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『灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―』  作者: たーゆ。
第1部「灰の路」 第1章「焼け残り」

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第17話「喧騒の中の静寂」⑩

 夜の空き地は、五人目のラウンドの余韻でまだ熱を帯びていた。

スマホの光がいくつも瞬き、湿った夜風の中に白い閃光が散る。

観客たちは興奮冷めやらぬまま身を寄せ合い、

押し合いながらリングを覗き込んでいた。

「おい、前の奴、ぶつかってんじゃねーか!」

「いや、そっちこそ押してきただろ!」

「動画撮れねぇって!もうちょい下がれよ!」

 低い怒鳴り声と、スマホのシャッター音、笑い声が入り混じる。

足元の砂利がざり、と音を立て、

スニーカーが押しつぶされるように軋んだ。

数人の若者が動画を撮りながら後ろに下がり、

別の観客と肩がぶつかって舌打ちが響く。



「マジで押すなって!」

「ほら、スマホ落とすって!」

「やば、今の撮れてねぇじゃん……」

 蓮司はリングの中から、その小さな混乱に無言で視線を向けた。

表情は変わらない。だが、その眼差しには、

 戦いの余韻を微塵も感じさせぬ、研ぎ澄まされた冷たさがあった。

湿った空気の中で、観客の声だけが浮いている。



 押し合いはじわじわと広がり、列の後方まで波のように伝わっていった。

誰かの手が肩を押し、誰かが不満を吐く。

「おい、やめろって!」

「痛っ、何だよ!」

 小さな苛立ちの連鎖が空き地を震わせ、動画の手ぶれが拡散していく。

その瞬間、蓮司がリングを降りた。

観客の誰もが一瞬、気づかなかった。

ただ、足音ひとつしないまま、彼が群衆のほうへ歩み寄っていた。

「ちょっと、やめろよ!」と誰かが言った。



 けれど蓮司は声に頼らなかった。

両手を軽く握り、拳を構える。

右の拳を一人の顔の目前で止め、左も寸前で止めた。

空気が裂けたような感覚が走る。

ぶつかっていないのに、殴られた錯覚が観客たちの背筋を走った。

「う、うわ……」

「な、なに……」

 観客の一人がスマホを取り落とし、カメラが土に沈む。

ライブ配信をしていた女性も反射的に画面を下げた。

周囲のざわめきがすうっと引き、代わりに湿った呼吸音だけが残る。



 蓮司は何も言わない。

ただ、拳をわずかに下ろしながら、押し合っていた若者たちの顔を一瞥した。

その眼光に、言葉は不要だった。

その瞬間、彼らは自分が今どこにいるのか、何をしていたのかを一気に思い出す。

「……わ、悪い」

「ちょっと押されただけで……」

「もう大丈夫っす」

 誰かが小声で謝り、周囲もつられて頭を下げた。

蓮司は何も返さず、リングへとゆっくり戻る。

空き地に広がる熱気と湿度は、

さっきまでの喧騒を飲み込み、静かな緊張へと変わっていった。



 スマホの光が揺れながら、その冷たい横顔を照らす。

汗を滲ませた群衆が自然と距離を取り、押し合う音が消える。

ただ夜風だけが、リングを中心にゆっくりと流れていた。

 蓮司はテーピングに再び手を戻す。

指先の白い布地が、街灯の光に淡く反射した。

観客たちは息を潜め、その姿を見つめる。

あの一瞬で、場の空気が完全に掌握されたことを、誰もが理解していた。

興奮は静まり、ただ緊張だけが残る。



 リングの中央で無表情に立つ男が、次のラウンドの開始を待つ。

その沈黙こそが、誰よりも雄弁に語っていた。

夜はさらに深まり、空き地には絶えず新しい客が現れた。

学生、サラリーマン、

帰り道のカップル、SNSで噂を聞きつけた好奇心旺盛な若者たち――。

 街灯の下、スマホの光が無数の小さな蛍のように瞬き、

熱を帯びた夜気をさらに膨らませていく。

