さようなら
どうぞよろしくお願いします。
今日の天気は穏やかだね。風が暖かい。
私は目を閉じて、太陽に背を向ける。
目を閉じているのに、視界が暖かい光に満たされているのを感じる。
ひとり、海を見つめる。
時折、風が髪を優しくかきまぜていくような気がする。
風の中、チェロの音が聴こえてくる。
波音と戯れるように私の周りに響いて消えていく。
私は風の中に漂うチェロの音を追って砂浜を走り出す。
思いっきり。
チェロの音に近づき、そのリズムとメロディーに合わせて、くるくるステップを踏んでみる。
海辺の空気を吸い込んで吐き出すようにくり返しくり返し。
夢中で走った後は胸や脇腹が痛むような気さえする。
荒い息やドキドキを思い出す。
手のひら越しに太陽を見上げるのに、意識がくらくらする。
汗ばんだであろう額を拭ってみたりする。
陽が沈むね。
私は海の中へ入って行こうとするオレンジの夕陽を、立ち止まったまま、じっと眺める。
もう行かなくては……。
そう、本当はもう行かなくちゃいけない……。
チェロの音が止んだ。
振り返ると砂浜に座っていたあなたが、手に持っていた携帯オーディオを鞄にしまうところだった。
「また、来週。今度来る時、それまで待ってて」
あなたはそう呟いてから、ため息をつき、海に向かって寂しそうに微笑んで見せる。
立ち上がり、ズボンの砂を軽くはたいて歩き出す。
砂浜から階段を上り、海から遠ざかっていく。
去っていくあなたの背中を見つめながら、次に会える日のことを考える。
今度?
私には今度があるのか?
暗くなった砂浜で、ひとり、私は考える。
陽が沈み、寒くなってきた。風も強くなる。
何度目かの強い風に乗って、私はふわり、空中に浮かんだ。
海に撒かれた私の身体だった骨と灰。
みんなどこかへ散らばっていってしまった。
なのに、まだ、身体の感覚が残っているなんておかしいよね。
不思議な感じ。
身体の感覚が残っているのに、記憶はもう少ししかない。
私の名前も、両親の顔も、どこに住んでいて、どんな友人がいて、どんな物が好きで、死んだ時に何を考えていたのか、思い出せない。
憶えているのはあなたとよくチェロの曲を聴いていたことだけ。
あなたを憶えているうちにうちに、天国に行きたいな。
今度こそ『それまで待ってて』ではなく、『さようなら』って言ってくれないかな……。
読んで下さりありがとうございます。
散文小説シリーズ、4作目になりました。
いつもジャンルに迷います。
これは恋愛だと思うのですが、死んでるからなぁ……。