第21話「雨の底で」③
シャワーを終えた蓮司は、タオルで髪を乱暴に拭きながら居間へ戻った。
薄いカーテンの向こうでは、雨がまだ静かに降り続いている。
床にはマットが敷かれ、鉄のダンベルと縄跳びが置かれていた。
金属の持ち手には掌の汗が染み、黒いラバーが擦れて鈍く光っている。
テレビも音楽もつけない。
部屋の空気はしんと沈み、聞こえるのは呼吸の音と、遠い雨の粒だけ。
時計の針が「カチリ」と鳴る。
その音を合図に、蓮司は静かに腕を回し、肩の筋をほぐした。
最初はバーピージャンプ。
しゃがみ、両手を床につき、腕立ての姿勢へ。
そこから勢いよく跳び上がる。
全身が一瞬宙に浮き、床に着地したとき、足裏に鈍い衝撃が返る。
十回を超えるころには、呼吸が浅くなり、背中から熱が吹き上がった。
汗が首筋を伝い、胸元に落ちる。
膝と肘の動きが鈍くなるが、動作は止まらない。
「あと何回」ではなく、「倒れるまで」。
それが、身体に刻まれた昔の習慣だった。
息が荒くなるほど、思考は薄れていく。
苦痛だけが純化し、頭の中が真っ白になる。
筋肉の悲鳴が遠ざかると同時に、心は奇妙な静寂に包まれる。
痛みと静けさが溶け合うその境界で、ようやく彼は「生」を感じた。
腕が震え、膝がわずかに折れたところで、動きを止める。
床に手をつき、呼吸を整える。
肺が焼けるように痛い。
濡れた髪が額に張りつき、それを振り払うように頭を振った。
次はバイシクルクランチ。
背中をマットに預け、両手を頭の後ろに添える。
膝を交互に引き寄せながら、腹筋を軸にして体を捻る。
右肘と左膝、左肘と右膝――規則正しいリズムでぶつかるたびに、腹の奥で筋肉が裂けるように痛んだ。
だが彼の顔には、何の感情も浮かばない。
――吸って、吐いて。
――吐いて、吸って。
湿った酸素が肺を出入りし、脳に重たい膜を張る。
額の汗が目尻に落ち、視界が滲む。
それでも、動きを止めない。
腹筋が悲鳴を上げるたびに、内側の「生きている」という感覚が研ぎ澄まされていく。
次はランジ。
片足を大きく前に出し、背筋を伸ばして腰をゆっくり落とす。
太ももが張り裂けそうな圧力に震え、膝の内側がギシギシと軋む。
前脚を押し返すとき、太ももの裏が軋むように伸びる。
右、左、右、左。
反復は、無音の祈りのようだった。
――まだ動く。
――まだ壊れていない。
その確かめだけが、彼を保つ。
汗がマットに落ちる音が、小さな雨音のように響く。
外の雨が強まるが、耳には届かない。
身体の内側の熱と音で、すべてが掻き消されていた。
息を吐ききり、蓮司は最後のトレーニング――縄跳びへ移った。
床に置かれた縄を拾い上げ、両手のグリップを確かめる。
ロープの芯に重りが仕込まれており、振り抜くたびに空気を裂くような風圧が生まれる。
小さく息を吸い、跳んだ。
パチン、パチン――。
ロープが床を叩く音が、一定のリズムを刻む。
軽く膝を弾ませ、かかとを浮かせたままのボクサー跳び。
右足、左足と交互にステップを踏み、テンポを変えながらリズムを維持する。
身体が軽くなり、呼吸が整い始める。
ロープが回るたび、手首の中で空気が切れる。
腕の筋肉が張り、前腕に細かな振動が走る。
視線は正面の一点。
心拍と跳躍が重なり、世界が狭まっていく。
テンポを上げる。
ロープの音が雨音に溶け、部屋全体が呼吸しているように感じた。
ステップから二重跳びに切り替える。
ロープが一瞬、足元を二度はじき、空気が焦げるように鳴る。
着地の衝撃でふくらはぎが痙攣し、肺が焼ける。
それでも、止めない。
跳び続けるうちに、音も痛みも、ただのリズムになる。
床を叩く音と心臓の鼓動が完全に重なった瞬間、
意識が身体の奥に凝縮していく。
――音がある。
――痛みがある。
――それでいい。
それは、孤独の中の唯一の対話だった。
十数分後、腕の感覚が麻痺し、呼吸が喉を裂いた。
唐突にロープを止め、足を開いたまま膝をつく。
床に両手をつき、肩を大きく上下させる。
汗がマットに落ちる音が、やけに鮮明に響いた。
外では、雨がまだ降っている。
時計の秒針が、ひとつ音を立てて進む。
蓮司は立ち上がり、キッチンの棚からシェイカーを取り出した。
水と粉末のプロテインを入れ、手首で数回振る。
白い液体が泡立ち、甘い匂いが立ち上がる。
それを無言で口に流し込む。
喉を通る冷たさが、胃の奥をすべり落ちていく。
サプリを数粒、指でつまみ、噛まずに飲み込んだ。
手が勝手に動く。
いつからこうしているのか、もう思い出せない。
それでも、止める理由もなかった。
マットの上に腰を下ろし、手のひらに残る熱を感じながら、深く息を吐いた。
窓の外では雨脚が弱まり、薄い光が差し込んでくる。
湿気を含んだ朝の光が、汗で濡れた腕に反射して微かに揺れた。
心臓の鼓動が、まだ掌の奥で確かに鳴っている。
そのリズムを数えるように、彼はゆっくりと目を閉じた。
今日も同じ朝。
誰もいない部屋で、誰のためでもなく。
ただ、生きているという感覚を確かめるために。
それが、蓮司の「日常」だった。
すみません、色々あって投稿が遅くなりました!
明日はもっと早く投稿できるようにします!!




