第18話「臨界」③
「て、テメェ……!」
短髪の男が叫んだ。
その声は、恐怖に裏返っていた。
だが、恐怖は暴力への最も安易な導火線だ。
人間は理解できないものを前にしたとき、
排除することで安寧を得ようとする。
男の右手が、ズボンのポケットから素早く引き抜かれた。
カチリ、という乾いた音が鳴る。
飛び出しナイフだ。
夕日の残滓を受け、銀色の刃渡りが鈍く光った。
その「銀色」を見た瞬間、蓮司の脳裏で、錆びついた扉が開いた。
視界が明滅する。
目の前のチンピラの顔が、歪んで溶け出し、
別の顔へと作り変えられていく。
白衣。消毒液の臭い。
『お前のような欠陥品には、これがお似合いだ』
かつて聖霊護院の地下室で、嘲笑いながらメスをちらつかせた職員の顔。
過去と現在が、汚れたフィルムのように二重写しになる。
「また邪魔しやがって……! 死ねやオラァッ!」
男が踏み込んだ。
殺意の込められた一撃。
その動きは、素人の喧嘩にしては鋭かった。
恐怖がリミッターを外し、生存本能が速度を上乗せしている。
切っ先が狙うのは、蓮司の腹部。
蓮司の瞳孔が、わずかに収縮した。
万全の状態であれば、それは止まって見えたはずだった。
相手の右肩が下がる予備動作。重心が前足に移る瞬間。
呼吸を読み、半歩ずらして手刀を叩き込めば、それだけで終わる話だ。
それだけの修羅場を、この七年で飽きるほどくぐり抜けてきた。
だが、今の蓮司は違った。
(――遅い)
脳はそう判断した。
網膜に映る映像はスローモーションのように緩慢だ。
しかし、その情報を処理し、
脊髄を通じて筋肉へ命令を送る回路が、
泥のような疲労物質で目詰まりを起こしている。
四肢が鉛のように重かった。
足の裏が地面に張り付いて、根が生えたように動かない。
神経の伝達速度が、耳鳴りというノイズに阻害されている。
『かわせ』
その命令が、右足の腓腹筋に届くまでに、永遠のようなラグがあった。
ようやく筋肉が収縮を始め、体を左へ捻ろうとする。
だが、その動作はあまりにも鈍重だった。
新しいアスファルトの微細な凹凸に、靴底のラバーがほんの数ミリ引っかかる。
ガクリ、とバランスが崩れる。
致命的な隙。
目の前で、銀色の切っ先が巨大化する。
ヒュッ。
風を切る音。
それは、死神の鎌が空気を裂く音に聞こえた。
回避が間に合わない。
刃がパーカーの生地に触れ、繊維を断ち切る微かな振動が肌に伝わる。
次の瞬間。
ジュッ、と熱い鉄を押し付けられたような感覚が左脇腹を走った。
「ぐッ……」
蓮司の口から、微かな呻きが漏れる。
鋭い痛みではない。最初はただ「熱」だった。
皮膚が裂け、皮下組織が外気に触れ、
その直後に遅れて神経が悲鳴を上げる。
浅い。
内臓には届いていない。
だが、確実に肉を断った感触があった。
温かい液体が滲み出し、脇腹を伝って腰の方へと流れていく。
血の匂い。鉄の匂い。
それが、鼻孔の奥にこびりついていた消毒液の幻臭と混ざり合う。
「へへッ、当たった! やっぱり鈍ってやがる!」
男が狂喜の声を上げた。
刃先に血がついているのを見て、自信を取り戻したのだ。
「化け物かと思ったが、ただの弱ってるガキじゃねえか!」
男の顔が、再び歪む。
蓮司の目には、それが聖霊護院の職員が
嗜虐的な笑みを浮かべた瞬間の顔に見えた。
『痛いか? 泣けよ。泣いて許しを請えや!!』
幻聴が脳内を反響する。
男は再びナイフを構え直し、
今度は首元を狙って突き出してきた。
直線的な突き。殺す気だ。
その瞬間。
蓮司の世界が変質した。
脇腹の痛み。
ジリジリと焼けるような熱。
ズキズキと脈打つ鈍痛。
その鮮烈な信号が、脳内を支配していた濁った霧を一瞬で吹き飛ばした。
吐き気も、耳鳴りも消えはしない。
だが、「痛み」という強烈なアンカーが打ち込まれたことで、
拡散していた意識が一点に収束したのだ。
(痛みがある……)
蓮司は、血の滲む脇腹を押さえようともしなかった。
むしろ、その熱さを歓迎していた。
痛いということは、まだ神経が生きているということだ。
痛いということは、まだ自分が「モノ」ではなく
「人間」として機能しているということだ。
この痛みが、過去の幻影を切り裂き、今の現実を繋ぎ止めてくれる。
「死ねぇ!」
男の突きが迫る。
その軌道、速度、角度。
すべてが手に取るように分かる。
蓮司の目が、虚ろなガラス玉から、冷徹な照準器へと変わる。
身体の重さは消えない。疲労も消えない。
ならば、その重さを利用すればいい。
華麗に舞う必要はない。
泥にまみれて、相手を引きずり込めばいい。
蓮司は、あえて踏み込んだ。
避けるのではない。自ら刃の間合いへ。
0.1秒の世界。
男が驚愕に目を見開く。
刃先が喉元に届く寸前、蓮司の左手が蛇のように絡みついた。
ガシッ。
ナイフを持った男の手首を、上から鷲掴みにする。
技術も型もない。
ただの握力。
蓮司の指先が、男の皮膚に食い込む。
汗で滑る感触を無視し、橈骨と尺骨をすり合わせるように、
万力のごとき力で締め上げる。
「あ……がッ!?」
男の動きが止まる。
蓮司は表情一つ変えず、掴んだ手首を外側へ
――関節の可動域を無視した方向へ
――強引にねじり上げた。
合気道のような流麗さはない。
そこにあるのは、錆びたボルトを無理やりねじ切るような、
無骨で暴力的な破壊の意思だけだ。
メキリ。
嫌な音が響いた。
手首の靭帯が限界を超えて引き伸ばされ、千切れ飛ぶ音だ。
「あ゛ッ……!」
男の手から力が抜け、ナイフがアスファルトに落ちて
カランと乾いた音を立てる。
だが、蓮司は離さない。
ねじり上げた手首を支点に、自らの体重をすべて浴びせかける。
重力と、疲労した肉体の重みを利用して、男を地面へと引きずり倒す。
ドガッ!
新しいアスファルトに、男の顔面が叩きつけられる。
受け身も取らせない。
鼻が潰れる感触。前歯がへし折れる音。
鮮血が黒い地面に散り、蓮司の靴にかかる。
「ギャアアアアッ!」
男の悲鳴が、夕闇を引き裂いた。
蓮司は倒れた男の腕を離さず、さらに体重をかけて肩関節を極める。
完全に無力化する実戦的な制圧。
だが、その手つきには慈悲がなかった。
必要以上に強く、必要以上に深く。
男が痛みにのた打ち回ろうとするのを、
膝で背中をグリグリと押さえつけて封じる。
肋骨が軋む音が、靴底を通して伝わってくる。
その光景に、残りの二人が凍りついた。
明日も投稿しますので、読んで頂けると嬉しいです!!
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