6
家に帰ったわたしは、熱いシャワーを浴び、のんびり湯船につかっていた。濡れた髪に、白のワイシャツ、下着姿で家の中を歩き回り、冷蔵庫の前に到着。コップに牛乳を注ぎ、一気に飲み干した。外で汗をかいた分、お風呂上がりの牛乳は最高だった。
ふと、目線を下に落とす。
「…………はっ!」
また少し、胸が大きくなったような気がする。
胸に手を当て、わたしは溜め息をついた。
これ以上、大きくならなくてもいいのに――と思う。
わたしの胸は、いったい、どこまで、成長するつもりなのだろうか。
視界に、牛乳が入った。ははは、……その、まさかね……。
じーっと、五秒ほど牛乳と睨めっこした。
「…………うん」
明日から、牛乳は控えよう。そう思う、わたしであった。
小腹が空いたので、夕食前に、軽くポテチをつまみ、学生らしく勉強を始めた。数学Ⅰの教科書を開き、ノートに問題を解いていく。それを、小一時間くらい続けたあたりから、だんだん集中力がなくなり、机の上にシャーペンを放り投げた。
「アニメでも観よう」
アニメは、たくさん撮り溜めしてある。とくにジャンルは気にせず、今やっているやつを片っ端から録画して、そのままにしている状態だった。
さて、この中から何を、み、よ、う、か、な、と――、うん……?
わたしは、首を傾げた。
《伝説のシェフは、片手に箸を、もう片方の手にはマラカスを持って、ディスコダンスを踊りながら世界を救う。と誓い、やっぱ明日からと言った》
「……なに。このタイトル……。もう、どこからツッコミを入れたらいいのやら、って、肝心なのはそこじゃない。けっきょく、シェフは世界を救うの? 救わないの? どっち?」
これは……。ごくりと喉を鳴らす。軽い気持ちで見始めたアニメだったが、これが予想以上に長く。六時間後。
わたしは、ハンカチを片手に握り締めていた。
「……衝撃のラストだった。まさか、カジキマグロ先輩が、最後に身を挺して火の海に飛び込むとはね。太陽系の生態は、カジキマグロ先輩の手によって、守られた……。人と魚人が、ともに手を取り合う。うんうん。世の中、何が面白いか、わからないものね……。ぐずっ……」
次の日、わたしは学校を遅刻した。正確には、この表現は正しくないと思う。
結果、そうなってしまったわけであって。そこにいたるまでに、わたしの涙ぐましい努力があったことをどうか頭の片隅にでもおいといてほしい。
早朝、五時にアラームが鳴る。眠たい目を擦り、スマホのアラームを止めた。ムクッとベッドから起き上がり、凝り固まった筋肉をほぐすように両手を上げて大きく伸びをする。そこから、お弁当を作って、学校に行く準備を始めた。髪を整え、食パンをかじり、朝のニュースを眺めて、時間になると、家を出て、駅に向かう。おっと、眼鏡を忘れるところだった。机上に置いた黒縁眼鏡を装着。これで完璧。そして家を出る。
家から歩いて、五分のところに駅がある。そこを、いつも利用している。時計の針は、ちょうど七時を指したところだった。
今日は余裕だな、と思う。
――どうして人は電車に揺られていると、こうも眠くなるのだろうか……。
手に持つ本が床に落ちる。これで三度目だ。慌てて本を拾い上げる。
……もう無理。……少しだけ……。
わたしは、ゆっくり瞼を閉じる。いつの間にか、ストンと眠りに落ちていた。
「うーわー、お姉ちゃん。早く、早く!」
「待ってよ、ヒナ、一人で走ると転んじゃうよ?」
「だいじょうぶーっ! うぁ、うわっ!」
「あーっ、もーう、だから……言ったのに」
夢を見ていた。小さい頃、家族四人で遊園地に行ったときのこと。
幼いわたしは、姉の手を握って、二人で観覧車に乗り込んだ。
「お姉ちゃん。ひとがちいさい!」
「うふふ、そうね……」
