隣の部屋の音
【隣の部屋の音】ーーーーーーーーーーーーーーーー
夜、アパートの廊下はいつも湿っていた。築四十年の木造二階建て、家賃四万。駅から徒歩十五分、バス停は坂の下。
そんな取り柄のないアパートの一室――202号室に、三上里佳は引っ越してきた。
「まあ……安いし、駅にもそこそこ近いし」
不動産屋がなぜか「202号室は人気でねえ」と言いながらも、やたらあっさりと契約を進めたことに、少しだけ引っかかっていたが、それは“あの音”が聞こえるようになる前の話だった。
最初に気づいたのは、引っ越して三日目の夜だった。
――カタン……カタン……トトト……。
隣の203号室から、薄い壁を通して“何かを並べるような音”が聞こえてくる。
皿かコップか、ビー玉か。それとも骨か。とにかく硬くて小さなものを、机の上に律儀に並べていくような音。
「夜中の二時に何やってんだろ」
不快に思ったが、苦情を言うほどではないと思い、毛布をかぶって眠った。
翌日、大家に聞いてみた。
「あの、隣の方って……どんな人なんですか?」
大家の白髪交じりの眉がぴくりと動く。
「……隣? ああ……203号室? うん、あそこは……まあ、女の人が一人、静かに住んでるよ。ずっと前から」
それから毎晩、音は続いた。
同じ時間、同じテンポで、誰かが何かを並べている。
好奇心が恐怖に変わったのは、日曜の夜だった。
里佳は台所で水を飲もうとして、流しの下に置いた洗剤のボトルが勝手に倒れているのに気づいた。しかも、それは倒れていただけでなく、水滴が付いていた。
「……?」
その瞬間、壁を這うような声が、耳に染み込んできた。
「……いーち、にー……さん、しー……」
か細くて、乾いた女の声。壁の奥から、数を数えている――並べているモノの数を。
恐怖に背中を押され、衝動的に部屋を飛び出した。
廊下に出て、203号室の前に立つ。インターホンに手をかけて、ためらう。
だがそのとき、赤い扉の隙間から“何かの視線”を感じて、ゾッとした。
ガサ……ガリッ……。
虫のように這うような気配が、足元を撫でる。
もう無理だと感じ、赤い扉に触れることもできず、部屋に戻った。
翌朝、管理会社に苦情の電話を入れた。
「隣の人、毎晩夜中にガチャガチャ音を立てて……すみません、注意してもらえませんか?」
しばらく沈黙のあと、電話口の女性がおそるおそる言った。
「あの……念のためですが、203号室の音ですか?」
「はい、そうです」
「……ですが、203号室は空室ですよ。ずっと、もう……三年近く」
「え? でも、大家さんが……」
「管理会社はうちなんです。前に住んでいた女性が、亡くなって……。詳しいことは言えませんが、ちょっと……特殊な、亡くなり方をされて……」
電話が遠ざかっていく。耳の奥で再び、あの声が聞こえた。
「……いーち、にー……さん、しー、ろく……なな……きゅう……」
――なぜ、五と八を飛ばすのか?
一週間後。
里佳の部屋から、異臭が立ちこめた。
近所の住人が通報し、警察と大家が鍵を開けて中に入ると、202号室の床一面に、白く乾いた小骨が整然と並べられていた。
その横に、誰もいないはずの203号室の古い鍵が、ぽつんと置かれていたという。
死因は不明。だが、遺体は“何かに圧縮されるように”折りたたまれ、畳の下に敷き詰められていた。
壁には、赤黒い指で書かれた文字。
「わたしの隣に、だれかが来ると、きっと死ぬ。」
今、203号室には誰もいない。だが、誰も近隣の部屋を借りない。
廊下の端で、時々小さな女の声が響く。
「……いーち、にー、さん、しー……」
五と八を飛ばして。
それは、“誤”と“破”――過ちと、破滅。
それを数える誰かが、今も隣の壁の向こうで、音を立てて誰かを待っている。
#ホラー小説 #短編