7
「おい! そこで何をしている?」
放課後の教室、忘れ物を取りに戻ってきた、山口亮が叫んだ。
女子だった。黒髪のマッシュボブが、微かに揺れ動いたのがわかった。
「なんだ、驚かさないでくれる?」
綾野小夜が、振り返り、ほっとしたように言った。
「……ソコ、立花の席だろう? 何をしていた……?」
「何でもいいでしょ? ……あたし帰るから」
「待てって!」
山口は、サッと小夜の右手首を掴んだ。その瞬間、表情が一変する。
「――――ッ! ア、あたしに触るな――ッ!」
勢いよく、腕を振りほどき、触れられた箇所を制服の袖で、激しく擦り始めた。
「けがらわしい……けがらわしい……けがらわしい……けがらわしい……っ!」
小夜は、呪詛のように同じ言葉を唱え続ける。アイドルのような顔立ちが、醜く歪む。突然の豹変ぶりに、狂気すら感じた。
「……お、……おい……っ……!」
突然、糸が切れたように、小夜は動きを止めてボウッと天井を見上げた。
そして、口元がニヤリと歪む。
「あっはっはっはっはっはっはっ……!」
と、甲高い声で笑い出した。
……わけがわからないって――。
ピタリと笑い声が止まった。不気味な静寂に包まれる。
小夜は、小首を傾げるような仕草をして、
「……ここで見たことは、《秘密》だから――?」
「え」
「――ワ、カ、ッ、タ……?」
頭一つ下から、ジロリと顔を覗き込む。
三白眼の目は瞬かない。ぎゅっと冷たい手で、心臓を鷲掴みにされているかのような嫌な気分だった。
「……あ……あっ……わかったよ……」
一秒でも早く、その視線から解放されたくて、山口はうなずいた。
「そう」
一言だけ、素っ気ない返事をし、
山口の横を通り過ぎると、教室のドアを開けて小夜は出て行った。
「何だったんだ……今のは」
山口は、呆気にとらわれたように、つぶやいた。
すると、突如――――バンっ!
廊下の窓ガラスを《何か》で叩いたような音がした。
体がビクンとなって、音がした方に振り返る。山口はぎょっとして目を見開いた。
……嘘だろう。
両手をベッタリと窓ガラスに張り付かせ、小夜がこちらを見ていた。
自分の顔から、血の気が引いていくのがわかる。
「――からね」
はっと気づいた。何か言っている?
山口は、脳内でその言葉を再生した。
ヤ、ク、ソ、ク、ヤ、ブ、ッ、タ、ラ、嫌、ダ、カ、ラ、ネ?
ジッとその視線に耐える。ようやく、小夜は身体を起こし、廊下の方を歩いて行った。しばらくの間、指一本動かすことができなかった。動いたら、《小夜》がきびすを返し、ここに戻ってくるじゃないかと思ったからだ。
今の自分に、あの視線に晒されて、耐えられる自信がない。
「行ったのか?」
まだ心臓が激しく鼓動していた。自分を落ち着かせるように口からゆっくりと息を吐く。
「あいつ……ほんと……何なんだよ」
山口は、立花の席の前に立った。
「…………」
中は空だった。
「何かあると思ったんだけどなあ」
……じゃあ、あいつは本当に、ここで何をしていたんだ……?
頭の中が混乱してくる。椅子に腰掛け、机の中に手を入れた。
やっぱり……。なにもないか……。
「……いッ……っぅ……!」
慌てて手を引っ込めた。針で刺したような鋭い痛み。まるで、画鋲で刺したような。手の甲を見ると、小さな穴が空いていた。そこから血が滲み出てくる。
山口は、ギョッとして、机の中を覗き込んだ。
「――ッ、……何だよ、コレ……」
机の奥の方に、大量の画鋲が仕込まれていた。
「……さすがに、コレは洒落にならないって」
小夜が、ここで何をしていたのか、ようやくわかった。
慎重にガムテープを剥がし、大量の画鋲をゴミ箱の中に投げ入れた。
俺は、何か悪い夢を見ていたんじゃないかと思う。クラスの女子が、こんな手の込んだイタズラをするはずがないだろう。
……これじゃ……まるで……、
……いじめじゃないか……!
