第21話「臨界」⑥
ドガッ。 バキッ。 グシャリ。
音が、世界を支配していた。
硬い靴底が、柔らかい肉を押し潰す音。
骨が許容量を超えて軋み、砕ける乾いた音。
そして、アスファルトに滲んだ血液が、
靴と地面の間で粘り気のある音を立てる、湿ったノイズ。
蓮司の意識は、すでにここにはなかった。
彼は作業をしていた。
目の前にある「不快なもの」を、平らにならす作業だ。
足元の男たちはすでに意識を失い、
あるいは呻き声を上げることすら忘れ、ただの物体として転がっている。
だが、蓮司の足は止まらない。
(まだだ)
(まだ形が残っている)
(まだ音がする)
脳内を埋め尽くす耳鳴り。
過去から響く嘲笑。
それらをかき消すには、もっと大きな、もっと物理的な破壊音が必要だった。
右足を持ち上げる。
重力に任せて振り下ろす。
その単純な反復運動だけが、今の彼を突き動かす唯一のプログラムだった。
完全に、壊れたレコードのようだった。
暴力の円環に閉じ込められ、出口を見失った獣。
その光景は、戦いなどという生易しいものではなく、
一方的な蹂躙であり、冒涜的な儀式にすら見えた。
その時だ。
パチ、パチ、パチ、パチ。
場違いな音が、路地の入り口から響いた。
乾いた、軽い音。
拍手だ。
血と泥と嘔吐物の臭いが充満するこの凄惨な空間には、
あまりにも似つかわしくない、軽薄なリズム。
蓮司の足が、空中で止まった。
プログラムに異物が混入したかのように、動作が凍りつく。
ゆっくりと、首だけを動かして音の源を見る。
そこには、見覚えのある男が立っていた。
「いやー、見事なもんやな。けど、そこまでにしとき」
男は、ヘラヘラとした笑みを浮かべていた。
くたびれたジャケットに、シワの寄ったスラックス。
どこにでもいる、冴えない中年サラリーマンのような風体。
八雲侠佑。
昨夜会った紗良の父親で確か京都府のスクールソーシャルワーカーだったか。
蓮司の曇った視界が、その顔を認識するのに数秒を要した。
なぜ、この男がここにいる?
そんな疑問よりも先に、蓮司の本能が警鐘を鳴らした。
足音だ。
この男がここまで歩いてくる音を、蓮司は聞き逃していた。
これほど神経が過敏になっている状態で、接近に気づけなかった。
それは、男の足運びが異常なほど洗練されていることを意味していた。
重心がまったくブレない。
アスファルトの上を滑るように、音もなく距離を詰めてくる。
昨夜流れで共に行動していた時は「ただの人の良さそうなオッサン」に見えたが、
この血なまぐさい路地裏で見ると、その印象は一変していた。
ダボついた服の下にある肉体は、
無駄な脂肪が削ぎ落とされ、いつでも動けるバネを秘めている。
(……邪魔をする気か)
蓮司の警戒レベルが跳ね上がる。
知っている顔だろうが関係ない。
敵なら、排除する。
蓮司はゆっくりと体を回転させ、侠佑に向き直った。
その目は、獲物を品定めする獣のそれだった。
「おっと、怖い怖い」
侠佑は両手を軽く上げて、降参のポーズを取った。
だが、その目だけは笑っていなかった。
細められた瞳の奥に、冷たく、静かな光が宿っている。
それは、暴力というものを知り尽くし、
その底にある虚無を覗き込んだことのある人間にしかできない目だった。
「蓮司くん、もう十分やろ。
これ以上やったら、こいつらホンマに死んでまうで」
「…………」
「死なせたら、負けや。君のその足は、人殺しのためにあるんか?」
柔らかい関西弁。
だが、その言葉は鋭い針のように、蓮司の混濁した意識の隙間に突き刺さった。
人殺し。
その言葉に、蓮司の心臓がドクンと跳ねた。
足の裏の感覚が戻ってくる。
自分が踏みつけていたものが、
ただの物体ではなく、温かい血を通わせた人間であったという事実が、
遅れて脳に届く。
蓮司の肩が、小さく揺れた。
呼吸が荒くなる。
殺気は消えない。
だが、その矛先が迷子になったように揺らぎ始めた。
侠佑はそれを見逃さず、今度は視線を足元のチンピラたちへと移した。
意識を取り戻しつつある彼らは、蓮司への恐怖で動けずにいる。
侠佑はポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面を彼らに向けた。
「ほら、見てみ。動画、バッチリ撮らせてもろたで」
画面には、数分前の光景が映し出されていた。
チンピラたちが紗良を取り囲み、腕を掴み、ナイフを取り出して威嚇する姿。
そして、蓮司が強烈な蹴りで彼らを制圧する瞬間までの「証拠」だ。
「俺の娘に恫喝して、拉致しようとしてる部分も、刃物出した瞬間も、全部や。
……さて、これ、警察とSNS、どっちに見せんのが都合悪い?」
男たちの顔色が変わった。
痛みで歪んでいた表情が、今度は別の種類の恐怖で引きつる。
警察沙汰になれば、ただの傷害事件では済まない。
組織の上の人間に迷惑がかかる。
だが、SNSで拡散されれば、彼らの顔も名前もネットの海に晒され、
組織からも切り捨てられるだろう。
「あ、あんた……何者だ……」
短髪の男が、掠れた声で尋ねる。
侠佑は答えず、ただ冷ややかな笑みを深めた。
その立ち姿からは、
昨晩見た「どこか胡散臭い大人」の雰囲気は消え失せていた。
代わりに漂うのは、夜の街特有の、湿った鉄の匂い。
表社会の人間ではない。
かといって、彼らのようなチンピラとも違う。
もっと深く、もっと古い、筋金入りの「闇」の匂い。
「ただ、一個条件を呑んでくれるんやったら、
今の話はなかったことでええけどな」
侠佑はスマホを下ろし、男たちを見下ろした。
その声のトーンが、一段階低くなる。
「……お前らの頭の居所を言えや」
空気が凍りついた。
チンピラたちの目が泳ぐ。
「頭」という言葉が出た瞬間、彼らの反応は劇的だった。
痛みも忘れて、首を横に振る。
「そ、そんなこと言える訳ねぇだろうが!?」
「殺される! 言ったら俺たちが消されるんだよ!」
「勘弁してくれ! 警察のがマシだ! 連れて行ってくれ!」
彼らにとって、目の前の男や警察よりも、
「頭」と呼ばれる存在への恐怖の方が勝っているのだ。
その過剰な狼狽ぶりが、逆にその「頭」の異常性を物語っていた。
侠佑は小さく舌打ちをした。
眉間のシワが深くなる。
普段の温和な仮面が剥がれ落ち、その下にある本性が顔を覗かせる。
「……ほうか。言えんか」
静かな声だった。
だが、その静けさが、逆に恐ろしかった。
侠佑が一歩、男たちに近づく。
その一歩だけで、男たちは悲鳴を上げて後ずさる。
「それやったら――」
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