第4話 紗希
英語教師の七河京子は、そりゃあ本人の言う通りに美人教師であり生徒の人気者的なポジションにいるのだろうが、よく知ってる者からすれば、ここ私立夜明ヶ丘高校で最も信用ならない相手だった。
だが残念なことに、俺たち生徒に担任を選ぶ権利はないのだ。
「いや、ね? 天沢が実際にどう思っているかは別としてだよ? 私としては、クラスのリーダー格が暴走するのは頭痛の種なのだよ。言っとくがこういうの、教師やってて一度や二度じゃないからな?」
「何でもう伝わってんすか。早くないっすか?」
つまりそれは、たまにある運の悪い日だった。
ノートやら書類やらの詰まった袋を抱えながら、もう同じような廊下を八回は往復した気がする。若い教員が色々と雑務を押し付けられるというのはどうも本当のことらしい。それで俺は、この人に帰宅間際を抑えられると、いつものようにボランティアに引き出されたというわけだ。
今はその雑用も終え、後は教室に残した荷物を持って帰るだけなのだが、俺の歩調は少しだけ急ぎ気味だった。
この人と一緒にいるような時は、いつだってロクなことが起こらない。
「先生。その口ぶりは、つまり昼休みのやり取りを見てたってことっすね」
「まさか。だがこういう時に、教室で何が起きてるかをこまめに教えてくれる優しい生徒がいれば安心だ。宮永もそう思うだろう?」
「……それ、川上のことっすか?」
「いいや、違う。今回のことを教えてくれたのが君の友人でないということは請け合おう」
「誰であれ、担任に密告者がいるなんて物騒なクラスがあったものですね。こんなの流石に、俺でも藤原に同情しちゃいますよ」
「必要なことならするさ。私のクラスであるからには……ね」
七河先生は、一年の頃から引き続いての担任だった。
こんな胡散臭いやり取りの後だからフォローしておくと、一応、この人なりの理想があるらしい。『手の届く範囲において、一切のいじめを駆逐する。迫害など経験するに値しない』――少し前に、先生はそう言い切った。別に俺はこの人が擁するスパイの一人ってわけではないが、もしかしたら現在進行形で口説かれてるのかも知れない。入学した頃に比べれば、最近は絡まれることが多くなったから。
「あ~あ。こういう時に、暴走しがちな学級委員を止められる影の実力者でもいれば、もっと平和で楽しいクラスになるのだがなあ~」
七河先生はチラッ、チラッとこちらを見てニヤけてくるが、うぜえ……
「嫌ですよ、先生のコマになるの。普通に卒業して普通に大学に行く感じが望みなんで、俺」
「むー、強情な男だ。得しかないというのに」
「はあ、得ですか」
七河先生は立ち止まり、挑発するようにニヤリとしてみせた。
背の高い人だった。大人の女性と目線が合うなんてそうないものだから、いざ目を見ると不覚にもドキッとしてしまう。先生の方は、俺が目を逸らしたのを察したのだろう。大人っぽく落ち着いた相貌が、みるみるうちに子供っぽくニヤけていった。
「ふっふーん。さては照れてるな、宮永?」
なんだこいつ、頬を突っついてきやがったぞ……
「こう見えてもだな、私は君たち生徒に人気があるらしいぞ? ん~?」
「はあ。じゃあ今日みたいな無賃労働、他のやつなら喜ぶんじゃないっすか」
「はて、学園祭の時の借りがあるのではなかったのかな? 去年、私にそう言ったのは君だ」
「で、これで何回目のボランティアだって話ですよ。いい加減、俺的にはもう完済したつもりなんですが」
「そうか、もう完済したか。なら今日の分は、私の方で新たにお返しをしなければな。たとえば――」
ふ~ん?、というように先生は首を捻らせ、艶やかな口元が緩む。
高貴な印象を与える、紫色のロングヘアー。
明らかにおしゃれ慣れしたようなシックな私服。
高級そうな香水の匂い。
