第30話「灯の堕ちる夜」⑤
チンピラたちは、もはや蓮司の言葉など耳に入っていなかった。
説得も忠告も、彼らにとっては“弱者の声”にしか聞こえない。
言葉が通じる余地など、最初からなかったのかもしれない。
男の一人が、テーブルの上に手を伸ばした。
その指先が掴んだのは、ブラックニッカのフルボトル。
琥珀色の液体が、ネオンの光を反射してゆらりと揺れる。
蘭華の目が大きく見開かれる。
誰もが息を飲み、時間が一瞬止まった。
そして――。
「ふざけんなやッ!」
怒声とともに、男は全身の力でボトルを壁に叩きつけた。
鈍い衝撃音と共に、ガラスが砕け散る。
飛び散った破片が空中を舞い、氷と酒の混ざった液体が光を帯びて飛沫になる。
ひとつの破片が、蘭華の頬をかすめた。
刹那、赤い線が肌の上に浮かび上がる。
彼女はわずかに眉を寄せ、声を出さずに耐えた。
その沈黙が、逆に店内の空気を凍りつかせた。
誰も動けなかった。
キャストたちは息を潜め、客たちは顔を伏せた。
ただ、蛍光灯の唸りだけが静かに響いている。
蓮司は、その場に立っていた。
無言で、動かず。
まるで世界が止まったように、ただ蘭華を見ていた。
頬を伝う一滴の血。
それが白い肌を滑り落ち、顎先から滴り落ちる。
その瞬間――何かが、音もなく彼の中で切れた。
呼吸が消える。
心臓の鼓動が遠のく。
頭の中に、風のような静寂が広がった。
怒りという言葉は、もう存在しなかった。
炎のような激情ではなく、氷のように透き通った“無”。
その無の奥底で、ただひとつの衝動だけが形を成した。
守る――という言葉さえ、意識していなかった。
ただ、「壊さないため」に動こうとする身体の記憶。
それだけが、残っていた。
蓮司は一歩、前に出た。
濡れたスニーカーが床を踏む音が、店内に響く。
黒のパーカーがわずかに揺れ、目出し帽の奥で、瞳が鈍く光る。
「お、おい……なんだよ、それ」
チンピラの一人が声を震わせた。
笑い飛ばそうとしたが、喉が動かない。
蓮司の無表情が、彼らの中に“恐怖”を直接流し込んでいく。
ゆっくりと、もう一歩。
蓮司は歩を進めるたび、空気が沈んでいった。
呼吸の音すら聞こえない。
雨の音も、音楽も、すべてが遠ざかる。
「おい、止まれって……お前、何者だよ」
誰も答えない。
蓮司自身も、答えを持たない。
殴られ屋であることを隠す必要も、今はもう考えていない。
ただ、「動く」ことだけが全てだった。
テーブルを蹴ったチンピラの一人が、威嚇するように立ち上がる。
「調子に乗んなよコラ! てめぇ、死にてぇのか!」
叫び声が響くが、蓮司は反応しない。
足音は一定のリズムで、まるで機械のように正確だった。
一歩、また一歩。
チンピラたちとの距離が、縮まっていく。
蘭華が息を呑む。
その表情には恐怖と、もう一つの感情――悲しみがあった。
彼女は知っていた。
蓮司が「一度切れたら」戻らないことを。
蓮司の足が止まる。
距離にして、わずか二メートル。
無言のまま、視線だけで相手を射抜く。
「な、なんだよ……」
男が思わず後ずさる。
隣の二人も顔を引きつらせた。
今までの勢いはもうない。
目の前の男が何者なのか分からない。
ただ“怖い”――それだけが、全身にまとわりつく。
蓮司の右手が、静かにポケットから抜かれた。
拳を握るでも、構えるでもなく、ただ自然に垂れる。
だが、その自然さが逆に異様だった。
空気が張り詰め、重力さえ増したように感じる。
蓮司の声が、その沈黙を割る。
「――謝れ」
静かな、だが決して逃れられない命令だった。
その一言に、チンピラたちは言葉を失う。
笑うことも、怒鳴ることもできない。
だが次の瞬間、ひとりが虚勢を張ったように声を上げた。
「ふざけんな! てめぇ、誰に口きいてんだ!」
蓮司は何も言わない。
ただ、その言葉を聞き流すように目を細めた。
音が、消えた。
世界が沈み、空気の粒ひとつひとつが静止する。
蓮司がゆっくりと歩き出した。
もはや誰も止められない。
そこにあるのは怒りではない。
怒りすら超えた“無慈悲な静寂”。
蘭華が小さく名前を呼ぶ。
「――レン
その声に、彼は反応しなかった。
ただ、真っすぐにチンピラたちの方へと進む。
照明の明滅が、黒い影を床に揺らす。
そしてその影が、彼らの足元に重なる。
次の瞬間、誰もが息を止めた。
それは暴力の始まりではなく、
「暴力が避けられなくなった瞬間」だった。
2話目投稿しました!!
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