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神曲(10)  作者: 名倉マミ
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第十章(全十二章)

女教皇は、この世界の端に座っています。そして、ヴェールの向こう側の世界から、スピリチュアルな知恵や洞察を引き出し、この世界にもたらしています。

:クリス・アン『ライトシアーズタロット』


《一九四二年 ベルリン》


 月が雲間に隠れた。

 「もう四十分だ。出ますよ」

 沈痛の面持ちでオスカーが言う。

 少女の頬に涙が伝ったが、彼は非情に徹してキーを回した。



《二〇一九年 東京》


 「その将校がミクちゃんの前世やったってこと?すごいやん!」

 タロット占い師でインド舞踊家の有田亜紗子は目を丸くして驚く。

 先日、井内らオレンジユニオンの仲間と一緒に、舞台役者の金田守信が主催するライブハウスでのイベントに出席した。金田のコミカルな一人芝居をはじめ、歌、朗読、楽器の演奏など、何人かの演者が代わる代わる出演したのだが、そこでインド舞踊を披露したのが亜紗子だった。

 ヒンドゥー神話の女神のような衣装を身に着け、サンスクリット語の「観音経」や「般若心経」の思想や世界観を独自の振り付けで表現した亜紗子の舞踊はあまりに素晴らしく、涙が止まらなかった。終演後、「本当に素晴らしかった」と伝えると、「泣いてくれる人なんて滅多にいない」と驚かれ、それから個人的にやり取りするようになった。わたしより八歳年上だが、同じ関西出身、母子家庭出身という所でも気が合った。

 不思議なことに、最初、話しかけようと近づいて目を合わせた時、「あなた、ここにいたんだ」というような感慨を持った。もちろん初めて会った人である。別れる時、彼女の方も、「絶対に連絡します」と力を込めて約束してくれた。

 舞踊はほとんど趣味でやっていて、本業は占星術とタロット占いだと聞いて二度びっくりした。「じゃあ、一度観てもらいがてら、遊びに行こうかな」と言ったら快諾してくれたので、今日、高層マンションの最上階にある彼女の一人暮らしの部屋を訪問している。あの堂本あやかのセラピールームのように香が焚かれ、怪しげな書物やパワーストーン、仏像やヒンドゥーの神像などが色々置いてある。

 「でも、話聞いてたらさ、なんか『ミクちゃんぽい』って思うん。失礼な言い方になるかもしれんけど、ミクちゃんがどっかのお姫様やったとか、ヤリマンの、あ、ごめん、ビッチの令嬢やったとか、そんな感じせーへんもん」

 言葉つきはともかく、亜紗子の言いたいことはものすごーくよくわかった。

 「そうでしょ!」

 とわたしは力説した。

 「この先何回生まれ変わっても、美容師とか料理人とか活け花の先生とかにはなる気しないですね。そういう軟らかい方面には縁がなさそうというか。亜紗子さんみたいな舞踊家もかな」

 と言うと、亜紗子は大笑いしていた。

 「いや、でもさ、文章で表現する人やん、ミクちゃんも、その将校さんもさ。将校さんも読んだり書いたりするの好きやった、でかい図体してちょっと女の子みたいな所あったんやろ?そういうのって魂か何かに刷りこまれてて、生まれ変わっても受け継がれるもんなんかな」

 亜紗子が考え深そうに言う。その日、深夜まで話しこんで、結局、初めて行った亜紗子の部屋に泊まることになった。亜紗子は自分でハーブを漬けこんだ実に美味しいお酒を出してくれた。その時は既にだいぶ酔っていて、わたしはこう口走った。

 「今度生まれ変わったら、血も涙もない、神も仏もない、めっちゃイケメンで背高うて金と権力にしか興味ない、金儲けめちゃめちゃ巧い男に生まれ変わる。で、ゲイでタチ専に生まれ変わる」

 また二人して笑い転げた末に、亜紗子がふと真顔に戻って言った。

 「でも、今のミクちゃんやら前世のその将校さんは血も涙もある、神も仏もある人やん?話聞いてたらさ。そういう人が冷酷で傲慢な人間に生まれ変わる、そうかその逆ってあるんやろか?」

