第11話「灰の光芒」②
曇り空。夜明け前の街はまだ眠っている。
古川町商店街のシャッターはどれも降りたままで、
人の声もしない。
あるのは、自販機のLEDの光と、遠くで鳴く烏の声だけ。
蓮司は静かに息を吐き、ランニングシューズの紐を締め直した。
音楽は聴かない。
街の音をそのまま聞く方が落ち着く。
呼吸、足音、風。
それだけが、自分がまだ“この世界にいる”という証だから。
走り始めてすぐ、汗が頬を伝った。
空気の重さが肺を押しつぶす。
それでも構わず腕を振る。
無理にでも体を動かさなければ、
頭の奥で、あの夜の残響がまた軋み始める。
走る――それだけでいい。
考えるな。思い出すな。
ただ、前へ。
古川町のアーケードを抜けると、
朝靄の中に植物園の木々が揺れていた。
湿った葉の匂いと、土の香りが混ざる。
季節の匂いを感じても、心は何も動かない。
ただ「紗良」と「由佳」の名が、
頭のどこかで反響しているだけだった。
昨夜、蘭華に侠佑に聞こえないようにこっそり言われた言葉が蘇る。
『探しなさい。あの二人がどこにいるか、あなたが掴むしかないの』
だから今も走る。
体を動かしていないと、考えが濁って、現実の輪郭が失われる。
“何かを探すために”生きているのか、
“生きているふりをするために探している”のか、
もう分からない。
足音がリズムを刻む。
そのたびに、脳の奥で小さな衝撃が弾ける。
それは、あの夜――精霊護院で響いた破裂音に似ていた。
砕ける骨、倒れる音、血の匂い。
どれも消えない。
忘れたいのに、筋肉が覚えている。
あのときの拳の感触が、
皮膚の裏でまだ生きている気がした。
――なぜ、俺はあのとき死ねなかった。
問いが浮かび、喉の奥で消える。
考えると崩れそうになる。
その代わりに、息を強く吐いて押し殺した。
梅小路公園の道へ差しかかる。
木々の間を抜ける風が、頬をかすめた。
ほんの少しだけ涼しい。
けれどその風さえ、どこか遠い。
人の気配のない公園は、灰色の世界のようだった。
息を吸っても、肺の奥まで曇りが入り込む。
信号が赤に変わる。
立ち止まると、指先が震えていることに気づく。
寒さではない。
――まだ、この手の中に“あの夜”が残っている。
その感覚が、胸を締めつけた。
青に変わるのを待たず、再び走り出す。
十五キロを超えた頃、呼吸は荒れ、視界の端がぼやけ始める。
喉が焼ける。
足が鉛のように重くなる。
それでも走る。
止まれば、過去が追いついてくる。
あの血の匂いが、すぐ背後まで迫ってくる気がする。
蝉の声が遠くで鳴いていた。
季節の音。
それがやけに空虚に響く。
まるで自分だけ、音の届かない場所にいるようだった。
「……っ」
蓮司は小さく息を漏らした。
胸が痛い。
だが、それでいい。
痛みがあるうちは、生きている。
それ以外に、自分を確かめる方法はない。
折り返し地点を過ぎる頃、
川の流れが見えた。
灰色の水面がわずかに光を反射している。
“流れ続けるもの”――
その対比として、自分はずっと止まったままだ。
家族などという存在はいない。
幼い頃の風景も、誰かに呼ばれた声も。
気づけば、自分は“ひとり”でここにいた。
誰に呼ばれることも、帰る場所もなかった。
そんな過去の輪郭が、曇り空のように胸を覆っている。
膝に手をついて呼吸を整えた。
地面に落ちる汗の音が、妙に鮮明に響いた。
――泣いてるのは、誰だ。
そんな錯覚が、ふと脳裏をかすめる。
耳を塞ぎたくなる衝動を押し殺し、
再び走り出した。
重い脚を引きずるようにして進むたび、
胸の奥で何かが崩れていく。
けれどそれは、絶望ではなかった。
“何も感じない”という静けさ――
それが、今の蓮司にとっての安堵だった。
やがて古川町商店街の入り口が見えた。
どこかの店のシャッターが上がる音がする。
人の生活音。
湯を沸かす音、包丁の音。
世界は確かに動いている。
だが、その中に自分の居場所はない。
まるで、自分だけが世界の外側に取り残されているようだった。
時計を見ると、七時を少し回っていた。
二十六・四キロ。
呼吸は浅く、シャツは汗で肌に貼りついている。
肺が焼けるように痛い。
それでも、ほんのわずかに吸った息の中に、
確かな鼓動を感じた。
アパートに戻り、階段を上ってドアを開ける。
冷えた空気が頬を撫でた。
床に腰を下ろすと、世界の音がゆっくり戻ってくる。
遠くで蝉が鳴いている。
どこかの部屋でテレビの音が漏れている。
それらが全部、自分とは別の世界の出来事に思えた。
手のひらを見つめる。
拳の跡が、まだ残っているような気がする。
この手で何かを壊した。
その感覚が消えない限り、赦されることもないだろう。
けれど、今日も走った。
息をして、心臓が動いた。
ただそれだけで、十分だった。
タオルで汗を拭い、蓮司は静かに天井を仰ぐ。
外の曇り空はまだ晴れない。
けれど、止まっていた時間が
ほんの少しだけ動いた気がした。
胸の上に手を置く。
鼓動が確かに響いていた。
それは、生きるための証でも、贖罪の証でもない。
ただ――“まだ終わっていない”という証。
――俺は、まだ、生きている。
明日も投稿します!!
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