第9話 カリスマ
突き抜けるようなオレンジの空。
春の終わりを予感させるような暖かい風。
グラウンドからやってくる砂の匂い。
昼休みなら多くの生徒で賑わうはずの屋上庭園も、放課後に用事のあるやつなんているはずもなく、気まぐれで来た時には独占していることの方が多い。たまに告白の現場になっていて、必死に考えて来たであろう口説き文句を聞かされることもあるが、そうだとして特段気にしたこともなかった。ちょうど今聞こえてくるような運動部の掛け声と大して変わりがない。
どっちにしても、俺とは関係がない音だから。
フェンスの向こうでぷかぷか浮かんでいる雲を、何の意味もなく眺めていた。
ふと、こう考えてみたりするのだ。面倒事を考えることもなく、決して傷つかず、あるがままに形を変えて、ただそこに存在しているだけ――そんな風になれたらなって。雲に憧れるなんてトンチキな趣味だってことは分かってるけど、他人に翻弄されっぱなしな日の終わりくらいは、変な願望だって抱きもするだろうよ。
――と、後ろでドアが開く音がした。
「よっ、風来坊」
そのように呼んでくる相手を俺は一人しか知らなかったので、振り返ることはなかった。ただ少しだけ、しかめっ面をしたくなってしまうような相手ではあったが。
黙っていると、頬に冷たい缶が押し付けられる。
小さなことで押し問答をするくらいならと、すんなりと受け取ってやることにした。どうせいつもの、微糖の缶コーヒーだろうし。
「何の用だ」
「えー? それ、ちょっと自意識過剰じゃない? 誰に用がなくても、一人で寂しく青春に浸りにくる場所じゃん、ここ」
かつてのクラスメートである桜庭渚は冗談っぽく笑った。一日中誰かしらに向けられていたであろう快活さの名残りが、放課後っぽい気だるげな表情からも見てとれる。
ずっと、周りに笑顔を振り撒いている子だった。
きっと今もそうなのだろう。
「まあ、君に会いに来たんだけどさ。ここ、うちの教室から見えるんだもん」
「会いに来た、では質問に答えたことにならないだろ?」
桜庭は答える代わりに缶を開けた。
プシュっという音が、冷たい空気の中で虚しく響く。
色白だが、適度な日焼けも見える健康そうな肌。斜陽に照らされた、セミロングの茶髪。まさに制服の似合う元気な女子高生という出立ちだ。桜庭を初めて見た人は思うだろう。この子はいつも輪の中心にいて、誰かと一緒に笑ってるんだろうなって。
ただ今は、その顔は切なそうに景色を見つめている。
それはもの悲しそうにも見えたが、どこか肩の荷が下りたようでもあって。
「……前のクラス、嫌なやつらいたじゃん?」
「ああ」
「また、同じクラスでさ。あの人たち全員」
「うげぇ、しんどそうだな」
「私ね、今、政治してるんだよ?」
笑っちゃうよね。桜庭はそうやって自嘲気味に笑った。
答えるでもなくその先を待った。親、兄弟、友達――相手によって言葉の選び方や距離感が全く違うように、俺と桜庭の間にも独自のそれがある。だからどうしたって話ではあるけれど、桜庭相手なら、俺が言葉を待つことの方が多い。
そして俺の前で、桜庭が大げさに笑うこともない。
少なくとも、こいつがこいつの友達にしているようには。
「みんながみんなと仲良くってわけにはいかないじゃん? だからね、私の味方を増やして、あの人たちが肩身の狭い感じにして、面倒臭くならないように、隅っこで黙ってもらってるの。そういうのって、すごく汚いよね」
「怖い話だな。たかだか教室だぞ」
「……たかだか教室のために、一番熱くなったのは君じゃん」
俺は反論しなかった。
桜庭には恐ろしいところがある。俺がどうにか触れまいとした話題も、見透かしたようにさらってくるのだ。
「あっという間に、大人になるんだよ。だから今目の前にあるものを大切にしなきゃ。たかだか教室でも」
「あんたは、自分のために頑張ってるのか。それとも、クラスのやつらのため?」
「――――正しいと思うことを、するため?」
すました顔で言ってのけた桜庭だったが、すぐに何かのネタばらしのように吹き出した。
「はははっ……こういうの、君から学んだつもりなんだけどな」
「だとしたら何かの手違いだっ。それ、まるでテロリストみたいな言い分だぞ」
「そだね。でも、心のままでいようとすれば誰かと戦わなきゃいけない時もあるでしょ? 君がそうして見せてくれたように……さ」
「別に俺は、クラスの崇高な未来を思い描いてイキったわけじゃないぞ。単に見てられなかっただけだ、去年のアレは」
「そんなもんだと思うよ? 先生が教えたいと思っていることを、必ずしも生徒が学ぶわけじゃない。君がそんなつもりはなくても、私が勝手に勇気を貰ったからいいんですー」
ふと横を向くと、桜庭は感じよく微笑みで返してくれた。それが嫌に恥ずかしくて、地平線の方に向き直ってしまったりもする。普段から会っているわけではない。一緒に外を出歩いたこともなければ、教室で話したこともそれほどない。
ただ去年の学園祭以降、名付けようのない不思議な距離感が生まれてしまったのは否めない。彼女はふと現れて、単に話してくるのだ。下らない会話で終わることも議論に発展することもあるが、いずれにせよ、具体的に言いたいことがないのに絡んでくるほど暇な子でもないだろうと思う。
だから俺は、コーヒーに口をつけて待つ。
すると桜庭は、俺たちの距離感に相応しいだけの間を置いて切り出した。
「天沢さんのこと、聞いたよ」
「……いくら何でも、早くないか?」
「だって私、友達多いから」
「教員も学級委員もスパイを持ってるとか物騒な学校だな。乱世か」
「あのさー。朝は騒ぎもあったんでしょー? お昼は如月さんも一緒だったんだよねー? そんなの、誰でも聞き耳立てちゃうってば」
本当によく表情を変える女子だ。
桜庭はムッとした風に頬を膨らませた直後に、儚い顔で遠くを見たかと思えば、
「――君はさ、リーダーをやるべきだよ。っぽくないけど、向いてると思う」
ああ、どうせ、今日はそれを言うためだけに来たんだ。
「学級委員のことを言ってるなら、藤原がリーダーだ」
「んー? はぐらかすなんて君らしくないな。聞いたよ? 宮永グループってね」
「大げさなんだよ。友達同士で寄り合うのを、グループだリーダーだ、カーストだ、なんて」
どこまでいっても、たかだか教室だろ?
