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第2話 20年前の味噌汁と、母の背中


 暖かかった。


 凍えるような寒さも。

 胃袋を雑巾絞りされるような、あの嫌な飢餓感も。


 嘘のように消えていた。


(……ここは、天国?)


 重い瞼を開ける。

 視界に入ってきたのは、見覚えのある天井だった。


 黄ばんでカビの生えた、あのクロスの天井ではない。

 白く、清潔な天井だ。


 体を起こすと、そこは紛れもなく私の部屋だった。

 足の踏み場もないほど散乱していたゴミ袋の山がない。


 埃まみれだったパソコンデスクも、読み散らかした漫画本も、整然と片付いている。


「……夢、か」


 あれほどリアルな死の感覚を味わったのに、結局は夢オチか。

 あるいは、死ぬ間際に見ている走馬灯というやつかもしれない。


 その時。


 階下から、トントントン、とリズミカルな音が聞こえてきた。


 包丁がまな板を叩く音。

 続いて、鼻腔をくすぐる匂いが漂ってくる。


「……お味噌汁?」


 出汁の香り。

 私の胃袋が、強烈に反応した。


 夢でも幻でもいい。何か食べたい。

 私はふらつく足取りで部屋を出て、階段を降りた。


 廊下も綺麗だ。床が光っている。

 リビングの扉を開けると、そこには眩しいほどの朝の光が差し込んでいた。


 キッチンに、エプロン姿の背中があった。


 少し丸まった、小さな背中。

 黒髪に少しだけ白髪が混じり始めた、懐かしい後ろ姿。


「……かあ、さん?」


 絞り出すような私の声に、その背中が振り返る。


 そこには、あの日、冷たい玄関で動かなくなっていた母ではなく――。

 血色の良い、元気な幸子さちこがいた。


「あら、やっと起きたの? おはよう、めぐみ


 母さんは、呆れたように、でも優しく微笑んだ。


「ほら、ボサッとしてないで顔洗ってきなさい。もうご飯できてるわよ」


 その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。

 喉の奥から、嗚咽がこみ上げてくる。


「かあ……さ……ッ」


「え? ちょっと、どうしたの恵? 何泣いてるのよ」


 慌てて近づいてくる母さんに、私は言葉にならず、ただ首を振った。


 夢なら覚めないでくれ。

 もしこれが死後の世界なら、神様に感謝したい。


 私は洗面所で顔を洗うと、食卓についた。

 テーブルの上には、湯気を立てる白いご飯。


 豆腐とワカメのお味噌汁。

 目玉焼きに、ウインナー。

 そして、梅干し。


 豪華な食事じゃない。

 どこにでもある、ありふれた日本の朝食だ。


 でも、私にとっては、世界で一番の御馳走だった。


「いただきます……ッ」


 震える手で箸を持ち、ご飯を口に運ぶ。


 熱い。

 そして、甘い。


 お米の一粒一粒が、生きているみたいに立っている。


 次にお味噌汁をすする。

 温かい液体が、冷え切っていたはずの内臓に染み渡っていく。


「う……うう……」


 涙がポタポタと茶碗の中に落ちる。

 止まらない。


「美味しい……美味しいよ、母さん……」


 口いっぱいに頬張りながら、私は泣いた。

 あのゴミ屋敷で、最後に食べたかった塩むすびなんかより、ずっと、ずっと美味しい。


「そんなに慌てて食べなくても、誰も取らないわよ。……変な子ねぇ」


 母さんは不思議そうに私を見ていたが、やがて優しくお茶を入れてくれた。


 完食した。

 米粒ひとつ残さず、最後の一滴まで。


 一息つくと、冷徹なほどの冷静さが戻ってきた。

 私は壁のカレンダーを見た。


 20XX年 4月。


 ……20年前だ。


 洗面所に駆け込み、鏡を見る。

 そこに映っていたのは、肌に張りがあり、目の下にクマもない、若い頃の私だった。


 これは、夢じゃない。

 手をつねったら、飛び上がるほど痛かった。


 戻ってきたんだ。

 あの地獄の孤独死ルートから、母さんがまだ元気で、私もやり直せる時間に。


(神様……ありがとう)


 私は胸の前で拳を握りしめた。

 

 もう二度と、あんな思いはしたくない。

 あんな惨めな死に方は、絶対に御免だ。


 それに、この母さんを、あんな風に一人で死なせたりしない。


「ねえ、恵。あんた今日、面接でしょう? 時間は大丈夫なの?」


 母さんの言葉に、ハッとする。


 そうだ。

 この日は、私がバイトの面接を仮病でブッチした日だ。

 ここから、私の『逃亡の20年』が始まったんだ。


「……ううん、大丈夫」


 私は涙を拭い、力強く答えた。


「行ってくる。私、絶対に受かってくるから!」


「え? あ、そう……頑張ってね」


 普段の私とのギャップに、母さんは目を白黒させている。


 私は部屋に戻ると、クローゼットからリクルートスーツを取り出した。

 鏡の中の自分と目が合う。


 中身は40歳の喪女。でも、一度地獄を見てきた女だ。

 バイトの面接ごとき、何が怖いものか。


「よし」


 私は頬を両手で叩き、気合を入れる。

 

 2回目の人生、スタートだ。

 まずはこの「最初の逃亡」という歴史を、私の手で変えてやる。



第2話をお読みいただきありがとうございます。


冷え切った心と体を温めたのは、母の作ったお味噌汁でした。

当たり前だと思っていた幸せが、実はどれほど尊いものだったか。


次話、いよいよ最初の試練「面接」です。

40歳の魂を宿した恵が、圧迫面接をどう切り抜けるのか!?


第3話「死ぬことに比べたら、圧迫面接なんてただの雑談です」


引き続きお楽しみください!



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