第24話「雨の底で」⑥
午後四時を過ぎたころ、
空は灰色の雲に沈み、光を失っていた。
昼の雨は小降りになったが、街全体はまだ濡れた匂いを放っている。
アスファルトから立ち上る湿気が、肌にまとわりつく。
七ノ舟入の自転車駐車場の脇で、蓮司は軽くストレッチをする。
シャツの布が雨粒で冷たく張り付き、指先には微かな震えが残る。
午前のトレーニングで焼けた筋肉も、外気の冷たさで鈍く沈静していた。
耳の奥で、雨の音が低く鳴る。
地面に落ちる音ではない。
まるで空そのものが、膜の向こうで唸っているような響きだった。
蓮司は息を整え、足を前に出した。
七ノ舟入から梅小路へ向かう。
住宅街を抜ける道は、昼間よりもさらに閑散としていた。
雨に濡れた風鈴が、鈍く音を鳴らす。
屋根から垂れる雫が、途切れ途切れに路面を打つ。
足元の水たまりは鏡のように空を映し、
その上を踏むたび、波紋が広がっては消えた。
「走ること」に理由はなかった。
けれど、走らない理由もなかった。
呼吸が浅くなるたび、胸の奥の重さが
ほんの少しずつ外へ押し出されていく。
心臓の鼓動が、自分が“まだ動いている”ことを知らせる。
それだけで十分だった。
梅小路公園に着くころ、
空は群青に染まりはじめ、雨粒が街灯の光を金色に弾いた。
子どもの声も犬の鳴き声もなく、
ただ風が木々を撫で、葉をざわめかせる。
ベンチの下には、折れた傘が一つ転がっていた。
誰かが置いていったのか、
それとも、風に奪われたのか。
蓮司は一瞥だけして、ペースを上げた。
靴底が水を弾く。
雨と汗が混ざり、どちらがどちらか分からない。
体は軽くも重くもない。
ただ、動くだけだ。
「無心」と言えば聞こえはいい。
だが、それは空っぽと紙一重だった。
走りながら、蓮司は世界とのつながりを一つずつ削っていく。
昨日のことも、明日のことも、
誰かの声も、すべて遠くへ押しやる。
残るのは、呼吸と雨音と、足の衝撃だけ。
それでようやく静かになれる。
五条通を越えるころ、
車のタイヤが水を跳ね上げ、泥混じりの雫が足にかかった。
だが、蓮司は表情を変えなかった。
頬を撫でる風が冷たく刺さる。
痛みがあることで、かろうじて“現実”に触れられた。
植物園の前に差しかかるころ、
雨脚は再び強まり、街灯の光が霞む。
側を流れる川は音を荒げ、白く泡立ちながら膨らんでいた。
蓮司は速度を上げた。
靴の中で水が跳ね、足裏が重く沈む。
肺が焼けるように痛む。
けれど、その痛みさえも心地よい。
――削られていくような感覚。
極限に近づくたび、余分な感情が剥がれ落ちる。
視界は滲み、世界がぼやけても、足は止まらない。
誰かに見せるためではない。
褒められるためでもない。
ただ「走る」という行為に、
自分の存在を委ねている。
梅小路から古川町商店街へ戻るころ、
空は夜に溶けていた。
街灯がアスファルトを金の帯のように照らし、
湿った風が味噌と油の匂いを運ぶ。
蓮司は足を止め、深く息を吸った。
肺に入る空気は冷たく、確かに生きている感触を残した。
しばらくその場に立ち尽くし、雨音に耳を傾ける。
街の喧騒は遠く、
人の気配も消えていた。
やがて歩き出す。
水の溜まった道を踏みしめながら、
頭の片隅に浮かんだのは、朝、湯船の中で見上げた天井の白さ。
あのときと同じように、何も感じない。
だが、それでいい。
雨がまた強くなった。
蓮司は傘をささず、濡れたまま歩く。
頬を伝う水の温度も、もはや分からない。
それでも、わずかな安堵があった。
雨の中では、
泣くことも、笑うことも、
同じように隠せる。
――明日も走る。
その言葉が、心のどこかで微かに響いた。
夜の入り口で、雨音だけが世界を打ち続けていた。
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