「お父さんとお母さん……ヒナたちのこと……見つけられるかな……?」
「……どうだろう、そうだ、ここから手を振ってみれば?」
「あ、そうか!」
わたしは、窓に張り付き、足をパタパタと揺らしては、行ったり来たりを繰り返していた。姉は、何か悪巧みを思いついたのか、にやりと笑う。
そして。
「ねえー、ヒナ、知ってる? 観覧車の中で騒いでいると、たまに、落ちたりすることがあるんだって……。お姉ちゃん、心配だなぁー」
「え、ほんと?」
「ええ、だからお姉ちゃん……。このまま観覧車が落ちて、どこかに転がっていくじゃないかと思うと……」
わたしは、落ちたら大変だと思って、姉の横にちょこんと腰掛けた。
「ふふふ……冗談だよ」
「もうっ、お姉ちゃんーっ!」
「あ、お父さん」
「え、どこどこ!」
「ほら、あそこ――、」
父と母は、白い丸テーブルに腰掛け、こちらに向かって手を振っていた。
わたしたちも、手を振り返す。
観覧車は無事、落ちることなく地上に到達した。
「……観覧車……こわかった……」
わたしは、ぱっと父の身体に抱きついた。
「あっはっはっはっ。ヒナには、まだ、早かったみたいだね?」
父は、どこか嬉しそうに、母と顔を見合わせた。そして、わたしの「おなかすいた」の一言から近くのレストランに入った。そのとき食べたのは、何だったっけ? ああ、オムライスだ。
姉は、お子様ランチの旗を、わたしのオムライスに刺して遊んでいたことを思い出す。
そこで、はっと目が覚めた。
口元のよだれを拭き、窓の外に目を向ける。すると、見慣れない景色が流れていることに気づく、それと同時に、乗り過ごしたことにも気づいた。
「――――あっ」
この日、わたしは学校を遅刻した。
というか。
自業自得である。
昼休の屋上、わたしたちは、お弁当を広げて、見せ合っていた。
「静流、どうかな、わたしのお弁当……」
「う~ん。おかずは茶色一色で、とても、おいしそうだけど。身体には、よくないかも」
静流は、どこか、ぎこちなく答える。スウッと自分のお弁当に視線を落とした。
そこにはレンジでチンしただけのミートボール、昨日スーパーで買った残りのお惣菜、作り置きしておいた肉ジャガに、あと、唐揚げが二個入っている。こうして見ると、わたしのお弁当には《野菜》と呼べるものが一つも入っていない。まるで欲望だけを詰め込んだ夢のようなお弁当だった。それを自慢げに見せているわたしが、なんだか、はずかしい。
「えっと、これは、たまたまなの。そう、たまたま、そういう気分だっただけ……」
「そうなの?」
よかった、と静流は言う。
「そういう静流は、どうなの?」
ちらっと、静流のお弁当の中身を覗く。
「……なっ!」
静流のお弁当は、色とりどりの野菜やおかず、ごはんの配置に至るまで、すべてがこの長方形のお弁当箱に、きっちりとおさめられており、これは、どこに出しても《文句の付けようがない》見事なまでの完璧なお弁当だった。
「そのお弁当は……静流のお母さんが……作ってくれたものよね?」
震える声で、質問した。
「ううん。毎日、自分でつくるよ?」
――ま、負けた……。
心の中で何か崩れた音がした。たしかに、わたしの料理の腕前は、たいしたものではないかもしれない。作れるものだって、限られているし、それに《お腹に入れば》なんでも一緒だと思っている。だから、今までそういった《見栄え?》的なものを気にしたことがなく、そういった考えが、なかったわけで。
静流との間に、女子力の《差》というものを見せつけられたような気がする。それは、わたしの《精神》に大きなダメージがあったわけで。
膝を抱えて、俯くわたしを、静流は不思議そうな顔で見ていた。
「……どうしたの?」
