第2話 三組の盤面
十ヶ月後――
たとえば、かけっこで一番になるやつがいる。
テストで学年トップになるやつがいる。一方では教室で誰よりも慕われてるやつがいて、他方ではいつも異性といちゃついてるやつがいる。見るたびに焦りたくもなるけど、その度に心がこう問いかけてくるんだ。
――本当に俺たちは、あいつらを羨ましく思わなきゃいけないのだろうか?
もう何年も続いた俺の青春には、映画の主人公がわちゃわちゃやっているような恋愛も、血と汗で勝ち取ったようなトロフィーもない。だから、そんな俺が誰に問いかけてみたところで「はいはい嫉妬乙」って返されて終わるのだろう。それこそ、2月14日にチョコレートを貰えなかった男は、まるでそれをネタしてみせるのがお決まりだとでも言うように。
スクールカースト。
リア充と非リア。
もう何年も使い古された青春用語が今だに置き換わらないのは、きっと今も昔と大して変わらないからだ。教室って世界は、世代に渡って何度メンバーを入れ替えようがいつも同じルールで動いている。要するに、男子なら男として、女子なら女としての性能が高ければ、群れのヒエラルキーを登れるってだけなのだ。
下らない、とは言わないけど。
その外から与えられた物差し、本当に大事にしなきゃいけないものか?
可愛い彼女でもカーストの頂点でもない、自分だけの幸せがどこかにあるはずだって願うのは痛々しいか。誰にも影響されず、好きなものに好きだって言える自分でありたいと思うのは青臭いか。俺が違うと思ったものを拒絶するのはワガママか。
呑気に突っ立っているだけの高校生活も、とうとう二年目の春を迎えた。
分かってるんだ、こういうのがダサくて無意味だってこと。でも景色ってあまりに早く動くものだから、黙っていると流されてしまうものだろ?
そんなの、どんな結末でも後悔するから。
まだ間に合ううちに、ここに宣言する。
何があっても、俺だけは本音を失わないでいるんだ――と。
♦︎
開け放した窓の向こうで、花びらが舞っていた。
朝の授業が始まるまであと十分もないし、話題と言えばゲームだかインスタだかってくらいしかないのに、二年三組の教室は今日も無駄にガヤガヤしている。正直そんなに声を張らなくても聞こえてるって文句を言いたいほどだけど、まあ気持ちは分かる気がした。
もうかれこれ、俺たちは高二だ。
ああ、とうとうこの時期がやって来てしまったんだって、多分みんな思ってる。
映画でも小説でも十七歳の主人公がやたらと多いのは、何だかんだでこの時期が一番ドラマチックってことなんだろうと思う。青春のルールに慣れない高一ではまだ不十分で、進路のことを考え始める高三ではもう遅い。今この瞬間じゃなきゃダメなんだ。
行事でスポットライトを浴びたり、部活で日に焼けたり、夏の海だか修学旅行だかで童貞を捨ててみたり。主人公になれる季節がすぐそこに迫っている――誰も口にはしないが、そんな緊張感が教室全体に行き渡っているようだ。認めたくはないが、俺にも少しは。
とはいえ、誰でも漏れなく主人公になれるってわけじゃない。
特にこの教室は、ワンチャン『高二デビュー』を狙ってやろうと目論む非リアたちにとっては、既に詰んでいるといってもいい状況だった。
「瑛二くんさ。来週、試合あったよね?」
窓側の最前列に座る一人の男子を、何人かの男女が取り囲んでいる。
リア充の爆発を願うテロリズムが古来より存在しているが、お前はモデルかって感じの容姿に、運動も勉強も器用にこなす能力、ついでに人当たりの良さだとか分け隔てのなさだとか、そういうアレコレを一人に詰め込み過ぎて、そのうち本当に爆発してしまうんじゃないかといっそ心配になってしまうのが藤原瑛二という男子だった。
「あのね、ウチさ、応援に行っちゃおっかなーっていうか、お弁当作って行こうかなっていうか……えへへ」