憧れを抱く生徒は男女問わず多いが、俺としてはあまりおすすめしない。普段はクールでミステリアスなキャラで通っているくせに、何かのきっかけで関わりが増えた相手には、こういうウザ絡みをしてしまう人なのだ。
自称人気者の魔女は恥じらい半分、からかい半分といった塩梅の表情で片目をつむらせた。
「――デート一回とか」
「……」
「おい、そう黙るなよ。ほら……ちょっと恥ずかしいじゃないか」
「…………」
「で……宮永。返事はどうなんだ? その、ほら、照れるな……」
「前にも言ったかな。俺、あんたのことが普通に苦手です」
「むー、言い方ぁ! というか宮永は、いちいちハッキリ言い過ぎだぞっ。そういうの、いくら私でも少し傷つくというか……だなぁっ」
「はあ。じゃあ、もっと正確に言います。半分くらい苦手ってことで」
「むー、全然フォローになってなーい!」
先生は「ふーんだ、どうせ脈無しだもーんっ」とか言ってそっぽを向いてしまった。
とまあ、こういうのがお決まりのやり取りというか、漫才というか。コツは真面目な会話をしないこと。そして言葉を額面通りに受け取らないことだ。今みたいな際どいいじり方をしてくるのは『宮永なら変な勘違いをしないだろう』とか、『宮永ならしっかりオチをつけてくれるだろう』とか、そういう妙な信頼感から来る悪ノリでしかなかったりする。
ともかく恒例の茶番を終えると、七河先生は元の涼しげな表情に戻った。
そうしてスッとタイミング良く、元の話題に戻るのだ。
「高二って、色々あるものだよ。空気の読み合い、顔色の伺い合い……色々ね」
「自分の意思を正直に伝える責任は、いつだって誰にだってある。たとえ自分のクラスのリア充野郎が多少強引なやつだったとしても、それは同じでしょう?」
「ほう、つまり責任は天沢にあると?」
「そう言ったつもりですが」
「普通、人には周りのみんなと同じようにしていたいって願望があるものだよ。私たち霊長類には、集団から淘汰される恐怖がプログラムされている。天沢に限ったことではないが、クラスメートに白い目で見られるのは、みんながみんな怖いものじゃないか?」
「クラス全員から嫌われても世界の終わりじゃない」
「君なあ……それは、君が本当の意味ではクラスの一員じゃないってだけだ。『自分は他と違う』だなんて線引きは、個人的には好かんぞ? その歳にして悟りでも開いたつもりか」
二年三組の教室が近づいてきた。
この下らない、意味もないやり取りも今日はこれでおしまい。
そんな風に、半分安心してしまった時だった。
「全く、学園祭のヒーロー君はどこ行ってしまったのやらだ。あーあ、あの時は素直でかっこよかったのになーっ」
「先生。困ったらその話題持ち出すの、いい加減やめ――」
俺たちは同時に会話を打ち切った。
誰もいないと思っていたはずの三組の教室から、うっすらと話し声が聞こえたからだ――って。
「いやあんた、盗み聞きは良くないっすよ」
七河先生の判断はやたらと早かった。
気づけばささっと教室に接近し、半開きになったドアから中を覗き込んでいた。
「だってっ。せっかくクラス変わったのに最近では雑用ばかりで、生徒のことを全然把握できてないのだっ。この体たらくでは、教師としてどうなのって思われるだろう?」
「心配ないっすよ、もう思われてますから。主に俺から」
「噂をすればって――むむ? なあなあ宮永……あれ、カツアゲだと思うか?」
「ん?」
しんみりとした夕暮れの教室に佇む二人。
パッと身それは、青春映画にでも出てきそうな絵面だった。だがついでに言うなら、予想していなかった組み合わせでもあった。
一人目は天沢優衣。
川上情報では彼女は文芸部らしいから、この時間に居残っているのは不思議ではなかった。彼女は何やら申し訳なさそうな表情をして、いや……涙を流している?