壁に背中を預け、ズルズルと床に座り込む。
「あッ! 亮! てめぇ! 遅せぇと思って来てみたら、体操着一つ取りに戻るのに何やってんだよ」
米田が怒りのこもった声で言うと――山口はゆっくりと顔を上げた。
「……なぁ。うちのクラスに、いじめってあるのか?」
米田は、ぽかんと口を開いた。
「……そりゃ、どこの学校にも、いじめの問題はあるだろう。うちの学校だけが特別ってわけじゃないと思うぜ」
「そうなのか?」
山口は、おどろく。
「何だ、知らなかったのか? 最初は、いじめって言うほどでもなかったんだけどなあ。ほら、あいつって、大人しい性格だろう? だから、周りのヤツらが面白がって、からかい始めた。それが、どんどんエスカレートしていって、今のような状態になったってわけだ。俺も見ていて、あんまいい気はしないけど、相手は緑だろう? 何か言って、目を付けられたら、たまったもんじゃないって。お前も、関わらない方がいいぜ」
「やっぱり、いじめられているのは、立花なのか?」
「はぁ? 立花? 何いってんだ。いじめられているのは《望美川》の方だろう? 今日のは、とくに酷かったと思うぜ。机の中に虫が入れられていてよ。それを見た立花がブチ切れてただろう? 何だよ、その反応の薄さ、さては、お前っ! あの騒ぎの中、寝てただろう!」
「あっ、ああ……。四時限目は、体育の授業だったからな。ご飯食べたあと、すぐに寝ちまって」
「よく寝られるなあ、お前も一度は、立花に睨まれた方がいいぜ。マジで怖ぇから。蛇に睨まれた蛙って言うのは、あぁいうことを言うんだろうなあ。……ありゃ、人一人は確実にヤっているヤツの目だぜ」
「んなわけないだろ」
「いや、マジだって! 立花には、そう言った、黒い噂がある」
山口は、眉をひそめた。
「ただの噂だろう? 真に受けるなって」
「いや、それが、そうでもなさそうなんだ」
米田が、神妙な表情で言った。
「どう言うことだ?」
「あいつ、どうやら、中学の時に担任教師を椅子で殴ったらしいんだよ。それも、なんつーか、異質って言ったらいいのか? 教室が血で真っ赤に染まっても、殴る手を止めなかったらしい。駆けつけた教師たちが止めに入らなかったら、その教師は死んでいたかもって話だったかな」
「そんな大きな事件が起きたら、普通ニュースとかで取り上げられるだろ? 聞いたことないぞ?」
「そう、まさに、ソコだよ!」
米田は、身を乗り出した。
「は?」
「……いいか、ココだけの話。実は、立花は、あの《白神財閥》の孫娘で、金の力を使って、メディアに圧力をかけたらしい。だから、ニュースにも取り上げられなかった」
山口は、大きく溜め息をついた。
「自分で言ってて、馬鹿らしくないか?」
「あっ、亮、信じてないだろう?」
「まあ、なあ」
米田は、むっとして言い返した。
「でもよー、立花って、どこか品があるというか、育ちがよさそうだよな。亮もそう思うだろう?」
「でも、あいつ、いつも寂しそうにしてないか?」
「おいおい、何の悪い冗談だよ、今日のお前、なんか変だぞ?」
山口は、かまわず続ける。
「俺から見た立花の印象だけど、教室の隅でじっとしているけど、本当はみんなと仲良くしたい、でも、何か特別な事情があって、そのせいで、周りのヤツらとも一線を引いて自分で壁を作ってる。そんな寂しいヤツなんじゃないかと思うだ」
「……そうか、まぁ認めるよ。立花はあぁ見えて美人だからな。それにスタイルも抜群だし、あの大きな胸に飛びつきたくなる気持ちもわかる。立花に……どんな理想を抱くかは亮の自由だけどさ。やめとけって、そう簡単に落とせる女じゃないって。立花だけに《高嶺の花》ってな!」
「は? 何で、そんな話になるんだよ?」
「いや、さあ、お前が立花の毒に侵されて目の前が見えなくなっているからさー、狙うなら、そうだなぁ、《小夜》なってどうだ! 顔だけで言えばクラスの上位に組み込むぞ!」
小夜の名前を聞いて、背筋に冷たいものが流れた。少し前のやり取りを思い出し、首を横に振る。……あの薄気味悪い女のどこがいいって言うんだよ……。
「趣味悪いぞ」
「何でだよ? 亮にその気がないなら、俺が狙ってもいいかなあ……。この前、雑誌で読んだスーパー恋愛テクニックが、」
「悪いことは言わん――小夜だけは、《絶対》にやめとけ……」
「なんでだよ?」
教室で見たことを和彦にも話そうかと、口を開いたが、途中で思いとどまった。
「お前にも、わかるときが来るさ」
「意味わかんねぇ――って、置いていこうとするなって」