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『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』  作者: たーゆ。
第1部「灰の路」 第1章「焼け残り」

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第22話「雨の底で」④

 外に出ると、雨はまだ細く降り続いていた。

風に乗った雨粒が頬をかすめ、首筋を伝って冷たさを残す。

傘を開く音が、曇った街の静寂を短く切り裂いた。

灰色の空が、京都の街を覆っている。

 木屋町通を歩く人々は少なく、

アスファルトに落ちる雨音だけが規則正しく響いていた。

車の音も遠く、世界全体が一枚の膜に包まれているような感覚。

呼吸の音さえ、自分のものではないように思える。



 蓮司は傘を少し傾け、濡れた路地を進んだ。

水たまりを避けるでもなく、踏みつけて波紋を散らしながら歩く。

シャツの裾が湿り、体温がゆっくりと奪われていくたびに、

 胸の奥で渦巻いていたざらついたものが、少しだけ落ち着いていく気がした。

 ──痛みや冷たさを感じるうちは、まだ壊れていない。

そう思うことで、かろうじて自分を繋ぎ止めている。

傘を叩く雨音が、呼吸と重なり合う。

何も考えずに歩く時間だけが、いまの蓮司にとっての休息だった。



 通りの角を曲がると、木の看板が見えた。

 喫茶とうどう──。

その文字は雨に濡れ、墨のように滲んで柔らかく見えた。

開店時刻にはまだ早い。

それでも蓮司は足を止めずにドアを押した。

 ドア・チャイムの音が、静かな空気の中に軽やかに響く。

途端に、外の湿気が切り替わった。

コーヒーと焼き菓子の香りが胸に広がり、息を吸うたびに温度が戻ってくる。

「おはよう、蓮司くん。濡れてるじゃない。そこにタオル置いてあるわ」

カウンターの奥から、柔らかな声がした。

 紗月。

白いシャツに黒のエプロン。髪は後ろで束ねられ、湯気の中で淡く光っている。

年齢を感じさせない整った所作の中に、どこか母親のような温かさがあった。

「……ありがとう」

蓮司はタオルで髪を拭きながら、静かに答えた。

「こんな日に外に出るなんて、また走ってきたの?」

「うん」

「休む日、作らないのね」

「……走らないと落ち着かない」

紗月は小さく笑い、カップを取り出した。

「じゃあ、いつもの。体が冷えてるでしょ」

 湯気の立つカップが、蓮司の前に置かれる。

深煎りのコーヒー。

香りだけで、少し息が落ち着く。

ただ、カップの中の黒を見つめていた。

表面に自分の顔が映る。

その輪郭が湯気で歪み、形を保てずに揺れている。

「食べ物は?」

「……軽いの、なら」

「今日はトレーニング後用にいいやつ、作ってみる」

 紗月は奥のキッチンに向かい、静かに手を動かし始めた。

まな板を叩く音、オリーブオイルが弾ける音、スープの泡が小さく立つ音。

雨音と混ざり合って、店の空気がゆっくりと整っていく。



 しばらくして、香ばしい匂いが漂った。

「はい、どうぞ」

盆の上には、鶏むね肉のグリル、雑穀米のプレート、温野菜と卵のスープ。

彩りは穏やかで、見た目よりも“落ち着き”を感じさせる一皿だった。

「……いつもありがとう」

「いいの、いいの。私が好きでお世話しているようなものだから。

冷めないうちに早く食べちゃって」

 フォークを入れると、鶏肉は驚くほど柔らかく、ナイフを使わずともほぐれる。

一口食べると、塩とレモンの香りが鼻に抜け、舌の奥でほのかな甘みが残った。

雑穀米には胡麻が混ざっていて、噛むたびに香ばしさが広がる。 

温野菜の人参とブロッコリーには、

ほんのりとしたスープの出汁が染み込んでいた。

「……ちゃんとうまい」

「“ちゃんと”は余計よ」

 紗月はくすっと笑った。

雨が少し強くなり、窓の外の通りが白く煙る。

蓮司は黙って食べ続けた。

一口ごとに、冷えていた内臓がゆっくりと目を覚ましていく感覚。

それは栄養というよりも、少しずつ“人の温度”を取り戻すような食事だった。

「おかわり、いる?」

「……もらう」

「素直でよろしい」

 紗月がまた鍋を火にかける音。

その音を聞きながら、蓮司はふと、自分がここに居る理由を考えていた。

 (この人の前だと、呼吸ができる)

