第26話「灯の堕ちる夜」①
雨は、途切れることを知らなかった。
細く、冷たく、
絶え間なく落ちるそれは、夜の京都の路地を灰色に沈めていた。
街灯の光を受けて、
雨粒はまるで無数の銀の糸のように空間を縫い、
風に流されては傾いて消えていく。
その中を、蓮司は傘もささず、
ただ歩くでもなく、走るでもなく、奇妙に均一な速さで進んでいた。
パーカーのフードはとうに意味を失い、
髪は額に張り付き、滴る水が顎を伝って落ちていく。
足元では水たまりが小さな波紋を返し、
靴の中はもうとっくにぐしょぐしょだった。
それでも彼は速度を変えない。
息も乱さず、顔の筋肉一つ動かさず、
まるで身体だけが勝手に動いているようだった。
街は静かだった。
ただ、車のタイヤが水を切る音、
どこかの軒下から落ちる雨だれの音、
遠くの交差点で変わる信号機の電子音。
それらが、雨に押しつぶされるように混じり合い、
曖昧な低音の世界を作っていた。
蓮司の耳にはそれが、波の底に沈んだ街の呼吸のように聞こえた。
目的地は決まっていた。
ConceptCafe&BAR〈Avalon〉。
殴られ屋の現場から、ほんの数十メートル。
通い慣れた路地の奥、古びたビルの地下にある小さな店。
――だが、なぜそこへ行くのか、自分でもわかってはいなかった。
冷たい水が頬を叩くたび、
過去の記憶がぼんやりと浮かんでは、また雨に流されていく。
最初にその店へ行った夜のことも、
誰とどんな言葉を交わしたのかも、もうほとんど思い出せない。
それでも、体がその場所を覚えている。
足が、自然とその方向へ向かっていく。
胸の奥に、熱はなかった。
怒りも、悲しみも、期待も。
あるのは、空洞のような感覚だけ。
人はときに、空虚の中でしか呼吸できなくなる。
いまの蓮司にとって、
それが「生きている」ということの最低限の定義だった。
信号を渡る。
濡れたアスファルトの上で、赤い灯が雨に滲んだ。
車は一台も通らない。
足音だけが、無人の通りに響く。
その音が妙に乾いて聞こえるのは、たぶん自分の耳が麻痺しているせいだ。
昔、鍛えていた頃のことを思い出す。
筋肉が悲鳴を上げても、倒れなければならなかったあの日々。
強くなる理由が確かにあった。
生き延びるため。
奪われないため。
その理由が今では、何一つ残っていない。
ただ、動く。動くことだけが、壊れずに済む唯一の方法だった。
風が吹いた。
雨粒の角度が変わり、頬を打つ冷たさが増す。
蓮司は一瞬だけ目を細めたが、すぐに視線を前へ戻した。
暗闇の中に、ビルの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
その地下に、Avalonがある。
通り過ぎる看板の光が、水の膜越しに滲んで読めない。
閉店した店、雨宿りをするカップル、傘の下でスマホを覗くサラリーマン。
どれも、蓮司には遠い世界の出来事に見えた。
人の温度というものが、自分の皮膚にはもう届かない。
かつて、自分にも温かさはあったのだろうか――。
ふと、そんな疑問が胸をかすめる。
だが、考える前に、雨の冷たさがその思考を洗い流した。
思考が凍るほどの冷気は、むしろ心地よかった。
痛みも、記憶も、感情も、すべて雨に溶けていく。
Avalonまで、あと少し。
蓮司は無意識のうちにペースを上げた。
呼吸が浅くなり、息が白くなって吐き出される。
走る理由はない。ただ走ることが、今は必要だった。
立ち止まれば、何かを考えてしまう。
考えれば、きっと壊れる。
雨音の向こうで、遠くに誰かの笑い声がした。
だが、それも一瞬で雨に飲み込まれ、残ったのは水の音だけ。
夜の京都は、まるで息を潜めているかのようだった。
蓮司は、濡れた指で前髪をかき上げ、空を見上げる。
真っ黒な空。
そこに光はなかった。
ただ雨だけが、確かに存在していた。
――この雨が止む頃、自分はどこにいるのだろう。
そんなことを考えかけて、やめた。
止むことのない雨の中では、未来も過去も、同じように意味を失う。
視界の先に、Avalonの看板が見えた。
白と黒のネオンが、雨の幕に揺らめき、滲んでいる。
そこだけが、この世界の中で唯一の“灯り”のようだった。
蓮司は、無表情のまま歩みを止めず、その光の方へ向かった。
肩から滴る水が、アスファルトに落ち、消えていく。
その音だけが、
自分がまだ“ここにいる”ことを確かめる唯一の証拠のように思えた。
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