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「立花。遅刻か?」
教室に戻ると、物理の教師、永野薫堂先生が授業を始めていた。
わたしのことは気にせず、そのまま授業を続けてくれたらいいのに、と思いつつ、わたしはお腹に手を当て、必殺、女の子特有の体調が悪そうなアピールをした。
「すみません、お腹が痛くて……」
永野先生は、そこで言葉を詰まらせた。年相応の女の子にあまり踏み込んだ質問をするのは野暮というものなのかもしれない。永野先生も、そこら辺のことは理解しているらしく、これ以上は何も訊いてこなかった。
「次は、早めになあ」
「はーい」
わたしは軽い返事をする。
さて、と――。
教室を見渡す。後ろの窓辺の近くにあるのが、わたしの席だ。ここからならクラス全体を見渡すことが出来る。永野先生は、教科書を読み進める。さすがに、この授業で騒ぐ生徒はいなかった。永野先生は、この学校の中でも、とくに授業中は厳しく、授業中に騒ぐ生徒がいれば日頃から鍛え上げられた《肉体》および十枚の瓦をいともたやすく割る《頭突き》という名のせん公の一撃が《鉄拳制裁》というこの四文字を言葉で理解するよりも早く、直接、脳に叩き込まれることになるだろう。
以前、米田がふざけて授業中に紙飛行機を飛ばしたことがあったが、それが永野先生の目に止まり、丸太が真っ二つに割れたかのような轟音の後、米田は頭から煙を出して、机の上に倒れていた。それを見たわたしたちは、一斉に姿勢を正し、黒板に目を向けた。
その日から、永野先生の授業中は、何があっても《絶対》にふざけない――、という暗黙のルールが、わたしたちの中で定着しつつある。
そんな中、わたしは緑に目を向けた。
緑は退屈そうに授業を受けていた。着崩した制服に栗色に染まったセミロングの髪を触りながら、机に隠した手鏡を見つめ、自分の顔を入念にチェックしていた。そんな緑の取り巻きとも呼べるのが、一宮麻夕里・清水双葉・綾野小夜。この三名である。
せっかくなので、彼女たちについて、少し触れておこうと思う。まず、一宮麻夕里は男勝りな性格である。身長が百八十一センチと男子と比べても背が高く、身体を動かすことが得意。足が速く、体育の授業では水を得た魚のように生き生きとした彼女の姿を見ることができる。だが、短気でキレやすく、一度怒り出すと、なかなか手が付けられない。とても面倒臭い女。できることなら関わり合いたくはない。
清水双葉は、有名なおもちゃ会社、『SHIMIZU』の社長令嬢。つまり《お嬢様》である。身につけている物もブランド品が多く、何かと、お金持ち自慢をする事が多い。ツインテールに強いこだわりをもっているらしく、髪型を馬鹿にすると、恐ろしいしっぺ返しが待っているとか、そんな噂話を聞いたことがある。
綾野小夜に関しては、どこか冷たい印象がある。教室でも、あまり話すことがなく、制服をきちんと着こなし、全体に小作りで《アイドル》のような顔立ちをしている。マッシュボブの黒髪は男の子に人気が出そうなタイプだが、どこか避けているようにも思う。緑とは幼なじみで成績も悪くない、ただ少し気になる点はあるけど、それは些細なこと……。
午後の授業も終わり、部活動に参加しない、不真面目なわたしは、帰り支度を始めていた。
ふと、窓の外に目を向ける。
部活動に青春を燃やす若人を見ていると――頑張るなあ。と、どこか悟りを開ききったような目で校庭を眺める。まだ十六のわたしが、一体何を言っているのかと世間様に怒られそうなところではあるけど、今日のところは、許してほしい。そういう気持ちになるときも、あるでしょう? そういうことにしといてほしい。
そういえば、と思う。
あの後、静流が午後の授業に顔を出すことはなかった。帰るついでに、保健室に寄ってみることにした。
「こんにちは……」
保健室のドアを開けると、中に文香先生がいた。
「あれっ? モグモグ……ごっくん……。どうしたの?」
文香先生は、食べていた饅頭を片手に訊いてくる。
「静流の様子が気になって」
「望美川さんなら、先に、早退したけど……?」
「そうですか」
「あ、待って!」
わたしは振り返る。
「あの子のこと、大切にしてあげなさいよ」
「何ですか? 急に……」
「事情はよく知らないけど、立花さんが、他の子に心を開くことがなかったから。これでも先生としては、心配していたのよ。望美川さん、彼女、とてもいい子よね……。真面目というか。少し立花さんに似ているかな」
「わたしと、ですか?」
文香先生は、頷く。
「似ていないと思います。わたしは《不良》ですから、そもそも、真面目じゃないし」
「はあー、いいかげん、その、不良ぶるのをやめたら?」
「…………」
「あなたが、それでいいなら、先生は止めないけどさぁー。何かあったときは、すぐに言いなさいよ?」
わたしは、曖昧な笑みを見せた。
「考えておきます……」
軽く会釈をして、保健室を後にした。