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『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』  作者: たーゆ。
第1部「灰の路」 第2章「灰の綻び」

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第14話「灰の光芒」⑤

 扉を押すと、軋む音が腹の底に響いた。

湿った鉄の匂いが鼻を刺す。

薄暗い室内に足を踏み入れると、空気の重さが一気に変わった。

埃が光をまとって、静かに舞っている。

かつてボクシングジムだったこの場所には、もう人の声も気配もない。

今は、もう何も残っていない。

息を吐く音だけが、この空間の主だった。


 蓮司は黙って靴を脱ぎ、フロアの中央に立つ。

冷たい木の板の感触が足裏から伝わる。

空気は動かず、少し湿っていた。

その静けさの中で、彼はいつものルーティンを始めた。


 最初はステップワーク。

ボクシングの基本だ。

軽く膝を曲げ、重心を落とす。

足の裏全体ではなく、つま先と母趾球ぼしきゅうだけで

床を捉え左右に滑らせる。

 前へ、後ろへ、右へ、左へ。

音を立てず、床を擦るように。

彼の動きは一定のリズムを刻んでいるようでいて、どこか無機質だった。

ステップを踏むたびに、埃が舞い上がる。

蛍光灯の白い光が、その中で小さく瞬く。

時間の流れが曖昧になる。

 蓮司の意識は、目の前の動きだけに沈んでいった。

呼吸は静かで、一定だ。

だが、心の奥は波立っていた。

 どれだけ体を動かしても、頭の中から“あの声”が消えない。

泣いている誰かの声。

助けを求めている誰かの手。

それが誰だったのか、もう思い出せない。

けれど確かに、その光景は体に刻まれていた。


 ステップワークを終えると、彼は壁際に吊るされたサンドバッグの前に立った。

裸の拳を握り、軽く息を吐く。

 ──ここからが、いつもの十二ラウンドだ。

サンドバッグを叩く音は、最初は乾いた。

ドン、ドン──皮の表面が拳を弾き返す。

3分を1ラウンドとして、12ラウンド。

合計36分。

 その間、彼は一言も発さず、ただ打ち込み続ける。

ボクシングの打撃は、ただ腕を振るうだけではない。

拳を打ち出す瞬間、肩、腰、足の順にねじりを連鎖させて力を伝える。

右ストレートなら左のつま先をわずかにひねり、

腰を切り、最後に拳を走らせる。

 蓮司の体はそれを覚えていた。

筋肉が、関節が、もう考えなくても動く。

最初の数ラウンドは、まるで儀式のようだった。

 右。左。ジャブ。ストレート。ワンツー。

打つたびに、皮が裂けるような音が部屋に響く。

拳の骨が鈍く痛む。

それでも止めなかった。

痛みだけが、まだ“生きている”ことを確かめさせてくれる。


 五ラウンドを過ぎるころには、汗が顎から滴っていた。

呼吸は荒れ、シャツは背中に貼りついている。

拳は赤く腫れ、皮が少し剥がれ始めていた。

 だが、蓮司は気に留めなかった。

八ラウンド目を過ぎると、呼吸と音の区別がつかなくなった。

拳を打つ音が、まるで誰かの心臓の鼓動のように感じられる。

 ドン、ドン、ドン──

それは、彼が過去に聞いた怒号のリズムにも似ていた。

 殴り続けた拳の感触の中に、蓮司は何度も過去の影を見る。

 泣いている少年。

 叩かれる音。

 燃える煙草。

 声にならない叫び。

 それらが混ざり合って、サンドバッグの向こうに浮かび上がる。

 ──もう、やめろ。

そう思っても、体は止まらない。

打つたびに、頭の中が白くなっていく。


 気づけば、十二ラウンドが終わっていた。

サンドバッグの表面には、無数の汗の跡と、赤黒い血の染みが広がっていた。

蓮司は拳をほどき、息を吐く。

指の間から、細い血の線が滲み出ている。

けれど、痛みは感じなかった。

痛みを感じないことに、もう慣れてしまっていた。


 壁際のパンチングボールに向かう。

小さな革球がゴムの紐で天井から吊るされている。

軽く拳を当てると、ボールが高速で往復する。

 タン、タン、タン…

その音は、まるで時計の秒針のようだった。

リズムを崩せば、ボールは軌道を外れる。

わずかな集中の乱れが、すぐに跳ね返ってくる。

だからこそ、すべての雑念を削ぎ落とす。

思考が消え、時間の感覚がなくなる。

それは彼にとって、無我の境地に思えた。


 パンチングボールを止め、息を整えると、ダンベルを手に取った。

片手に1kgずつ。

軽く見える重さだがこれで3分×12ラウンドのシャドーボクシングを行えば、

腕の筋肉は確実に悲鳴を上げる。

 彼は鏡の前に立ち、構えた。

曇った鏡には、自分の輪郭がぼんやりと映っている。

見ているのが“自分”なのか、“かつての誰か”なのか、もう分からなかった。


 ラウンドタイマーが鳴る。

蓮司は拳を振るった。

 ジャブ、ストレート、スリップ、ウィービング。

 ステップを刻み、身体をひねり、空を打つ。

風を切る音が、微かに耳を掠めた。

鏡の中の自分が、ぼろ布のように揺れて見えた。

途中、呼吸が乱れる。

視界が滲む。

それでも止めない。

それはもう鍛錬ではなく、“確認作業”だった。

 ──まだ動ける。まだ壊れていない。

そう確かめるための儀式。


 十一ラウンド目には、腕が痙攣し始めた。

握力が抜けかけ、ダンベルが指の間で滑る。

それでも構わず、動き続けた。

鏡の向こうで、自分が崩れていくように見えた。

まるで、灰になっていく人間の影のように。


 最後のラウンド。

タイマーが鳴る音が遠くに聞こえた。

拳を振り、腕を引き戻す。

もう何も見ていない。

何も感じていない。

ただ、動きを止めた瞬間に崩れ落ちそうになる体を、意地で支えていた。


 ラウンド終了のブザーが鳴る。

蓮司は肩を落とし、ダンベルを床に置いた。

汗が滴り落ち、床に小さな斑点を作る。

胸が大きく上下し、呼吸が掠れる。

耳の奥で、自分の鼓動が鳴っていた。

 ドクン、ドクン、ドクン──

それはサンドバッグを打っていた時の音と、まるで同じリズムだった。

彼は天井を見上げた。

ひび割れた蛍光灯の光が、ぼやけて揺れている。

その下で、自分の影がゆらゆらと形を変えていた。

 ――紗良、由佳。

どこにいる。

その名を口の中で転がすように呟いた。

 声にはならなかった。

空気に吸い込まれて、消えた。

ジムの中には、再び静寂が戻った。

風の音も、外の気配もない。

ただ、彼の荒れた呼吸だけが、確かにそこにあった。




明日も投稿します!!

読んで頂けると嬉しいです!!!

よろしくお願いします!!!!

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