スクールカースト、上位カースト、負け組、陽キャ、陰キャ、どれもそうだけど。どいつもこいつも、お勉強に来るだけでいちいち悩みすぎなんだよ。みんながみんな、ぼっちのままで好きにやっていればどれだけ気楽だろうかって思う。
いや。
心のどこかでは分かっていた。
現実はそうもいかない。
誰も彼も、他人の顔色と自分の評価を気にして、雲のようになんかなれないんだ。
きっと俺も。
「天沢さんは、君じゃなきゃいけなかったんだよ。君の誠実さ、君のあけすけで真っ直ぐなところが、どうしても必要だった。私だってそうだったから、よく分かるよ」
「感情的なお節介が、いつでも正しいとは限らない。本音では迷惑がられてるか、そうでなくとも、相手のためにならずに終わるかも知れない」
「君はさ、自分の正義感を恥じてるところあるよね。そういうの、下らないと思う」
言い切った桜庭を見て、ああ、やっぱり苦手な女だなと思うのだ。
俺と同じくらいハッキリと物を言うが、やはり少し違う。言いたいから言うってだけなら、最初から思っていたことをズカズカと言って、さっさと帰ればいいだろう。俺ならそうしてた。
おそらく桜庭渚という女子は、相手によって陰と陽を使い分けられるコミュ力モンスターか何かなのだ。適切な間を取り、一番刺さるタイミングで容赦なく突き刺してくる。でもそれはきっと、単に言いたいことを言ってスッキリしたいからってだけではないのだろう。
言うからには響かせたい。
それは俺にはない感覚だった。
もっと言うと、そんなの、眩しくもあり暑苦しくもある。
よく桜庭のことを、学年一のヒロインだなんて言い方をするやつもいる。でもこの女子のヒーローを務める男が現れるとすれば、さぞ大変だろうと思う。
だって、生きてて普通、こんな真っ直ぐな目で見られることなんてないだろ?
「どうか、あなたの中にしかないカリスマを恥じないで。恐れないで」
桜庭は真面目くさった顔を崩して、不敵にニヤリとして見せた。
「君の感じた正しさが的外れだったとして、何なのさ? 藤原君たちにガツンと言えるの、この学校どこ探しても君しかいないって。それに、怖がっても意味ないよ? 君じゃなきゃ助けられない子が現れたら、どうせ君は、いてもたってもいられなくなるんだからさ」
「言葉選び、間違ってないか? カリスマの意味、知ってて言ってんのか?」
「もちろん。私は魅かれてますのでっ」
「買い被り過ぎ、じゃないのか?」
「君の株なら、片っ端から買うよ。私とみんなの青春を守った人だから」
「俺とあんた、大して仲良いってわけでもないだろ」
「ベーっだ! それは君が避けてるからですーっ!」
「まあ、ぶっちゃけ苦手なのは確かだけど……」
「あー出た、いつものあけすけ妖怪! あはははっ」
桜庭が笑った後に沈黙が訪れたが、そうしている間にも陽は傾いていた。それは俺たちが気付けるようなスピードではないけれど、待っていれば必ず夜が迫って、残念ながら明日が来る。
来てもいない明日のことを心配していたって仕方がない。
半分以上残っていた缶コーヒーを、俺は一気に飲み干した。
「ま、苦手と嫌いは違うもんね? ちゃんとハッキリ言い切らないと、脈あるんだーって勘違いしちゃうよ?」
「…………もう行く」
「えー、ここは一緒に帰る流れでしょうがー! そんなんだから私たち、いつまでも進展ないんだぞーっ!」
「知るか。家族に飯、作ってやらなきゃいけないんだよ」
俺は桜庭渚のことがすこぶる苦手だった。
かと言って、とびきり嫌いってわけでもなかったが。