 喋らなくても、詰められもしない。

ただ、当たり前のように飯を出され、何気ない言葉で会話が続く。

それがどれほど救いになっているか、本人もまだ気づいていなかった。

「昨日も殴られ屋の仕事してたでしょう。夜遅くまで」

「……23時くらいに終わった。夜の木屋町のことを考えたら」

「もうちょい休んでもいいんじゃない?」

「どうでもいい」

「ふふ、相変わらずね。ねぇ、どうして、そんなに止まれないの?」

紗月の声が、湯気の向こうから聞こえた。

「止まったら……鈍るから」

「鈍ったっていいじゃない」

「よくない」

「鈍ったら、何か困るの?」

「……分からない。でも、止まったらもう俺は俺に戻れない気がする」

 短い沈黙。

雨がガラスを叩く音だけが、時間を繋ぎとめる。

紗月は蓮司の横顔を見つめた。

その目に映るのは、かつての自分でもあった。

追われるように働き、倒れても笑って、立ち上がってしまう自分。

 “頑丈さ”を鎧にしたかつての自分を、この少年に重ねてしまうのだ。

 ──だから放っておけない。

彼を助けたいというより、彼を見て自分を許したいのかもしれない。

「私ね、昔はよく走ってたのよ」

「……マラソン?」

「違う。逃げてただけ」

「何から」

「誰か、かもね。あるいは自分から」

紗月の声は穏やかで、それでいて遠かった。

「止まる場所を見つけるのって、思ったより難しいのよ」

「……見つけた?」

「半分、かな。店がその場所で、あとの半分は失ったままなの」

 蓮司はフォークを置き、カップの縁を指でなぞった。

その指先に感じる熱が、唯一確かなもののように思えた。

彼はふと、自分の掌を見つめた。

 拳ではなく、掌。

叩き、掴み、支えてきたものの痕が、浅く残っている。

それでも、その痕跡さえも、いつか消えてしまうのだろうと思う。

「傘、ちゃんとさして帰りなさいね。風、強くなるって言ってたから」

「分かった」

「ねえ、蓮司くん」

「なに」

「あなたの家から、ここまで歩いて何分だっけ?」

「十五……二十分くらい」

「その間、何考えてるの?」

「……考えないようにしてる」

「そっか」

 紗月は視線を伏せた。

あの距離の中で、彼がどんなものを抱えているのかを想像する。

きっと、誰にも話せない何かがそこにある。

それでも、無理に聞かないことが、この店のルールだった。

「ねえ、いつでも来ていいからね」

「……営業時間外でも?」

「もちろん。どうせ朝は誰も来ないし」

その言葉に、蓮司はわずかに視線を上げた。

「……ありがとう」

「いいのよ。あなたがここにいると、店が少し落ち着く気がするの」

カップの底に、残ったコーヒーが静かに揺れた。

その揺れを見つめながら、蓮司はゆっくりと息を吐いた。

温かさが喉を通る。けれど心の奥は、まだ冷たい。

「……ごちそうさま」

スプーンを皿に置く音が小さく響く。

紗月は「またおいで」とだけ言い、洗い物に戻った。



 蓮司は傘を手に取り、ドアを開けた。

鈴が軽く鳴る。

湿った空気が肌に戻ってきて、雨の音が一気に耳を包み込む。

「蓮司くん」

 背後から、紗月の声が届いた。

振り返らずに「なに」と答える。

「虹、出るかもしれないね」

カランコロンとドア・チャイムを鳴らしながら、蓮司は小さく頷いた。

 外に出る。

傘を叩く雨が少し強くなった。

街の色も、空の境界も曖昧なまま。

それでも彼の足だけは、確かに前を向いていた。

 河原町駅の出口の前の石畳が、雨で黒く光る。

足元に無数の波紋が生まれ、広がり、消えていく。

街は静かで、雨と呼吸の音だけが世界を満たしていた。

その中を、蓮司はゆっくりと歩き続けた。




今日は早めに投稿させていただきました!


皆様の温かい応援や感想何よりも読んでくださることが

執筆の励みになります!!


何卒この作品をこれからもよろしくお願いいたします!!!

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