汗と砂の匂いが混ざった風が流れ、

 人々の声がその風に押し流されてはまた戻ってきた。

拳と短刀がぶつかる音、観客の歓声、シャッター音、実況の叫び。

それらが入り混じり、

夜の空き地はまるで一つの巨大な生命体のように脈打っていた。



 リングのロープが揺れるたび、

観客の息が同時に詰まり、次の瞬間に爆発するような歓声が上がる。

「やばい、今の見た!? あの避け方エグい!」

「反応速度おかしいだろ、スローでも追えん!」

「これ絶対バズるって、ハッシュタグどうする?」

「#夜の決闘? #殴られ屋? #リアル避け神?」

 笑いと興奮が波のように広がる。

スマホのライトが観客の頬を照らし、

レンズ越しに揺れる映像がその熱狂を記録していく。

 SNSの通知音があちこちで鳴り、

誰かが「いいねきた!」と叫ぶたびに周囲が笑い声を上げた。



 一瞬のフラッシュが重なり、リングの中央が昼間のように白く照らされる。

そこに立つ男――蓮司。

しかし、その表情は微動だにしない。

歓声の渦の中で、彼の瞳だけはひどく静かだった。

 汗に濡れた頬も、乱れた呼吸も、何かを押し殺すように整えられ、

手元のテーピングを巻き直す動作だけが淡々と繰り返されていた。

熱狂すればするほど、その無表情は異様なほど際立ち、

彼だけがまるで別の時間の中に立っているようだった。



 23時が近づく。

観客の期待が膨らみ、スマホを構える手が一斉に上がった。

「ラスト一戦!」「もう一回だけ!」という声が重なり、

ざわめきは熱を持って波打ち、リングの周囲を包み込む。

 だが――蓮司は誰の声にも反応しない。

腕時計をちらりと見やり、静かに息を吐くと、

ゆっくりとテーピングを外し、拳を開いた。

指の間に街灯の光がこぼれ、わずかに反射して消える。

 そのまま、無言でリングを降りた。

「……え? 終わり?」

「もう行っちゃうの?」

「ラストラウンドないのかよ!」

 空気が一瞬、固まる。

観客たちは顔を見合わせ、手に持ったスマホを下ろす者もいれば、

逆に必死に蓮司の背を撮ろうと身を乗り出す者もいた。



 しかし彼は振り返らない。

その背中だけが、静寂をまとって闇に溶けていく。

やがて、沈黙を破るように誰かが小さく笑った。

「でもさ、今日の大学生ラウンド、マジで神回だったな」

「サラリーマンのやつ、怒り方リアルすぎて怖かったw」

「今日一番凄かったのは、やっぱオプションDのインフルエンサー戦だろ!

動画映えすぎて鳥肌立った」

「次もやるなら絶対行く。次は誰出るんだろ?」

 笑い声と興奮が戻り、空き地を包んだ熱がまたざわめきに変わる。

SNSのタイムラインには、すでに数百件の投稿が溢れていた。

「#夜の決闘」「#リアル避け神」「#殴られ屋」――。

「これどこの空き地?」

「本当に存在するの?」

「映像やばくない?」

 再生数のカウンターが秒ごとに跳ね上がり、

拡散の波が夜の街を静かに、しかし確実に飲み込んでいく。

誰もがその“現場”にいたことを誇らしげに語り、

画面越しにその熱をさらに燃え上がらせていった。

空き地のざわめきが少しずつ引いていく。


「また来ようぜ」

「あの人、明日も来るのかな」

 名残惜しそうに立ち去る観客たちの靴音が砂利を踏み、

そのたびに細かな埃が舞い上がる。

やがて人の波が途切れた。

残ったのは、湿った夜風と、まだ冷めきらない熱気だけ。

 リングの上にはもう誰もいない。

街灯の明かりがわずかにロープを照らし、

そこには、汗と呼気と、踏みしめられた砂利の匂いだけが残っていた。


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これからもこの作品をよろしくお願いいたします!!!!

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