「あ、美園だけ抜け駆けずるーい! 先週も瑛二と二人でさっ」
「もー、やめてよ杏ってば! それに、先週誘ったのは振られちゃったもんっ」
藤原は好青年っぽい顔で、困ったように苦笑いしてみせる。
「おいおい、恥ずかしいからやめろよ二人とも。美園もお弁当ありがたいけど、先輩に茶化されちゃうからパスな?」
「うん……変なコト言ってごめんね? 瑛二くん」
「変なんてことはないよ。試合の日を覚えてくれてただなんて、俺は嬉しい」
「それよか、お前ら女子もひでーもんだよな? サッカー部は瑛二だけじゃねーのにさ。誰か俺の弁当作りたいって言えよう」
藤原の友人っぽいやつが自虐めいた茶々を入れると、どっと笑いが起こった。
とまあ、こういうクラスだ。カーストが高ければ藤原の近くにいる。そうでなければ別の島にいる。そういうシンプルな空間だった。まあ一年の頃のクラスは、あの手のイケイケな連中が下々にいちいちマウント取ってたから、それに比べれば平和とも言える。
――と。
「このクラス、大当たりのはずなんだけどなァ。女の子は可愛いし、平和そうだし」
まさか俺に声をかけたわけではないだろうと思ったが、一人の男子が、前の空いた席にどっしりと腰をかけてこちらを向いてきた。この高校生らしからぬ、やたらと洒落た髭をした不良っぽい顔を、俺はどこかで見たことある気がする。
「ほら、俺。川上櫂だよ」
覚えてない、というのが表情に出てしまったらしい。
川上はフレンドリーにニヤついて肩を小突いてくる。
「おいおい、前のクラスでも一緒だったろー? お前、宮永彰人だよな?」
俺は答えに窮した。
ったく、初対面っていちいち苦手なんだよ。相手のことは何も知らない。やんわりと流せば拒絶してるみたいになっちゃうし、かと言って咄嗟にノリを合わせられるようなコミュ力は持ち合わせちゃいない。どうしろっていうんだ。
って、よく見ると稀に見る悪人面だな。選択肢とか間違えたら卒業まで舎弟ルートになりそうで面倒なやつだ。ここは一つ、たかってくる前に余った小銭でも差し出しておくのが上策か? それとも、舐められないように適当に啖呵でも切ってくれようか。
むーん――
「治安わっる」
「おいてめー、誰の顔面で火炎瓶飛び交ってるって?」
ああもう、やっちまったよ。これだから人と関わるのは苦手なんだ。いろんな選択肢が浮かんでくるよりも早い速度で、思い浮かんだ言葉が素直に口から出てしまうんだ。
「…………ごめん」
「うん、マジで申し訳なさそうに言うな? 全っ然フォローになってねーからな? それに、こっちは今までの人生で言われ慣れてんだよ」
「うげぇ、何だそれ。えらく壮絶な人生だな」
「お前、不良だと思ってるやつ相手に、よく面と向かってそう言えるよなァ」
「ビビったところで殴られる時は殴られるしなぁ」
「いや何だその達観の仕方! そっちの人生の方がよっぽど壮絶そうだろ……」
川上は怒っているというより、ツッコミ疲れたというようにため息をついた。
「ま、いきなりビビられるよりはマシだけどよ。あと俺は不良じゃねえ。これでも一応、仲良くなりたいと思って話しかけてんだぜ?」
どう見ても、わざわざ俺を選んで話しかけてくるキャラには見えない。いやそれどころか向こうで藤原に絡んでそうな体育会系リア充と言った方が似合いそうなくらいだ。
「それより、見ろよ。まさにスクールカーストって感じ」
「ん。藤原のことか」
「それ以外にあるかァ? 俺もこの分じゃ、童貞捨てんのは当分先になりそうだわ」
「マジでか。十人は抱いたって顔してるのに」
「あのなぁ、いつの時代も女の子は王子様が好きなもんなんだよ。それにここ、結構良い学校だし、俺みたいな顔はハンデなんだって」
と、ここで再び関心が藤原の方に向く。
というのも、俺の耳がすこぶる面倒臭そうなワードを聞き取ってしまったからだ。あの爽やか青年は妙に神妙な面持ちで、輪の中心で突然言ったのだ。
