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桜が咲く季節。わたしは高校生になった。
わたしは、不安で、胸がいっぱいだった。
うまくやっていけるだろうか。そんな風に思いながら、わたしは校門をくぐる。
辺りは一面、桜で満開だった。桜の木の前で、わたしは、その子と出会った。おなじ新入生の子だろうか。胸ポケットの前に、新入生の証である《ブローチ》が付いていた。
女の子は、呆然と桜の木を見上げていた。じろじろ見るのも、悪いと思ったが、その姿が、とても絵になっていたので、つい見惚れてしまっていた。
あっと目が合った。その子は、ずっと見られていたことに気づき、頬を真っ赤に染めて静かにうつむいた。
……どうしよう――。気まずい……。
わたしは、声を掛けるかどうか、迷っていた。すると――、
「……あ。……あのう!」
向こうから話し掛けてきた。声が変に、うわずっていたと思う。向こうも、わたしと同じくらい緊張しているのがわかった。
「……髪……綺麗ですね」
わたしは、目を大きく見開いた。
「さらさらして、その――とても、綺麗な髪だと思います……」
強張っていた顔の筋肉がほぐれて、わたしは自然と笑みを浮かべることができた。
「あなた。……名前は?」
女の子は、ハッとして自分の名前を口にした。
「《ノゾミカワシズル》です! えっと、そうだ……。漢字で書くと、こう書きます」
落ちていた小枝を拾って、地面に名前を書き始めた。
――《望美川静流》――、
「のぞみ。うつくしいかわは。しずかにながれる……」
「へ?」
「……ああ。ごめんなさい。わたし……人の名前と顔が覚えられなくて。こうして忘れないように、語呂合わせを使って、覚えるようにしているの。気に障った……?」
「……えっ……とう……。あっ、まだ名前を聞いてなかったですね。あなたの名前を教えてくれませんか?」
わたしは、女の子の顔を真っ直ぐ見つめて、
「名前は――」
電車に揺られながら登校する。どこにでもいるような普通の女子高生。整った顔立ちには不釣り合いな眼鏡。髪は黒髪のロング。それと――地味な紺色のブレザー。
膝に鞄を置き、両手で本を読んでいる。傍から見れば、ただの《文学少女》それが、今のわたし立花ナキである。
家から学校まで、片道一時間と交通の面では、とても不便である。だけど、これくらい地元から離れていれば、わたしを知る人に、会うことも少ない。だから少し気が楽。でも油断はできない。何処かでバッタリ出会してしまうことも、あるかもしれない。
そう思った、わたしは、小中ともに――一度もかけたことのない眼鏡をかけ、少しでも、印象を変えてみることにした。
今の自分を見て、おどろいた。
「ジミね……」
いつも鏡越しに見ている、わたしとは、何処か違う自分の姿が映っていた。
あなたは誰? などと、自分に問いかけてみる。
もちろん、その答えが、返ってくるわけもなく。自分の馬鹿さ加減に、わたしは呆れていた。
わたしの通う高校、山吹白丘高校は二つの校舎が建ち並んでいて、一本の渡り廊下で結ばれている。上空から見たら、ちょうど『H』のような形になっていて、その間を挟むように体育館とグランドがあった。それ以外は、どこの学校とも変わらないと思う。決められた時間に授業が始まり、そして休み時間があって、また長い授業が始まる。基本は、この繰り返し。そこに何か意味があるのかと訊かれれば、正直、意味はないと思っている。
学校で教わる、ほとんどの授業は社会ではあまり役に立たないし、簡単な計算をするのだって、スマホでパッと数字を打ち込めば、すぐに答えが出てくる。英語はアプリの翻訳機能があるし、言語にいたっては最低限の平仮名さえ読むことができれば、あとはどうにでもなる。たとえ四十七都道府県、すべてが言えなかったとしても、自分の住む地域に何があるのかくらい知っておけば生活に困ることも少ない。それに今は音声案内で何処にでも行ける時代だ。そんな中で真面目に勉強する人は、将来、何かなりたい目標がある人か、もともと勉強することが好きな人くらいだと思う。
だから、というわけではないけど――。
わたしが考えられる可能性を、この『ノート』にまとめてみた。
――で、結論。
だからこの教室は、こんなにも狂っているのだと。
教師が黒板に、授業の内容を書いているにもかかわらず、ノートをとる生徒は少ない。今は授業中のはずだが。席を立って話す人や、寝ている人に、漫画やファッション雑誌を読む人、スマホの画面に熱中する人まで、おなじ教室の中でも、こうも違ってくるのかと、わたしは呆れて溜め息をついていた。