「うんうん。なんでもない。ただ、精神を少し……もって行かれそうになっただけで、わたしは大丈夫だから……」
わたしは、俯いたまま答えた。
屋上でふたり、ごはんを食べる。
そんな時間が――とても幸せに思えた。
予鈴のチャイムが鳴り、わたしたちは急いで教室に戻った。
教科書を取り出そうと、わたしは鞄の中を開く。すると、中から知らない手紙が出てきた。これは……。わたしは、眉間に皺を寄せた。
手紙に手を伸ばそうとした。そのとき、前の席から、ものすごい音がした。わたしは慌てて手を引っ込めた。
前の席に視線を向けると、静流が蒼白な顔で突っ立っていた。
両手で口元を覆い、嫌悪感を示す。
「……静流?」
わたしは、そっと席を立った。
次の瞬間、静流は膝の力が抜けて床に座り込む。ただ、ある一点を見つめて、それは、ここからじゃ、よく見えない。わたしは目を凝らす。
――そして、見えた。見てしまった……。
静流の机の中から、小さな箱に入った、何かが。ガザガザと不気味な音を立てながら、這い出てくるところを。
あれは……ムシ? そう思った瞬間、黒い毛の生えた虫が何匹も小さな箱から抜け出し、異様な姿を見せる。鳥肌が立つような光景に、わたしは言葉を失った。
冗談でもやっていいことと、そうでないことの違いもわからないの。喉の奥にカッと熱いものが込み上げた。唇を強く噛みしめる。そして、静流の席に近づき、気持ち悪い〝そいつ〟らを素手で掴み、箱ごと、窓の外に放り投げた。
一瞬、教室がざわついた気がする。
だけど、気にならなかった。
「……やったのは……誰――?」
わたしは、クラスメイトの顔を一人一人見ながら訊く。視線が合うと、みな、顔を逸らし、中には下を向く者もいた。
「……それさ。もともと、入ってたんじゃない?」
緑が、平気でうそぶいた。
「そんなわけないでしょ? いい加減なこと言わないで!」
わたしは、きつく睨みつけた。だが、緑の方は、どこ吹く風だった。
「じゃあ、誰がやったっていうの?」
「あんた達でしょ?」
「まさか! 何か証拠でもある? 私たちが、《やった》という決定的な証拠でもさ?」
緑は、諭すように言う。
「証拠もないのに、決めつけはよくないよね?」
「ふざけんな!」
わたしは、ギュッと拳を握りしめて、一歩前に出る。
「お願いっ! やめてっ! 立花さん――っ!」
静流が、叫んだ。
はっと我に返る。わたしは周りの様子を見て、いったん、抜きかけた矛を収めた。
「この際だから、はっきり言うけど、わたしは――」
緑の顔を真っ直ぐ見つめる。
「あなたのことがダイッ嫌い、わたしの《親友》に手を出すつもりなら……。わたしも容赦しないから」
「そう、じゃ――」
「これは! いったい、何の騒ぎですか!」
国語の教師、愛沢紀子先生が、胸の前に教科書を抱え、教室の入り口に立っていた。
「あなた達、そこで何をしているの?」
緑が、すぐさま、取り繕った笑顔で答えた。
「少し口論になりまして、そんな大したことじゃないんですけどね。目玉焼きに《塩》をかけるか《醤油》をかけるかで、揉めまして、一通り意見がまとまったところに、立花さんが、急に、わたしは《ソース派》だとか言い始めて……」
愛沢紀子先生は、ぽかんとなった。
「そんなこと?」
「はい」
嘘も方便という言葉もあるが、ここまで人に堂々と嘘をつき通す人も、なかなかいないと思う。最初の発端を、わたしに擦り付けているところは、気に入らないが、教室の空気は、少しずつ鎮静化に向かっていた。
緑の説明に、愛沢紀子先生は、納得したようだった。
「馬鹿馬鹿しい……」
わたしは自分の席に戻り、不貞腐れた表情で、窓の外を眺め続ける。
この日の授業の内容は、よく覚えてない。
正直、どうでもよかった。