第35話「赦しの残火」④
夜風が生ぬるい。
七月の京都、五条大橋を渡るときの風には、
湿った熱気と川の匂いが混ざっていた。
蓮司は背中に奏をおぶいながら、ゆっくりと歩を進めていた。
背に感じる体温が、妙に軽い。
それは重さではなく、力の抜けた安堵の重さ。
その感覚に、蓮司はどこか戸惑っていた。
さっきまでの喧噪が嘘みたいだった。
店を閉め、キャストたちを送り出し、
騒動の後片づけを終えた頃には、街は静まり返っていた。
蝉の声も、深夜には止む。
鴨川沿いの夜は、ただ水の音と風の流れだけが残る。
街灯が水面に長く伸び、時折通るタクシーのライトがそれを横切った。
奏は最初、「歩けるから大丈夫」と笑っていた。
けれど足元がふらつき、二度目に膝をついたとき、
蓮司は何も言わずに彼女を背負った。
それからは抵抗せず、
少し頬を蓮司の首筋に押し当てて、やがて眠り始めた。
吐息がかすかに耳にかかり、酒の甘い匂いが混ざる。
胸の奥にざらりとした痛みが広がる。
「……蒸すな」
誰に言うでもなく呟く。
背中からの返事はなく、小さな寝息だけが続いていた。
夜気は湿っているのに、不思議と静かで穏やかだった。
この街の夜は、どこか優しい。
――少なくとも、今はそう思えた。
だが、次の瞬間だった。
風がふと強く吹き抜け、髪が揺れた刹那。
鼻先に、焦げた木の匂いがかすめた気がした。
あれは、いつかの夜の匂いだった。
脳裏に、火の粉の舞う光景が一瞬で広がる。
赤く焼けた鉄の梁。倒れたベッド。燃え落ちる天井。
泣き叫ぶ声と、肉の焼ける音。
その中を、九歳の自分が歩いていた。
足元には散乱した職員の影、崩れた壁。
ガソリンの臭いが鼻を焼き、手の皮膚には火の熱が食い込んでいた。
「痛い」とも「怖い」とも思わなかった。
ただ、何もかもが“静かになる”のを待っていた。
――大阪、聖霊護院。
思い出したくなくても、記憶は勝手に呼び戻される。
あの時、炎の中で誰かが叫んでいた。
「れんじ、やめて!」
誰の声だったか、もう覚えていない。
けれど、その声だけが唯一、自分を止めようとしていた。
振り返ったとき、頬に灰が舞い、視界は赤に染まっていた。
そして、全部が終わった。
十五の影が倒れ、四十の小さな声が消えた。
それだけだった。
今、鴨川の風が再び吹き抜けた。
そのぬるい風で、蓮司は現実に引き戻される。
五条大橋の明かりが、遠くにゆらめいていた。
背中の奏が、小さく身じろぎした。
「……レン……」
「起きたか?」
「……ん……ごめんね……重いでしょ……?」
「大丈夫だ。昔から、軽いからな」
「……なにそれ……ふふ……」
かすかな笑い声が、夜の中に溶けていく。
蓮司は小さく笑い、「もう少しで着く」と呟いた。
それ以上、言葉はいらなかった。
背中越しに伝わる鼓動が、どこか懐かしく思えた。
やがて、奏のマンションが見えてくる。
ガラス張りのエントランスが、
街灯を反射して柔らかく光っていた。
オートロックを抜け、
エレベーターの中に入ると、蓮司はようやく背中の重みを感じた。
「……まったく、人を使い倒すにも程がある」
そう呟く声に、眠っているはずの奏がかすかに笑った。
「……レン、優しいね……」
その言葉に、返事はしなかった。
ただ目を閉じたまま、静かに息を吐いた。
扉が開く。
淡い光が差し込む。
部屋に入り、奏をベッドに降ろす。
ブランケットをかけ、髪をそっと撫でた。
その指先が、わずかに震える。
――誰かを傷つけた手で、いま誰かを守っている。
その矛盾が、どうしようもなく痛かった。
「おやすみ、奏姐」
その一言を残して、蓮司は静かに立ち上がった。
夜の窓辺に寄り、外を見る。
鴨川の水面に、街の灯が揺れている。
その光は、もう炎ではなかった。
冷たく、やさしく、どこまでも静かな光だった。
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