 わたしが考えこんでいると、彼女は続けた。

 「美しい者が醜い者に生まれ変わる、そうか逆とか、賢明な者が愚か者に生まれ変わる、そうか逆とか、そういうのはある気する。罰が当たったりカルマが巡ったりしてそうなるんかどうかはわからんけどね。

 でも、基本的な性格とか、ものの考え方、感じ方、生き方というか、『この人はこういう人』みたいなものってどうなんやろうね?わたしはなんか変わらんような気がするんやけど、でも、そうとも言えん気もする。だって、それって一人の人が生まれてから死ぬまでの間ででも変わり得るもんやしね。何人も人殺した人が改心したりもするし、子供の時やさしかった子が薄情な大人になったりもするやんか」

 わたしは酔いの回った頭でイルシェナーのことを思い出し、もう一人、曾て実際に出会ったある人物のことを思い出していた。

 「黒い髪に空色の目のナチスの将校さん・・・・」

 と、だいぶ呂律の回らなくなった亜紗子がわたしに呼びかける。

 「ナチスの将校じゃないですよ。ドイツの将校」

 「うん、反ナチスのナチスドイツの将校さん。わたしも、前世観てもらったことあんねん。その堂本何とかさんって人じゃないけどな」

 「へえ?亜紗子さんの前世、誰やったんですか」

 わたしは興味を惹かれて問うた。

 「ユダヤ人で、男やったみたい。カバリスト。二十世紀前半のヨーロッパ。せやから今もこんな商売やっとるんかな」

 亜紗子は上目遣いに天井を見上げて呟く。



《一九四二年 ベルリン》


 「将校さん」

 とラビ・イサクは呼びかける。

 「はい」

 と彼は丁寧に答え、空色の目を振り向ける。

 「本当なんですね。用意していただいたこの書類を持って、ロストック港から船に乗って、ストックホルムに行って、スティッグマイヤーの店に行けば、向こうでの生活は全て手配してあると」

 「はい。私のドイツ軍人としての名誉に懸けて保証します。我々の連絡網を信頼して下さい」

 私服のローゼンシュテルンは頷いた。

 「助かるのね・・・・子供たちもあなたもわたしも、もうナチに怯えて隠れ住まなくて済むようになるのね」

 アンナが涙を浮かべて夫を顧み、四人で住むには狭すぎる湿気て薄暗いアパートの一室を見回した。「水晶の夜」以来、一家は元いた家を手放し、ベルリン市内の隠れ家を転々とする生活を送っていた。子供たちはもちろん学校にも行けず、毎日のように同胞が逮捕され、時には家族ばらばらに、ゲットーや収容所に送られているという情報が飛びこんできていた。

 十五歳のウジエルと十二歳のインゲは既に眠りに就き、夫婦は、労働者に身を窶して隠れ家を訪れたローゼンシュテルンから、深夜、亡命計画についての説明を受けていた。

 「わかりませんわ。なぜドイツ軍の方がわたしたちのためにそこまでして下さいますの。最初はいよいよわたしたちを捕まえにきたのだと震え上がりましたのに、資金まで援助していただけるなんて」

 アンナの声にはまだ猜疑心の影があった。当然のことだった。今まで何度も、親しい隣人だと思っていた人々に中傷され、石を投げられ、密告されてきたのだから。

 ローゼンシュテルンははっきりと答えた。

 「私はドイツ軍人だが、ナチじゃない。ナチは間違ってる、あなたたちには罪がないと思うからです」

 じっと彼の目を見つめていたイサクは、妻に言った。

 「アンナ、この大尉さんを信じようよ」

 アンナは黙って頷いた。

 「大きな決断をしていただき、ありがとうございます」

 年の頃四十過ぎの将校は初めて、厳粛な顔に笑みを浮かべた。笑うと少年のような顔になる。

 「お嬢さんはおいくつですか」

 一間しかないアパートの同じ部屋で寝息を立てているインゲの方をちらりと見やって、ローゼンシュテルンがやや寛いだ口調で言う。

 「十二歳です」

 イサクとアンナの声が重なった。

 「うちの娘と一緒だ」

 ローゼンシュテルンはまた笑い、左手の甲で鼻を擦り上げる子供のような仕草をした。


 「お父さん、それ持ってくの無理だよ」

 既に荷造りを終えたウジエルが言う。

 「しかし、私の長年の研究が・・・・ほんの一部と、本を三、四冊だけでも持っていけないものか。これでも今までの引っ越しの間にだいぶ手放して、残っているのは本当に大事なものばかりなんだ」

