第31話「灯の堕ちる夜」⑥
最初に動いたのは、チンピラのひとりだった。
「なめんなッ!」という怒声と共に、拳が振り上げられる。
狙いは蓮司の顔。
だが、その軌道が届く前に、世界がわずかに傾いた。
蓮司の体が半歩だけ沈む。
左足が床を滑るように後ろへ退き、右肩を軽く回す。
拳は空を切り、次の瞬間、男の腕が宙を舞った。
「――ッ!」
音もなく、男の身体がひっくり返る。
蓮司は手首を掴んだまま、腰を軸にひねりを加える。
柔道の“背負い投げ”に似ているが、もっと低く、静かで、鋭い。
コンクリートの床に、鈍い衝突音が響いた。
客の誰かが息を呑み、グラスを落とす。
その音が遠くに聞こえるほど、店の空気は張り詰めていた。
二人目の男が怒声を上げる。
「てめぇッ!」
右手に掴んだ灰皿を振りかぶり、蓮司の側頭部を狙う。
蓮司は目で追わない。
ただ首をわずかに傾け、灰皿の軌道を読む。
風を切る音。
その瞬間、蓮司の左手が男の肘を払う。
右手が肩を押さえ、重心を崩す。
足が床を離れた瞬間、蓮司の膝が腰を突き上げた。
男の身体が浮き、宙で一回転する。
“合気落とし”に似た軌道。
床に叩きつけられた衝撃音が、空気を裂く。
「ぐ……あっ!」
息が詰まる音。
転がる男の手から灰皿がこぼれ、カラン、と乾いた音を立てた。
蓮司の動きには、怒気がなかった。
ただ、無駄が一つもない。
それはまるで、長年磨かれた職人の所作のようだった。
三人目の男が一瞬たじろぐ。
だが、引くという選択肢を知らない。
「この野郎ッ!」と叫び、ボトルの破片を掴んで突き出した。
刃のように尖ったガラスが、蛍光灯の光を反射する。
その手を見た瞬間、蓮司の体の奥にある何かが動いた。
脳ではなく、筋肉が先に判断する。
右足を前へ。
相手の踏み込みを見切り、その流れを利用して身を翻す。
男の腕がすれ違う瞬間、蓮司の手が手首を掴む。
同時に体重を左に落とし、肘を極めた。
「ぎッ……!」
関節が鳴る。
男の手から破片が落ち、床で砕ける。
蓮司は腕を離さず、喉元に左手を滑り込ませた。
合気道の“正面入り身投げ”のように、力ではなく流れで制する。
喉を押さえられた男の顔が苦悶に歪む。
呼吸を奪われ、声にならない音を漏らす。
蓮司はわずかに力を緩め、男を床に沈めた。
「動くな」
静かな声。
その一言が、刃物より鋭かった。
三人の男たちは、床に倒れたまま動けない。
立ち上がろうとしても、身体が拒絶する。
恐怖が筋肉を固め、指一本さえ動かせなかった。
蓮司の呼吸は乱れていない。
汗もかかず、目も逸らさない。
ただ“仕事”のように淡々と。
その静けさこそが、最も恐ろしかった。
沈黙が、Avalonの空気を満たした。
割れたボトルの破片が床で光り、氷の粒が転がっていく。
蛍光灯の明滅が、倒れた男たちの顔を白く照らした。
誰も声を出さなかった。
客たちは息をひそめ、キャストたちは固まったまま動けない。
ただ、雨の音だけが、遠くの地上から微かに響いていた。
蓮司は立っていた。
肩で呼吸をすることもなく、まっすぐに前を見据えて。
顔には汗一つ浮かんでいない。
まるで、何も起きていないかのような静けさだった。
三人のチンピラは、床に散らばったまま呻き声を上げる。
その声は怒りでも反抗でもなく、ただ“恐怖”の音だった。
彼らはようやく現実を理解したのだ。
目の前の男が、ただの黒装束の客ではないことを。
「……ふざけ、んな……」
ひとりが、震える手でポケットを探る。
札束が床に散らばる。濡れた手で、それをかき集める。
「代金だ……! 金は払う! これでいいだろ!」
声が裏返り、情けなく響く。
蓮司は何も言わなかった。
ただ無言のまま、彼らの動きを見ていた。
目だけが冷たい光を宿している。
感情ではない、判断の光。
もう一人が続けざまに、財布を開き、数枚の紙幣を掴んでテーブルに叩きつけた。
その動きには、理性も威圧もなかった。
生存本能だけが動かしていた。
「慰謝料だよ……な? なぁ……!」
顔は蒼白で、唇は震えていた。
蓮司の返答を待たず、三人は逃げるように出口へ向かう。
足音が重なり、転がるように階段を駆け上がる。
バタン、と扉が閉まる音が響く。
その瞬間、Avalonの中にようやく“音”が戻った。
蓮司は目出し帽を外した。
濡れた生地が頬に張り付き、そこから一筋の水が伝う。
髪が額に落ち、影を作る。
呼吸はまだ静かで、目の奥には微かな光が戻っていなかった。
その時、カウンターの奥から足音が近づく。
ヒールの細い音。
蘭華だった。
彼女の黒いバニースーツが、蛍光灯の光を受けて鈍く光る。
裂けた頬の端に、小さな赤い線。
それでも姿勢は崩さず、まっすぐに蓮司を見つめていた。
「……ありがと」
かすれた声。
けれど、そこに怯えはなかった。
蓮司は答えなかった。
ただ、視線を下げて、割れたボトルの破片を見つめた。
指先に少し震えがあった。
怒りではない。
ただ、何かを“感じようとする”身体の反応だった。
蘭華が近づき、蓮司の前で足を止めた。
香水ではなく、酒と煙草と血の混ざった匂いが微かに漂う。
蓮司の頬に残った雨のしずくが、照明の光を反射していた。
蘭華は、そっと蓮司の手に触れた。
指先が、まだ戦いの余熱を帯びている。
「……痛くない?」
それだけ言って、微かに笑った。
けれど、その笑みの奥に、どうしようもない悲しみが滲んでいた。
蓮司は少しだけ顔を上げた。
その瞳の奥に、ようやく“人”の色が戻り始めていた。
怒りも、悲しみもない。
ただ、深い虚無感と静寂だけが残っている。
「……怪我、ないか」
蓮司の声は低く、擦れたように掠れていた。
蘭華は微かに笑って、頬を指でなぞった。
赤い線を見せつけるように。
「大丈夫よ。これくらい……店を守ってくれたお礼に、痛み分けってとこ」
彼女の笑みは、強がりでも演技でもなかった。
ただ、この空気をやわらげようとする“優しさ”のかたちだった。
店内の片隅では、キャストのひとりが震える手で破片を片づけ始めた。
他の子も、そっと立ち上がり、客の様子をうかがう。
崩れていた空気が、少しずつ戻っていく。
蓮司は何も言わず、ただ静かにその光景を見ていた。
壊れたグラス、散らばる紙幣、血のにおい。
そのすべてが、やけに遠く感じた。
――ああ、まただ。
何かを守ったはずなのに、胸の奥は何も満たされない。
蓮司はゆっくりと息を吐き、手のひらを見た。
その指先に、かすかに震えが残っていた。
それを蘭華は黙って見つめ、何も言わずに視線を伏せた。
外では、まだ雨が降っていた。
重く、深く、終わる気配のない雨。
その音が、Avalonの中の静寂に溶けていった。
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