第23話「雨の底で」⑤
昼を少し過ぎたころ、雨はまだ止む気配を見せなかった。
京都の空は鈍い灰に染まり、遠くのビルの輪郭さえ溶けている。
アスファルトに落ちた雨粒が、弾けては小さな波紋を広げた。
蓮司は傘を差したまま、西木屋町通をゆっくりと歩く。
通りを行く人影はほとんどなく、車の音も遠い。
濡れた路面が鏡のように空を映し、
傘の下にもうひとりの自分が歩いているようだった。
やがて、いつもの雑居ビルが見えてくる。
鉄製の階段は濡れて滑り、手すりには雨粒が並んでいた。
蓮司はドアノブを回す。
軋んだ音とともに、冷えた空気が流れ出る。
照明の半分が切れたジムの中は、外よりも静かだった。
マットの上に足跡はない。
雨音が屋根を伝い、遠くの金属板を叩いている。
湿った空気の中に、古い革と汗の匂いが混ざっていた。
バッグを置き、蓮司は黙ってリングに上がる。
足の裏でマットを確かめ、深く息を吸った。
「……っ」
肺の奥まで冷たい空気を満たし、吐き出すと同時に身体のスイッチを入れる。
まずはステップワーク。
右、左。前へ、後ろへ。
足の裏でマットをすり、重心を移動させる。
ボクシングの基本――すべての攻撃も防御も、この足の動きから始まる。
無音の中で、靴底が「シュッ、シュッ」と小さく擦れる。
そのリズムが、心臓の鼓動と重なっていく。
前後、左右、回り込み。
単純な動作の反復。だが、これが狂えばすべて崩れる。
蓮司は雨の音を聞きながら、ただ無心に動き続けた。
呼吸の音とステップの音だけが、世界の全てだった。
次にサンドバッグ。
拳を軽く当てる。
ドンッ
古びた革が鈍く響き、湿気を吸った匂いが鼻を突く。
それは、汗と鉄の混ざった匂い――試合会場の控室に似た匂いだった。
右、左。
ドン、ドン、ドン――
拳の衝撃が前腕から肩へ、背中へと伝わる。
痛みではない。
生きていることを、体に確認させる行為。
昨夜、血を吐きながら笑っていた客の顔が、一瞬だけ脳裏を掠める。
「マジで怪物やな」
その声が、薄い膜を隔てた遠くで響く。
次の瞬間には霧のように消えた。
呼吸が荒くなる。
額から汗が落ち、マットに黒い染みを作る。
それが雨粒のように広がっていった。
パンチングボール。
吊るされた小球を、リズムよく叩く。
タタン、タタン、タタン――
戻ってくる球を正確に捉え、腕を前後に動かす。
わずかなズレも許されない。
リズムが狂えば球が暴れ、拳を弾く。
だが、蓮司の動きは淀みがない。
考えるより先に体が反応していた。
脳が消え、筋肉だけが世界を支配する。
やがて汗が目に入り、視界が白く滲む。
それでも止まらない。
リングの中央に戻る。
両手に1kgのダンベル。
重さではない、これは“誓い”の象徴だ。
12ラウンド、3分×12。
誰もいない空間で、自分だけが戦う。
スッ、スッ、スッ
拳が空気を裂く音。
軽いジャブでフォームを確認する。
腕の軌道がわずかに遅れる。
手首を修正し、再び打ち込む。
2R。ステップを加え、右ストレート。
ドンッ
空気が揺れ、肩が軋む。
筋肉が熱を帯び、背中に汗が走る。
3R、4R――
呼吸が速くなり、酸素が足りない。
でも止まらない。
止まった瞬間、何かが壊れる気がした。
7R。
右ジャブ、左ボディ、右アッパー。
スッ、スッ、スッ
その音は風を切る刃のようだった。
拳の中で脈が跳ね、掌が微かに痺れる。
8R。
痛みが消える。
9R。
意識が霞む。
脳の奥が白く燃え、記憶が溶ける。
10R。
拳が重い。
それでも、まだ前へ。
見えない敵を殴り続ける。
11R。
ダンベルが指から滑りそうになっても、握り直した。
12R。
肺が焼ける。
体のすべてが限界を超えている。
それでも、目だけは静かだった。
雨の音が遠くで鼓動のように響く。
「……っ、はぁ……」
拳を突き出すたびに、世界が縮まっていく。
記憶も、痛みも、時間さえも溶ける。
ラウンドを告げる鐘はない。
けれど、体の奥で“終わり”の音が鳴った。
蓮司は膝をつき、ロープに背を預ける。
汗が頬を伝い、床に落ちた。
呼吸は荒く、肺が熱い。
それでも、生きている証のように脈が跳ねている。
拳を開く。
掌の中に、細かい震えが残っていた。
「……まだ、動く」
それだけで十分だった。
ジムの中は静まり返っている。
雨が鉄骨を叩く音だけが続いていた。
時計の針も、空調の唸りも、何もない。
ただ、雨と呼吸のリズムが残っている。
蓮司は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
汗が指の隙間を流れ落ちる。
目を閉じると、たった今までの動作が体の奥で反響していた。
何を殴っているのか。
誰を殴っていたのか。
考えようとすると、思考は霧のように薄れていく。
ただ、静寂だけが残った。
屋根を叩く雨音が強くなる。
まるで外から誰かがドラムを叩いているような、一定のリズム。
そのリズムに呼吸が合わさり、世界が一つの拍動に収束していく。
「……まだいける」
蓮司は小さく呟いた。
足元のマットは汗で黒く濡れ、
リングの中央には、彼が動いた軌跡が淡く残っている。
その真ん中に、静かな熱だけが、まだ立ちのぼっていた。
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