第7話 結び目を断つ(後編)
「ああ。もう、たくさんっ」
危うい空気になりかけた空間の中で、如月はバタンと立ち上がった。教室中から降りかかってくる視線を跳ね除けて、ズカズカと机の間を進み、藤原たちの前に躍り出る。
「その質問には私が答えるわ」
如月は天沢の手を取る。
「もともと優衣には私と予定があったけど、あんたらのクラス会が割り込んできたの。じゃあ、そう言うことですのでっ!」
「ちょっと、いきなり出てきて何? 如月さん、やめてよ」
とっさに、もう片方の手を取ったのは古橋だった。
引っ張り合いにこそならないが、物理的に天沢を取り合う二人。この場にいた誰もが口を閉じていた。ある者は藤原たちの方を眺め、ある者は我関せずといった感じに漫画や参考書を眺めていた。
「優衣はウチらのクラス会に来たいって言ってたんだけど! ねえ優衣?」
「そ、それは……っ」
「あんたらが強引に誘ってたからでしょ? さっきから見てれば、私の友達が弱気な子なのをいいことに……!」
「えー何それ友達って、危ない匂いしかしないんだけど? 私、如月さんの噂、色々聞いちゃってるんだけどさぁ……あなたこそ優衣を無理やり従えたり、してるんじゃないの?」
「は? なんでそうなるわけ? 意味不明なんですけど?」
「ああ、そう言うことかぁ。だから優衣は参加できないなんて突然言ったんだ。悪い子に脅されてるなら、ウチらに相談してくれればよかったのに。あなたも突然学校に来て、変だと思ったんだよねっ」
「テキトーな憶測でモノ言ってんじゃないわよっ! 優衣とはずっと前から好きなバンドのライブに行く約束してたの! 言っとくけど、あんたらより付き合いは長い――」
「うっさい! 学校にも来ない不良が、私たちの大事な友達に手を出すなッ!」
古橋の剣幕は、如月をもわずかに怯えさせるほどだった。いやそれとも、どこか痛いところを突かれでもしたのだろうか? あいつは後ろめたそうに、そして悔しそうに目を逸らしたのだ。
一瞬だけの怯みだったが、古橋はそれを逃さず畳みかけた。
「友達ならさ、側にいるに決まってんじゃん! 二人がどんな関係なのか知らないけど、クラスと線引いてるような子が友達面するなんて、マジで気持ち悪いと思う。優衣はウチらと絡んで明るくなれたんだ! 不良が空気も読まずに邪魔してこないで!」
「だ、黙れ……っ。私のこと、何も知らないくせに……!」
「知らないわよ。知ってもらおうとも、してない人のことなんか」
はあ、なーにが『余計なことしなくていいわ』だ。
キャットファイトでも仕掛けるつもりだったのか、如月は。
俺は別に、あの二人のどちらが勝つかなんて興味がなかった。だってあんなの、ただの水掛け論でしかない。本当に大事なことは置き去りにされ、突発的に湧き上がってきた善意が正面からぶつかり合っているだけだ。
黙って眺めているやつらも、きっと気づいている。
けど誰も、朝っぱらからこんな修羅場に出くわすなんて思っちゃいない。クラスがギスギスし始めて不運だなって、みんなそれくらいにしか思っていないのだろう。
だが俺だけは、今度こそ我慢がならなかった。
ああ、たった今、分かった気がする。昨日の昼休み、俺は藤原たちに怒りを感じた。にも関わらず、俺は何もしなかった。そして昨日の放課後、俺は天沢に怒りを感じた。今度こそ天沢に思っていたことを言ったが、その後で後ろめたさを感じた。
俺は多分、心のどこかで恥じている。
他人のために怒る自分も、関係のないことに首を突っ込む自分も、昨日目の当たりにしただけの、天沢と如月の友情を守りたいとか思ってしまう自分も、本当にうんざりなんだ。
だって、そうだろ?
そんなの、言葉にしてしまえば正義感ってことだ。
何て古臭くて暑苦しい怒りなんだろうって、心から思う。
でも、それでも、もう我慢ならなかった。
恥を踏み越えてでも言うべきことがあった。
立ち上がったとして、何かを変えられるかは分からないけどさ。
――でも、誰かが始めなきゃいけないから。
「……川上。お前、さっさと他の友達探したほうがいいぞ。嫌われ者は面倒だから」
川上は驚いたように目をパチクリさせたが、俺の意図を大体察したらしい。すぐにこいつらしい、人懐っこい笑顔を見せてくれた。
「思うようにやれよな。そこが面白いんじゃん」
「そりゃどうも。後悔するぞ」
「ん。突然、何書いてんだよ?」
俺は川上の質問に答えずにビリッとノートを破った。その音で周りの視線を集めたが、気にしなかった。そして立ち上がり、つとめて平然を装いつつ歩きだす。
あんなに遠く見えた藤原の席は、歩いてみればすぐそこだ。
「こほん……あー、失礼?」
俺の間抜けた声に修羅場の空気が霧散した。『何しにきたの、お前?』――その場にいた全員がそう思ったに違いなかったが、それも気にしなかった。
俺は何も気にしなかった。
そうする必要もないだろ?