 イサクはまだ、何冊かの書物と夥しい論文の原稿をどうにかトランクに押しこもうと四苦八苦している。

 「もうだめよ、大尉さんとの待ち合わせの時間に遅れるわ」

 アンナが言い、身支度をした。「お父さん早く」とインゲも急き立てる。

 イサクは仕方なく、衣類や日用品を入れたトランク一つだけを持って立ち上がった。一家は夜の闇に紛れて隠れ家のアパートを出発し、そう遠くは離れていない街外れの森へと向かった。


 夜の闇のような親衛隊の制服に血のようなハーケンクロイツの腕章を着けたステラン・ゾーファーブルクは、広場に立ち、声高に呼ばわる。

 「あらかた終わったか?」

 「はい。積み終わりました」

 部下が答える。今日捕縛されたユダヤ人、ロマが何台かのトラックの荷台に乗せられている。多くは家族連れである。月明かりが差し、篝火が焚かれ、ライトが照射され、広場は昼間のように明るい。光の中に彼ら彼女らの悄然と項垂れた表情が浮かび上がる。

 「逃げようとしたら撃ち殺せよ」

 「はっ」

 「少佐殿ー」

 別の部下が走ってきて報告した。

 「アーベントロート通り七の四の三の中二階に家族四人が住んでいたが、今しがた逃亡した模様と近隣住民の通報がありました。両親と十代の息子と娘。手引きをした者は不明」

 ゾーファーブルクは舌打ちした。逃げる前に言えよ。

 「すぐそこだな。わかった。俺ちょっと煙草喫いがてら、そっち見に行ってみるわ。誰もついて来なくてもいいぞ。二班はここを離れて、そいつららしいのが潜伏してないか、一応、周辺を捜索しろ。あとの者は引き続きここの監視」


 「出発してもいいですか?心残りはないですね?隣人の誰かにお礼やお別れが言いたいとか、どうしても渡したいものがあるとか、ないですね?」

 既に車に乗りこんだ四人家族に向かい、ローゼンシュテルンが尋ねる。

 アンナ、ウジエル、インゲが「はい」と答えようとした時、イサクがおずおずと言った。

 「あの、大尉さん、私、やっぱり・・・・残してきた論文と書物が気になって」

 ローゼンシュテルンは無表情に彼を見た。

 ウジエルが言った。

 「お父さん、もう諦めなよ!この所毎日、SSの奴らがユダヤ人狩りやってるっていうし、逃げようとしたらその場で撃たれるっていうし、戻ったら危ないよ。いのちがあってこその研究だろ」

 ローゼンシュテルンはちょっとほっとしたようにウジエルとイサクを見比べた。

 「そうですよ。あまり言いたくないが、今離れたらもう二度と会えないかもしれません。三十分で行って帰ってこれますか?それ以上は待てません。イサクさんが戻らなくても、奥さんとお子さんだけをお連れしてロストックに向かうことになります」

 それでもまだイサクが迷っていると、インゲが口を開いた。

 「大尉さん、わたしからもお願いします。お父さんを行かせてあげて下さい。お父さんにとって、研究はいのちと同じくらい大切なものなんです。論文は長年お父さんが一生懸命書き溜めてきたものなんです」

 ローゼンシュテルンはやや困惑していたが、心が動いたようだった。

 アンナも言った。

 「ここはわたしたちの住んでたアパートからそんなに離れてないし、三十分なら多分、行って戻ってこれると思うわ」

 ローゼンシュテルンは言った。

 「わかりました。こうして議論してる時間も勿体ない。イサクさん、三十分で行ってきて下さい。さっきも言いました通り、三十分を超えたらイサクさんが戻らなくても出発することになります。SSが気が付いて追ってくるかもしれませんから。奴らに見つかったらみんな捕まりますからね」