「本当に、ごめん……なさいっ。……ぐすっ」
それで天沢の話し相手というのは――ああ、あいつは。
見た目だけを見れば、七河先生がカツアゲを疑ったのも無理ない風体をしている。薄桃色に染めたショートヘアーに、やる気なさげに着崩した制服。幼さの残った可愛らしい顔立ちをしているかと思えば、雰囲気はぞっとするほど落ち着いている。目つきは容姿と不釣り合いなほどに鋭く冷たい。
「如月紗希。職員室では不良と名高い女の子。裏ではファンが多いらしいな」
横で覗き込んでいる先生が、そう小さく呟いた。
「まだあまり話せていないんだ、これが。学年変わってから学校に来てなくてな」
校内ではちょっとした有名人だったから、俺だって如月の顔と名前くらいは一致していた。こうして見るのはいつぶりだろうか。彼女は教室の窓に寄りかかり、天沢が謝っているすぐ側で、オレンジ色に染まった虚空を見つめていた。どこかつまらなそうに。
「全く、ここは不良みたいな見た目したやつばかりですね。進学校じゃなかったんですか?」
「進学校なんて、校則は緩いものさ。登校しないのは問題だがね」
別に見惚れたとか、そういうのではないけれども。
陽の傾いた教室で空を眺めるその少女には、何かこう、不良とはまた違う言葉をあてがった方が似合う気がした。アンニュイとか。一匹狼とか。それとも、カッコつけたモデルとでも言えば似合うだろうか。彼女は夕日に照らされ、寒空みたいに静かな顔をしながらも、天沢に向かって、ふと優しげに微笑むのだ。
「別に、良いわよ。泣くほどのことじゃないでしょ?」
「でも……でもっ」
「ふふっ、なに? 優衣と私は、遊ぶ約束破ったくらいで悪くなる程度の仲だったの?」
「それは、絶対違うけど……」
「じゃあ良いわよ。せいぜい藤原たちと楽しんできなさいよ、親友」
如月は、横でしょんぼりしている天沢を冗談っぽく小突いた。かといって、それで天沢が急に元気になったりはしなかったが。
先生が横で「む、これはエモいな」とか「尊い……」とか心底どうでも良いコメントを残しているけど、俺、さっきあんたがカツアゲ疑ってたの忘れてないからね。だが反応から察するに、あの二人に繋がりがあったことは担任でも知らなかったらしい。
つーか天沢、結局他に予定あったのな。
藤原の誘いにグズグズしてたのは、それが理由かよ。
「私は紗希とライブ行きたかったっていうか。楽しみにしてたから。すごく」
「ま、そりゃ一緒に来て欲しかったわよ。でも私、優衣に他の友達ができて嬉しいっていうか。しかも藤原とか、やるじゃん。玉の輿じゃない?」
「そう……かな。でもそれって、喜んでいいことなのかな」
「どうして?」
「心が追いつかないの。友達に優先順位をつけちゃいけないって思うけど、藤原君がいくら優しいことを言ってくれても、紗希とは天秤にかけられない」
天沢はゆっくりと、しかしよく喋った。
藤原と話す時には見られなかったような淀みのなさだ。涙を拭ったその顔には、まだ憂いがのっそりと居座っていた。
「私、時々自分が分からなくなる。いつも紗希と一緒にいたいって思ってるはずなのに、断らなきゃいけないって分かってるはずなのに、ちゃんとそういうこと、言葉にできなくって」
「優衣、あんたのせいじゃ――」
「ううん、これじゃまるで面倒臭い愚痴だよね……ごめん」
ここで隠れて聞いていたいと思える話ではなかったが、でも同時に、このドアを開けば面倒なことになるとも思った。
でも、だからどうした?
頭の中で、スイッチが入る音がした。