第6話 結び目を断つ(前編)
「おいおい。どういう展開だァ、これ……?」
翌日の朝、川上がそう呟いたのも無理なかった。
いや川上だけではなく、教室の空気全体がどこかざわついている。新クラスになってから今日までずっと来なかった如月紗希が、やたら似合っているライダースジャケットをシャツの上に羽織って登校してくれば、みんなが今日は何の日だろうかと思うのも当然だ。
「すっげースタイル……」
「知ってる? この間も、バスケ部の先輩振ったんだってー」
「変な気起こさない方が身のためだって。上級生がみんな撃沈したんだからな」
「この前聞いたんだけど、他校の不良とつるんでるってさ。やべっ、目合わせんなっ」
俺はクラスが違ったし噂からしか知らないが、一年の頃から異質な存在だったと思う。まずピンク髪って見た目からして世界観が違いすぎる。昨日あいつの姿を改めて見た時、俺は畏怖というよりは呆れを覚えたくらいだ。
そして、ついでに言えば。
如月の席は廊下から二列目の最後尾、つまり俺の席の左隣だった。
彼女は関心を向けてくるクラスメートを気にもせず、つまらなさそうな顔で長い足を組んでいる。そのムスッとした表情からは色んな感情が見て倒れた。緊張――いや、敵意だろうか。噂まみれのとっつきにくい女子ってことで通ってたから誰もあえて話しかけに行ったりはしないが、好奇のチラチラと視線が交差していた。
「……昨日、ありがと」
如月は横目で俺の方を見て、不意に口を開いた。
「おかげで私も腹が決まった」
本人は向けられる視線に慣れているのかも知れないが、話しかけられる相手も同じく注目を集めてしまうであろうことは、あまり考えていないらしい。
まあ別に、気にしてないけど。
「別に。俺は首を突っ込んだ以外は何もしてない」
「はあ? あんた、人の感謝くらい素直に受け取れないわけ? 昨日ズカズカお節介してくれなきゃ、私ここにいないんですけど?」
あわわわっと小さく慌てふためいたのは、相変わらず前の席に座っていた俺の友人だ。
川上は俺と如月の間で視線をキョロキョロとさせ、居ても立っても居られないという様子で耳打ちしてくる。
「彰人、お前一体何したんだ? 如月がっ、あの如月紗希が、だぞ? 不良だけどルックスで言えば学年一の、夜明ヶ丘高の裏ヒロインと名高い、あの――」
「こそこそ言ってる感じにしてるみたいだけど、どうせ全部聞こえてるぞ。それ」
「うぐ……っ。あ、やばっ!」
如月はいたたまれないのか、うんざりなのか、それとも呆れたのか。
何にせよ長いため息をついた。
「どどど、ども。えっと、川上櫂っす……うっす」
「如月……紗希よ。怖がらなくていいわ。まあ、よろしく」
「意外だな。お前、挨拶とか返してくれんのかよ。律儀か」
「は? 挨拶されたんだから、返すのは当たり前でしょ?」
そりゃそうだ、これは一本取られた。
だが正直言って、余計によく分からないやつだという印象が強くなったな。人を寄せ付けない女子というイメージしかなかったのだが、噂ほどではないってことか?
いや――寄せ付けないというのは本当だった。
あくまで如月はキッパリと一線を引いた。昨日と変わらないキッとした目線を、こちらに向けてくる。
「言っておくけど、馴れ合うために来たわけじゃないから。宮永って言ったっけ。あんたももう、余計なことしなくていい」
「何だそれ。如月にとっての余計ってのが何を指してるのか、俺にはまるで分からん」
「今に分かるわ。後は私が何とかする」
馴れ合う気分ではないっていうのは俺も同じだった。
考えるまでもなく、如月が来た理由は明白だ。
二週間も登校しなかったこの女子が、わざわざ今日になって来たんだ。友達のためと考えて間違いないだろう。実際、如月の目線は教室のドアに突き刺さっているようだった。これから起きようとしていることを、多分、俺と如月だけがうっすらと思い描いている。
変わりたい。天沢は確かにそう言った。
でもそんなの、俺に背負い切れるか?