「あーすまん、ちょっとどいてくれ。はい、これっ……」
俺は手を伸ばして、藤原の机の上にノートの切れ端を滑り込ませる。何のことはない、紙には『おぼえがき クラス会不参加 宮永』と書かれているだけだ。
空気をぶっ壊すのは、多分、昔から得意だった。
「ああ、いや、すまんなー。天沢が不参加って話してるみたいだし、ついでにってことで俺のも処理して欲しいんだけども」
「……宮永君、だっけ? 君は参加してくれるって聞いたんだけどな。どうしてだい?」
「不参加の理由を学級委員に聞かれる筋合いなんてないが、まあ答えとくと、大して仲良くもない相手に休日潰されるなんて俺だったら嫌だなあって思っただけなんだけど――悪いか?」
これで空気が壊れたかって?
いや、全ての文脈がぶっ壊れた。
どういうわけだか楠木だけが愉快そうな顔で俺を見たり、それとも他のやつらの反応を見てウキウキしていたが、それ以外のやつらはみんなどんな反応をしていいか分からないといった様子で、隣のやつと顔を見合わせたりしていた。
最初に処理に困って爆発したのは、古橋だ。
「は、何その言い方? あーーーーもう、何なのよ! 次から次へとさ!」
「だって、昨日のお前ら、天沢の口説き方が宗教の勧誘みたいで気持ち悪かったし。正直言って仲良くなりたいタイプとは思えなかったからさ。俺も抜けさせてもらうわ」
「何? ちょっと有名なだけの不良女の味方して、ゴマでも擦ってるわけ?」
「バカじゃねーの。頭に血が登ってるだけの不良なんて興味ないって――まあ古橋、お前もだけどな」
古橋の顔は歪んだが、知るか。
お前ら陽キャ共がそんなに沈黙を嫌うなら、お望み通りに継ぎ目のない言葉をくれてやろう。俺は反応を待たずに話し続けた。
「あのさ、ここ、一応教室なんだよ。色んな事情を持ったやつらが偶然集まってるだけの場所で、誰もが自分たちの思い通りになると思うなよな。見てて気分悪かったから、今後のために文句言っときたいっていうか」
「うっさい、私は優衣のことを想って――」
「ああいいよ、そういう嘘」
これは言わば、徹底的な破壊だ。
全部分かってやっていた。怒りに身を任せているわけじゃない。今この瞬間から全てが変わる。俺とここにいる藤原グループの面々は、明日から、可能であれば目も合わせなくなるだろう。
あの優男の藤原でさえ顔をしかめたほどだ。
「嘘なんて、ひどいな。どうして宮永君にそこまで言われなきゃいけない?」
「誰かが言わなきゃいけないことを、ついに誰も言わなかったからだ」
「君が何と言おうと、僕らと優衣は友達だッ! それだけは、誰にも否定させない」
「はあ、友達? ふふっ、ははははっ……」
俺がここで、本当に言わなきゃならないことは一つだけだった。
もういい、言ってやれ。
「友達なら――普通そいつの言葉を待つものじゃないのか?」
藤原は目を見開いた。不敵にニヤついている楠木以外の全員が俺を睨んだが、そこに具体的な反論は続かなかった。もちろん、返答を待つ気もさらさらなかったが。
「確かに、天沢の返事を待ってれば沈黙が長すぎて日が暮れちまうかもしれないけどさ。本当に友達だと思ってるなら、一日くらい待てないこともないだろ? でもそういう関係には見えねーんだよな。天沢が明らかに返答に困ってるような時、他の誰かが茶々入れたりしてて、どうしても流れちゃうだろ? お前らって、いっつもそんな感じなのか?」
「……隅っこにいる部外者が、しゃしゃり出ないで」
古橋はそう言ったが、もう凄む気力はないようだった。
陽キャグループ。上位カースト。こいつらだって、自分の闇に気づいていないほどバカでもないのだろう。まあ、後ろめたそうにされても容赦する気はないんだが。
「いや、論点を逸らすなよ。一度でも――言葉を待ったのか?」
近くにいる全員の目を見据える。
「バッカじゃねーの! 相手の言葉も待てない関係が、友達同士だなんて!」
古橋は歯を食いしばり、藤原は苦々しい顔で目を逸らした。天沢は伏せた目で下を向き、如月は驚いたように目を見開いた。全員が押し黙り、もう二度と誰も口を開かないのではないかとさえ思えた。
もちろん、そんなことはない。
今は朝礼前だ。
七河先生はいつものように何分か遅れて教室に入ってきた。すぐに普通でない空気感を感じ取ったようだが、この人らしく、あっけらかんとしていた。
「む、どうした? 済むまで続けていいぞ?」
「いいえ、ちょうど今、終わったところなので」
少しの間を置いて、俺は答えた。