最初の頃は、必死になって注意していた先生も、いつしか何も言わなくなり、聞いてもいない授業の内容を、ただひとり、黒板に向かって喋っているだけだった。授業を受けたい人だけが、授業を受ければいいというような姿勢だ。
後ろの方では、今まさに、二人の男子生徒が千切った紙で作ったボールとノートを丸めて野球を始めようとしていた。その一人、クラスのお調子者である米田和彦が後ろの方で高らかに宣言した。
「……ピッチャー、米田のこの魔球――! 亮に打てるかな!」
短髪に耳にピアスをしている生徒、山口亮が受けて立つ。
「いいから早く投げろよ……。和彦のヘボ魔球なんか俺の華麗なスイングで返り討ちにしてやるよ」
それを聞いた米田は、ニヤリと口角を上げて白い歯を見せた。
「……ふふふ……あとで吠え面かくなよ。今晩……負けたことを思い出し。お前は悔しさのあまり枕をぐしゃぐしゃに濡らしながら寝る羽目になる。その時を震えて待つがいい」
「それはどうかな」
山口は、澄ました顔でバットを構えていた。
「まあいい。見て驚け! 聞いて跪け! これが俺の《ワールドボール》だ――っ!」
それはスローモーションで見えた。手を大きく振りかぶり。それこそ甲子園球児顔負けの見事なオーバースローの構えから、投げたボールは遅く。ふわふわと空中を漂っては山口の方に向かってくる。
「何だよ……? その、おっせえ、ボールは……? これなら――ふっん!」
米田の投げた魔球は、紙を丸めたバットの芯に当たり、綺麗な放物線を描きながら、先生の頭に当たった。
「あ、わりいぃ、鈴ちゃん先生……。ていうか! お前もちゃんと投げろよ!」
山口は、米田に向かって言った。
米田は膝から崩れ落ち、床に向かって、何かぶつぶつと言っていた。
「……くっそう。なぜだ、ホームは完璧だったのに。……イメトレが足りなかったのか? あぁー、わっかんねー! 勝っていたのは、俺だったのに! うおおお――っ!」
気になって様子を見ていた、わたしが馬鹿だった。結局、米田は何が言いたいのだろう?
黒板に意識を戻す。すると、なぜか、鈴原先生が、わたしの方をジッと見ていた。
視線が合う。
怒られる、そう思った。だが、とくに何も言わず、黒板の方に身体を戻して、授業を再開した。わたしたち、一年三組の担任である、鈴原郁子先生は、三十代前半の女性教師である。上下黒のスーツに白色の大きなリボンを頭につけて、長く伸びた髪を一つにまとめている。見た目は二十歳そこらにしか見えない、どこか、あどけなさが残っていた。
鈴原先生は、その性格から、生徒に正面切って歯向かわれると、何も言い返せないところがあった。だから、今では授業中でも騒ぎたい放題になっている。
やっと終わったか、とわたしは思った。
チャイムが鳴り(この無意味とも思える)授業が終わった。
チャイムが鳴り終わると、鈴原先生は手早く教科書を片付け、教室を出て行った。
そして、わたしたちは、いつもと変わらない昼休みを、ただ楽しむのである。
学校の屋上は、とても日当たりがいい。
わたしは、お弁当を片手に大きく伸びをしていた。この場所、屋上に、他の生徒たちが来ることはない。というのも……。
屋上は《立ち入り禁止》になっている。入学当初、わたしは学校の隅々まで探索していた。ふと疑問に思い。その場所に向かった。階段を上り、高く積み上げられた机の山を平泳ぎするかのごとく、かき分け、やっとの思いでドアノブに手を掴んだ。そして荒くなった息を整え、音を立てないよう細心の注意を払う。すると、扉が開いた。
それが、この場所、学校の屋上である。
普段は、施錠されている屋上の鍵が《開いて》いたのだ。このことは、おそらく教師も知らないと思う。もし仮に、このことを知っていたとして、いつまでも、このままにしておく理由がない。そこで、わたしは確信する。このことを知っているのは、わたしだけ。ここを有効に使わない手はない、と――。
ポケットから、ハンカチを取り出し、それを床に敷いて、腰を下ろす。そして、お弁当の蓋を開けた。今日のお弁当は、なんといっても、この卵焼きが自信作。わたしが今まで作った中でも、かなりの完成度が高い。そこに、きんぴらごぼうがあって、その隣には、シャケの塩焼きが、堂々とこのお弁当の真ん中を飾っている。野菜はプチトマトが隅にあるくらいで、なんと、男勝りなお弁当なのだろうと、自分でも少し笑ってしまう。
これが、自分で、作ったものではなく、母が作ってくれたものだったら、と少し考え。その考えを、すぐにやめた。
今日は、とてもいい天気だ……。
曇り空に向かって、そうつぶやいた。