第12話「灰の光芒」③
ランニングを終えて戻ると、部屋の空気がやけに重たく感じた。
汗を吸ったTシャツを脱ぎ、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
アパートの一室は、いつも通り静まり返っている。
白い壁、畳ではなく薄いフローリング。家具は最低限、机と本棚、布団だけ。
生活の匂いがほとんどない。清潔ではあるが、誰かが「生きている」気配がしない。
蓮司は、床に敷かれたヨガマットの上にタオルを広げる。
その動作も習慣のように、感情を通さずに進む。
もう、何のために鍛えているのかも分からない。
けれど、やめたら何かが壊れてしまう気がして
――ただ、今日も始める。
腹の奥に力を込め、仰向けになる。
まずはクランチ。
膝を立て、肩を浮かせ、腹筋の中央を絞るように上体を起こす。
一回。
ふくらはぎに血が流れ、腹の中央がわずかに焼ける。
二回、三回。
テンポを保つ。百回を一セット。呼吸は止めない。
「鍛える」というより、「何も考えずに動くための時間」。
そんな言葉が頭をよぎる。
二セット目に入るころには、腹部が熱を持ちはじめる。
それでも、まだ「痛い」とは思えない。
痛みというより、遠くの鈍い鐘の音を聞いているような感覚。
体が限界を訴えても、それを「自分ごと」として感じられない。
次はニーアップ。
上体を少し倒したまま、膝を交互に胸へ引き上げる。
リズムを刻むたびに、太ももの前側が張る。
筋肉が火照っていくのを、どこか他人事のように眺める。
窓の外では、曇天の光がカーテン越しに淡く揺れている。
世界は、まるで色を失ったまま静止していた。
ダイアグナルクランチ。
右肘と左膝を近づける、ねじりの動作。
左、右、左――。
呼吸が浅くなっていくが、苦しさはどこか遠い。
筋肉の軋みだけが、唯一、現実に繋がる“痛み”だった。
バイシクルクランチ。
両足を浮かせ、自転車を漕ぐように交互に膝を引く。
肩を浮かせたまま、腹の奥に力を集める。
汗が首筋を伝い、マットに落ちる音がやけに大きい。
ぽた、ぽた、と乾いた床に音が響くたび、静寂の中の時間が延びていく。
レッグシザーズ。
両足を交差させながら上下に動かす。
腹の下部が焼けつくように痛みはじめる。
だが、その痛みが心を満たすことはない。
――どれだけ動いても、何も埋まらない。
バーティカルレッグクランチ。
天井に向けて脚を伸ばし、腹筋で上体を押し上げる。
視界の端に白い天井が揺らぎ、息が乱れる。
指先が微かに震える。
体の震えなのか、心の震えなのか分からない。
サイドクランチ。
片側の腹筋を締める動作。
右側、左側。交互に体を折り畳みながら、呼吸が熱を帯びていく。
皮膚の下で血流が速くなるのがわかる。
それでも心拍は、何かを求めては跳ねず、ただ機械のように刻まれるだけ。
フロアワイパーズ。
両足を上げたまま、左右にゆっくりと倒す。
腰が軋み、腹の奥の筋がきしむ。
床に落ちる汗の匂いが、鉄のように生臭い。
けれど、その匂いさえ今は救いだった。
「生きている」実感が、そこにしかない。
ロシアンツイスト。
両膝を立て、上体を少し後ろに倒して左右にひねる。
両手を胸の前で合わせ、リズムよくねじる。
脇腹が軋むたび、過去の映像が一瞬だけよぎる。
――拳を振り抜いた夜。
――血の匂い。
――倒れた職員の影。
すぐに頭を振る。今は考えるな。
呼吸を乱さず、ただ反復に身を委ねる。
二周目に入る。
クランチ、ニーアップ、ダイアグナルクランチ……。
順番も、数も、全部決まっている。
「決まりきった動き」だけが、世界を構成している。
それが壊れたら、自分が崩れる気がする。
最後のフロアワイパーズを終えるころには、
体の感覚がほとんど曖昧になっていた。
腕も脚も自分のものではないように重い。
息を吐くたび、喉が熱く、肺の奥がざらつく。
それでも「終わり」ではない。
縄跳びが残っている。
立ち上がり、縄を手に取る。
皮のグリップが汗で滑る。
無意識に指先で握り直し、床の中央に立つ。
軽く跳ね、ロープを回す。
――パシュッ、パシュッ、パシュッ。
空気を裂く音が、一定のリズムを刻む。
ボクサー跳び。左右の足に重心を交互に移しながら、縄を足元で回す。
ロープが床に触れるたび、小さな音が乾いた部屋に響く。
何もない空間に、ただその音だけが生きている。
五分、十分、十五分――。
汗が目に入り、視界が霞む。
それでもロープを止めない。
跳び続けている間だけは、何も考えずにいられる。
思考が沈黙していく。
痛みとリズムが、すべての感情を覆っていく。
二十分経過。
呼吸が荒れ、喉の奥が焼けつく。
腕の感覚が鈍くなり、ロープの回転が遅れる。
最後の一跳びを終えた瞬間、蓮司は縄を手放した。
ロープが床に落ちる乾いた音。
そのあとに訪れる、圧倒的な静寂。
胸が上下し、肺が熱を持っているのに、心はどこか凪いでいる。
痛みも、達成感も、何もない。
ただ空虚だけが残っていた。
――何をしてるんだ、俺は。
心のどこかでそう呟く。
だけど、それに答える声はない。
壁にもたれ、汗に濡れた腕を膝の上に乗せる。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
灰色の空。
その下で、街がゆっくりと目を覚まそうとしている。
人の足音も、話し声も聞こえない。
静けさの中に、自分の呼吸音だけが響いていた。
ふと、紗良と由佳の名前が頭をよぎった。
顔は知らない。
けれど、探してほしいと頼んだ
紗良の母――藤堂紗月の声が、耳の奥に残っている。
あの人の頼みは、応えたいと思っている。
理由はわからない。
ただ、あの声が自分を“現実”に繋ぎ止めている気がした。
紗良を見つける。
それが、自分の存在を確かめる唯一の方法のようにも思えた。
けれど、まだ何も見つかっていない。
喫茶にも顔を出せず、
報告できることなど何ひとつない。
――見つけるまでは、行けない。
それが彼なりのけじめだった。
タオルで汗を拭い、深く息を吸う。
冷たい空気が肺に流れ込み、胸の奥で熱と混じり合う。
心臓の鼓動がまだ速い。
それを確かめるように、掌を胸に当てる。
汗と鼓動。
それが、今の彼にとっての「生きている」証だった。
外では、曇天の隙間から光が一筋だけ差している。
けれど、その光は届かない。
蓮司は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
世界の音が遠のく。
残るのは、規則的な鼓動と、体の中に残る熱だけ。
そして彼は、再び目を開けた。
視界の中で、白い天井がぼやけて揺れている。
まだ朝だ。
今日もまた、動き続けるしかない。
止まれば、過去が追いついてくる。
その恐怖だけが、彼を立ち上がらせる。
蓮司はゆっくりと息を整え、濡れたTシャツを洗濯機に放り込んだ。
乾いた床に足跡が残る。
それを見て、ふと小さく笑った。
その笑みは、哀しみとも安堵ともつかない。
ただ、生きていることの証明のように、静かだった。
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