 「もしそうなっても、何とかして追いつきます。ビザと身分証は貴重品と一緒に身に着けていますから」

 イサクは頷き、車を降りて街の方へと走って行った。


 アーベントロート通り七の四の三の中二階の小さな部屋で、イサクは白い紙を搔き集め、何とかしてトランクに押しこもうとする。


 タレコミがあったのはこのアパートだな。ゾーファーブルクは煙草を投げ捨て、足を止める。

 一つだけ、黄色い明かりの点いた小窓がある。二階だ。

 ゾーファーブルクが通り過ぎると、建物の陰で抱擁し、愛を囁きあっていた若い恋人たちが竦み上がって離れた。

 彼は見向きもせず、靴音高く階段を上がって行く。

 部屋の戸が半開きで、中から沢山の書類が擦れるような作業音が聞こえてくる。

 ゾーファーブルクは戸を開け放つ。黒髪に顎鬚、頬髯を生やした小柄な男がやっとトランクの蓋を閉めた所だった。

 彼の姿を見るなり凍り付き、咄嗟にトランクを抱えて彼の脇を通り過ぎ、逃げ出そうとした。

 ゾーファーブルクは銃を抜き、男の背中に向かって発砲した。

 男は一言も声を上げず、倒れて動かなくなった。

 廊下を引き返し、立ったまま確認した。一発で絶命していてとどめを刺す必要はなさそうだった。死体の側に跪き、衣服を検めて金目のものを探った。

 立ち上がり、抜き取った財布を自分の内ポケットに入れ、彼は黄緑の目を無感動に瞬かせた。



《二〇一九年 東京》


 自家製のハーブ酒に酔った亜紗子はこうも言った。

 「子供の時から、目の色のうっすい白人、青い目とか、緑の目の人がめっちゃ怖い。でもミクちゃんの前世の人は黒髪やからそんなに怖ないと思う。金髪で青い目、緑の目の人が怖い。親衛隊に追いかけ回されてイビられて虐殺された記憶が残ってるんかもしれんね」



《一九四二年 ベルリン》


 「もう四十分だ。出ますよ」

 沈痛の面持ちでローゼンシュテルンが言った。

 インゲの頬に涙が伝ったが、彼はキーを回し、エンジンをかけた。

 「インゲが悪いんじゃないわ」

 アンナが目をしばたたかせながら慰めた。

 「そうだよ。きっと後から追いついてくるさ。ロストックかストックホルムで会えるよ」

 ウジエルもわざと明るく言った。


 アーベントロート通り七の四の三のアパートの廊下に、イサクは冷たくなって横たわっている。

 血溜まりと、彼の生涯を懸けたカバラ研究の入ったトランクと共に。



《二〇一九年 東京》


 亜紗子はタロットカードを軽くシャッフルし、二枚のカードを引き、裏返しのまま、銀の六芒星が描かれた黒いベルベットのクロスの上に並べた。

 わたしから見て左側の一枚を捲る。巨大な大天使ガブリエルがラッパを吹き鳴らし、死者が墓から蘇る光景が描かれている。

 「これは『審判』ね。キリスト教の最後の審判。死者の復活、魂の不滅、輪廻転生、カルマの清算を表すカード」



《一九四二年 ベルリン》


 ゾーファーブルクは上官の前に書類を広げて言う。黄緑の目が狡猾に光る。

 「射殺したユダヤ人が身に着けていたのを私が押収したものですが、偽造じゃないですかね?」



《二〇一九年 東京》


 亜紗子は続いて、右のカードを表返す。黒と白、二本の柱の間に巻物を持った巫女のような女性が座っている。

 「これは『女教皇』。隠されたものごとを見抜く力、秘密を表す。逆位置いうて、タロットではカードが上下逆になった場合は意味が変わったりするんやけど、このカードが逆位置やと『秘密がバレる』って意味にもなる」

 「『女教皇』・・・・。カトリックの歴史上、女性の教皇は存在しませんね」

 わたしは水色のドレスを纏った聖母のような女性の絵を見ながら呟く。

 「せやねん。正にこの世の『神秘』『謎』を象徴する一枚でもあるんよ」

 亜紗子もじっとカードを見つめながら答える。


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