第17話「臨界」②
(……似ているな)
誰に似ているのか。
考えようとした思考は、ノイズにかき消された。
ズキン、と側頭部で脈が跳ねる。
頭痛がひどい。
頭の中で、無数の虫が這い回っているような不快感。
立っているだけで、世界が斜めに傾いていくような錯覚。
蓮司は、ゆっくりと息を吐いた。
白く濁った呼気が、夕闇に溶けていく。
その呼吸音だけが、この場の静寂を支配していた。
男たちは動けなかった。
蓮司は何もしていない。
構えてもいないし、拳も握っていない。
ただ、そこに立っているだけだ。
だらりと下げられた両腕。
焦点の定まらない、虚ろな瞳。
顔色は蝋人形のように白く、脂汗が額に滲んでいる。
傍目には、病人のようにも見えただろう。
あるいは、薬物中毒者の禁断症状か。
だが、暴力を生業とする男たちには、それが別の意味に見えた。
――揺らぎ。
蓮司の存在そのものが、不確かに揺らいでいる。
いつ倒れてもおかしくない危うさ。
だがそれは同時に、いつ爆発してもおかしくない火薬庫の危うさでもあった。
理性が効いているのかどうかも分からない。
言葉が通じるのかどうかも分からない。
その「予測不能な狂気」が、男たちの足を縫い止めていた。
「て、テメェ……また邪魔しに来やがったのか」
短髪の男が、震えを隠すように声を張り上げた。
虚勢だ。
声が裏返っている。
蓮司はその声に反応し、ゆっくりと視線を巡らせた。
まるで、羽音のうるさい蝿を見つけたときのように。
その緩慢な動作が、さらに相手の神経を逆撫でする。
(うるさい……)
蓮司の内側で、黒い泥のような感情が渦巻いていた。
怒りではない。
もっと根源的な、破壊への渇望。
目の前の「不快なもの」をすべて排除して、静寂を取り戻したいという衝動。
ジムでの十二ラウンド。
筋肉を断裂寸前まで追い込み、思考を焼き切ったはずだった。
なのに、なぜまだこんなにも感情が残っているのか。
なぜ、目の前の少女の震え一つで、胸の奥がこんなにも痛むのか。
吐き気がこみ上げる。
胃の中身は何もない。
あるのは、飲み込んだ苦い過去だけだ。
蓮司は口元を手で覆いそうになるのを堪え、喉の奥で嗚咽を殺した。
その動作が、皮肉にも「笑いを噛み殺している」ように見えたらしい。
男たちの顔が引きつる。
「な、何がおかしいんだよ……!」
「気色悪ぃんだよ、お前……!」
男たちの罵声が遠い。
蓮司は、自分が水の中に沈んでいくような感覚を覚えていた。
皮膚の感覚が麻痺し、アスファルトの冷たさも、
夕風の湿気も、遠い記憶のように感じる。
ただ、心臓の音だけがうるさい。
ドクン、ドクン、ドクン。
そのリズムに合わせて、視界が赤く明滅する。
このまま理性を手放してしまえば、楽になれるかもしれない。
目の前の男たちを肉塊に変えて、
その悲鳴で耳鳴りを消せば、静かになれるかもしれない。
右手が、無意識にポケットの中で震えた。
拳を作ろうとしている。
骨が、肉を打つ感触を求めている。
(だめだ……)
かろうじて残った理性が、ブレーキをかける。
ここで暴れれば、紗良を巻き込む。
ここで壊れれば、二度と戻れない。
紗月との約束。
蘭華の笑顔。
それらが、薄氷の上で踏みとどまらせる。
蓮司は深く息を吸い込んだ。
肺いっぱいに、腐ったドブと鉄の匂いを満たす。
そして、溜まりに溜まった澱を、言葉として吐き出した。
「……今俺は、最悪の気分なんだ」
声が出た。
それは、人間の声というより、地底から響く地鳴りのようだった。
低く、掠れ、湿り気を帯びた声。
悪夢の中で、助けを求めても誰にも届かなかった時の、
あの絶望的な遠吠えに似ていた。
男たちが息を呑む。
紗良が目を見開く。
蓮司は、焦点の合わない瞳で、ぼんやりと男たちを見つめた。
彼らの姿が、二重三重にブレて見える。
そのブレた輪郭の向こうに、かつて自分を虐げた大人たちの影が重なる。
殺意が、喉元までせり上がる。
それを必死で飲み込み、蓮司は言葉を続けた。
「悪いが――回れ右して消えろ」
言葉の意味などどうでもよかった。
それは警告ではなく、事実上の宣告だった。
消えなければ、壊す。
そう言っているに等しかった。
風が止まった。
夕闇の空き地に、重苦しい沈黙が落ちる。
カラスの声も、遠くの車の音も消えた。
ただ、蓮司から立ち昇る、
目に見えない黒い陽炎のような揺らぎだけが、空間を支配していた。
男たちは動けない。
逃げ出すことも、立ち向かうこともできず、
ただ金縛りにあったように蓮司を見つめている。
生物としての本能が、警鐘を鳴らしていた。
目の前の男は、怪我をしている。
疲弊している。ふらついている。
だが、決して「弱って」はいない。
手負いの獣が最も危険であるように、
今の彼は、触れれば爆発する臨界点に達しているのだと。
蓮司は、もう彼らを見ていなかった。
視線は虚空を彷徨い、内側の闇を見つめている。
指先が、わずかに動いた。
その小さな動作だけで、空き地の空気がピシリとひび割れた気がした。
限界だった。
肉体も、精神も、理性も。
あと一秒。あと一言。
何かが引き金になれば、すべてが終わる。
そんな破滅の予感が、夕暮れの空き地を濃厚に満たしていた。
明日も投稿しますので、見て頂けると幸いです!!
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