第13話「灰の光芒」④
昼を過ぎても、空はどこか白んでいた。
風のない午後。蓮司はわざわざ外に出て食べる気にもなれず、
適当に炊いた米を茶碗に盛り、味噌汁を流し込んだ。
味は覚えていない。食べ終えたあとも、心の中には空洞が残ったままだった。
紗良。由佳。
名前を思い出すたび、胸の奥が微かにうずく。
会ったことはない。
けれど、彼女たちがこの街のどこかで確かに息をしていたということだけが、
なぜか自分の呼吸を支えている気がしていた。
──あの二人は、まだ生きているのか。
そう問いかけても、答えはどこからも返ってこない。
ただ、昨日の夜から降り続いていた細かな雨の匂いだけが、
部屋の中にまだ漂っていた。
着替えを済ませると、蓮司は玄関の扉を静かに閉めた。
行き先は決まっている。
七ノ舟入自転車駐車場のすぐそばにある廃ジムだ。
自分が木屋町に流れつくより前に時を閉ざしたあの場所だけが、
今も過去の残響を留めているように思えた。
アスファルトを踏むたび、靴の底が擦れる音が妙に耳につく。
信号の音、車のエンジン、遠くの子どもたちの笑い声
──どれも現実感を欠いていた。
まるで、自分だけが別の時間の中を歩いているようだった。
彼の頭の中には、途切れ途切れの映像が浮かぶ。
誰かが泣いていた。
誰かが叫んでいた。
それが腐った大人なのか、穢れた子どもなのか、
あるいは自分自身なのか、もうわからなかった。
息を吸うたびに、胸の奥が焼けるように痛む。
それでも歩く。
止まってしまえば、何かに呑まれる気がした。
途中の路地で、灰色の猫が電柱の影に座っていた。
蓮司が通り過ぎても、猫は微動だにしない。
じっとこちらを見つめるその瞳が、
どこか人のもののように思えて、思わず視線を逸らした。
ふと、過去の感触が蘇る。
熱い金属。焦げた煙草の匂い。
皮膚の奥に焼きつく痛み。
――思い出すな。
心の中でそう呟いても、記憶は勝手に顔を出す。
逃げようとしても、身体がそれを許さない。
あの頃からずっと、痛みだけが現実の輪郭を保っていた。
誰も信じられず、誰も頼れず、それでも生きてきた。
だからこそ、「誰かを探す」という行為が、今の自分には不思議なほど新鮮だった。
紗良と由佳。
まだ見ぬ二人の名前が、彼の中で小さな灯のように揺れている。
その灯が消えない限り、歩く理由は失われない。
いつもの錆びた雑居ビルが見えてきた。
ビルの影が地面を濃く染め、風がひと筋、頬を撫でていく。
誰もいない街角で、蓮司は一瞬、立ち止まった。
――本当に、ここに来る意味があるのか?
そんな問いが胸の内をかすめる。
だが次の瞬間には、足が勝手に動いていた。
ここに来ること自体が、彼である証明のようなものだった。
何かを思い、何かを探し、何もいない空間に拳を置く。
それでしか、燃え尽きた己を保てなかった。
扉の前に立つと、鉄の匂いが微かにした。
昼間の空気の中に混じる、錆びの匂い。
それを吸い込むたび、胸の奥に古い痛みが蘇る。
手を伸ばす。
冷たい取っ手を押すと、金属が鈍く軋んだ。
音が腹の底に響き、蓮司はほんの一瞬、息を止めた。
――この先に、何もない。
そんな確信にも似た感覚が、胸の奥をかすめる。
目の前の闇が、彼を飲み込もうとしていた。
けれど、その闇の向こうにしか、自分は生きることができないような気がした。
蓮司はゆっくりと足を踏み入れた。
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