ぬだろう。
なら、せめて、リーリャだけは、リーリャだけは生かす。
力の入らない片手で剣を握り直し、上段に構える。
それを見て更にライカンスロープは笑った。
奴に構わずそのまま剣を振り下ろしてみたが、簡単に弾かれてしまう。
『くく、弱い弱い弱い!弱い奴は俺に喰われるだけだ!!』
ライカンスロープの牙が俺っちの足を貫き、そのまま体ごと持ち上げられた。
完全に遊ばれているがそれでも時間が稼げるならそれでも……
『まずは足だ』
「ぎゃぁああああああああ」
右足を喰われた。
『無様だな。フフッ、にしても人間は面白い。顔面をグチャグチャにして無様に泣き叫ぶ。他の生き物ではこの面白さは味わえん』
死がもう目の前にあるのがわかってしまう。
視界がぼやける。
ああ、やっぱり、やっぱり嫌だ。
「死に、た、くな、い」
『死にたくない?死にたくない?無理に決まってんだろうがぁ!!』
剣は……あるな。
ぼやけた視界の中に油断しているライカンスロープの顔がすぐ近くに見える。
せめて、せめて、一矢報いたい。
毛で剣は弾かれるなら、他の場所に……
「う、おおぉぉ」
『グギャァァ!!』
神はそこまで信じていなかったが今は信じよう。
今の俺の力で何か出来ると思っていなかったが、奇跡的にライカンスロープの目に突き刺さった。
『このガキがぁぁ!』
ライカンスロープを激昂させたが一矢報えたことで良しとするか。
ライカンスロープの怒りに任せた拳で左足を潰された。
もう感覚がないのは助かったな。
世界の色が徐々に消えていく。
……ああ、これが死か。
リーリャは、助かるかな。
やっぱり、死にたく、なかったな。
俺っちの網膜に焼き付いた最後の景色は、俺を殺そうとする拳と……草陰から出てきた黒くおぞましい何かの姿だった。