知ってるだろ? ただの他人の言葉や行動がきっかけで、あらゆることが起こりうるんだ。天沢が変わってしまうことで、如月の言う通り、あいつの青春は暗いものになってしまうのかも知れない。それとも最悪、本当にいじめられてしまうかも知れない。俺のエゴが後押ししなければ……
川上は俺と如月を交互に見て、心配そうに顔を曇らせた。
「お前ら、何かあったのかよ……?」
その質問にどう答えようかと思っている間に、教室のドアが――開いた。
今やクラスのヒロインとなった文芸部員・天沢優衣が入ってきたことで、俺と如月の関心はそっちに引っ張られる。
「あー、優衣だー! おはよー!」
古橋の屈託のない挨拶に、如月がいることで生まれていた教室の緊張感が弛緩した。天沢はと言えば、ドアの辺りでオーバーなくらい身体をビクりとさせたのだが。
「おっ……おはよう、ございます、美園ちゃん……」
「ははっ、何ガチガチしてんのさー? ねえねえ、聞いてよ? 今度のクラス会のお店なんだけどさ――」
天沢は古橋に手を引かれるまま誘われて行った。
行き先はもちろん、窓側の最前列の一帯。
俺たちが今座っている場所からは一番遠いグループ。
そこでは藤原の席を中心として、制汗剤の匂いがする運動部員たち、そして香水の強い派手目な女子たちが五、六人の群れをなしている。他のグループ同様、いつもの決まった面子ってわけだ。
そして今や、天沢もその一人だった。
「おはよう、優衣」
輪の中心にいる王子様は相変わらずいい声をしていた。
甘く細いが、それでもよく響く声だった。あの輪にいない女子たちも聞き入っているのだろうか? 藤原が喋っている時だけ、教室が気持ち静かになっている気さえするほどだ。
「おはよう、ございます……」
「どうしたのさ、そんなに緊張して。なになに? 何でも言ってよ?」
「それは、あの……」
「いやさー瑛二。優衣ちゃんに緊張するなって方が無理だろ。ほらお前、王子様パワー強すぎだし?」
あはははっ、と笑った男子は確か楠木了っていったか。いつも藤原の横で糸のように細い目を笑わせているやつで、声がうるさいから印象に残っている。藤原に次いで女子人気が高いらしい。
「でもま、瑛二的にはそこが好きなんだろ? 無理に掘り下げてやるなってー」
「おい、ヒロってば。好きとか、マジでやめろって……っ」
「ハハハハハッ、二人とも顔が分かりやすすぎ。お前らやっぱ面白いわ~!」
「もうヒロ君っ、瑛二も優衣も困ってんじゃん! ってゆーか、優衣はいるだけで周りがほんわかするお嬢様キャラだから無理しなくていーの! ね?」
古橋は天沢と仲良しのつもりなのか、肩を抱き寄せる。
「優衣、大丈夫?」
「えと、ありがとう、美園ちゃん……」
「ううん。でもさ、うちらといる時は怖がらなくていいんだよ?」
天沢はこくりと頷いたが、そこから何も喋ることはなかった。
そこから先、藤原たちの取り巻きたちは大きな声でアレコレ話していたが、古橋曰く”お嬢様キャラ”のあいつだけは、ばつが悪そうに視線を泳がせていた。
「何よ、あのウザいやつら……っ」
如月が隣で、ボソッとそう漏らす。
「優衣、私がいない間ずっと、あんな辛そうな顔してたわけ……?」
「ああ。ここ二週間ずっとな」
「そんな素振り、見せてなかったわよ!」
「じゃあ、抱え込んでたんだろうな」
その言葉で、学年の裏ヒロイン様はしかめっ面を見せた。
俺たちが同じ違和感を共有しているのかは分からない。でも多分、程度の違いこそあれ似たような顔はしているんだろうと思う。
俺たちは図らずも、天沢が何を抱えているのか知っている二人だった。
そしてあのグループに、天沢のような子が必要とするだけの沈黙はない。
きっとそんなものは、あいつらのルールでは許されないのだろう。
「いやいや、男子はケーキバイキングなんて行かないだろ? 甘すぎだし、高いし」
「えーでも絶対美味しいって! それに、お腹膨れるじゃん!」
「あはは……本当にそれ、膨れるとこ行って大丈夫? ラウワンとかで引っ込ませた方が良くない?」
「うっせー体育バカ! これはすぐ引っ込むからいいの!」
「ヒロ、流石に言い過ぎな。でもクラス会なわけだし、確かに男子も女子も納得できる場所の方がいいよな」
言葉と言葉の間は一瞬だ。
次から次へと掛け合いは続き、笑い、返し、話題が流れ、返し、そしてまた笑い合った。ともすればそれは美しい光景にすら見える。だって青春って、まさしくこういうもんだろ? 何気ない、意味もない会話を、大人になって思い出したりするんだ。
「てかさ、最近みんな部活ばっかりじゃなーい? 最近遊べなさ過ぎ。ウチとかっめっちゃぼっちなんだけどー」
「部活ばっかりって言っても、部活は毎日あるもんだしなあ」
でも人っていうのは何人も集まれば、必ず押しつぶされる者が出る。天沢は輪の中心のすぐ側にいたのに置いてきぼりをくらっていた。お嬢様キャラなんていう意味の分からないラベルを貼り付けられて、そうやって押し込められたテリトリーから一歩も動けずに……
本当はもっと、自分の考えを言葉にできる子なのに。
「あ、いいこと思いついたっ! 部活ないのウチと優衣だけだし、デートとかいかん?」
「え……?」
「ねーねーいいでしょー? ウチら言うほど話せてない感あるし、クラス会とかやる前にもっと仲良しなりたいってゆーかさぁ」
天沢は言葉を探していてたが、また時間切れだった。他の女子が茶々を入れてくる。
「はー何それ羨ましいんだがっ。おじさんも混ぜろよなー」
「やだー! 弟子で着せ替えするのは師匠の特権じゃからなぁ! ふふふっ……」
「は、ずるくねそれー! 今日だけあたしも部活サボるー! ぶーぶー!」
――。――――。
「えっと、あのっ。みんなっ……ごめんっ!」
突然、天沢が大きな声を出した。
または、天沢のキャラに期待されているよりはずっと大きな声だったと言うべきだろうか。次の言葉が待たれたが、黙る時間が延びるほど深刻さが香ってきて、グループどころか教室全体にまで沈黙が波及する。
だがそれでも、彼女はどうにか次を絞り出した。
「今度の、クラス会のことなんですが……」
「お、いいね。優衣が行きたい店とかあるなら、俺聞きたいよ?」
「その…………どうしても、行けなくなってしまいまして」
「え……?」
突然どうしたの、と藤原は聞いた。
困ったことがあるなら何でも言って、とも。
そして――如月はとうとう痺れを切らした。