「あのさ、ならクラス会とか――どうかな?」
おいおい、あいつ何か言い始めたぞ。
けどまあ別に意外ってわけでもないか。クラスが発足して間もない頃に、こういうのを企画しようっていうやつはよくいる。だから俺は、特段驚いたというわけではなかった。
「俺さ、みんなと仲良くできて嬉しいけど、まだこの『みんな』っていうのが狭い気がしてるっていうか……ほら、まだクラスに溶け込めてない子もいるからさ」
「えー? 瑛二くん、優しすぎじゃなーい? うち的には、そろそろ二人っきりで……」
「言うだけ無駄だぜ。瑛二はのけ者になってるやつは絶対放っておけないから。な、三組の王子様?」
「おいっ、王子様は止めろって言ってるだろっ」
なーにクラス全員に関わりそうな話を、勝手に一つのグループ内で進めてんだ。永遠にそこでキャッキャウフフしてりゃあいいのに。でもこれがシャクな話で、俺が抱いた感想と裏腹に、教室の反応はおおむねポジティブだった。
「え、クラス会だってー。私も瑛二くんと仲良くなれるかなー?」とか。
「女子と仲良くなるチャンスじゃね? 絶対参加案件じゃね?」とか。
そんな教室の様子を見て、俺はまた、思ったことを思ったようにつぶやいてしまうのだ。
「王子様というより、まるで王様だな。たかだかクラスメートってだけなのに」
川上は視線だけで俺を見て、また藤原たちに向いた。
「そういうもんだろ、教室って。みんなキラキラしててスペックの高いやつが好きなんだよ」
「まるで光に寄りつく虫の群れみたいだな」
別に馬鹿にしてるわけじゃない。
文句を言ったり不平不満を言う筋合いも、俺にはないのだろう。
ただ少しのつまらなさを感じているというか、だってそうだろ――自分で自分の行き先を決められないようなやつが、空を飛べたところで何になる?
この高校にいるからには、みんな、それなりに能力はあるはずなのに。
王子様の光に当てられると、どいつもこいつも似たようなモブキャラに見えるね。
「そんなに童貞捨てたいんなら、あいつらに混じればいいんじゃないのか? 川上だったらナチュラルに絡みに行けんじゃねーの? 似合いそうだぜ」
どうか嫌味っぽく伝わりませんようにと、俺は皮肉めいたトーンで川上にぶつけた。
が、うっかり地雷を踏んでしまったのだろうか、川上はよくぞ言ってくれましたとばかりにニヤリとした。
「それだよ」
何だその笑顔。
嫌な予感がするな。
「俺さ、ああいう集まりはそろそろ飽きたんだよ。そんな中でクラスが変わって、前のクラスで面白そうだなーって思ったやつとまた一緒になった。宮永なら、こういう時どうする?」
「そうだな。とりあえず、そいつのチャックが開いてたら教えてやるかな」
「お前、意外に冗談言うのな。一匹狼なクールキャラかと思えば」
「あのなあ、今のはそこまでボケてないぞ? 陰キャがただの隣人に向けてやれるのは、せいぜい落とした消しゴムを拾ってやるくらいの優しさくらいだろうよ。『ただ気になるから』なんて理由で声をかけられるのは一種の特殊能力だ」
「はぁ……ま、細かいことはいっか」
突然声をかけてきた不良っぽい男子は、握手の代わりだとでも言わんばかりに拳を突き出してきた。
「要するに俺を、今日から宮永グループに入れてくれってことさ。それとも、不良面したやつとつるむのは嫌か?」
「勝手に人の名前を使って泥舟をでっちあげるな」
「俺はお前に興味あって声かけてんの。だから川上グループじゃダメなんだ」
「どんな酔狂だ。俺、人様の興味引くようなこと、した覚えないんだが」
「へぇ、自覚ゼロかよ。つまり去年のアレみたいなの、今までいくつもやったってわけだ。ますます面白そうじゃん」
去年のアレ?
何言ってんだこいつ。
まあ十年以上も学生やってれば、一つくらいは不思議なこともあるってことか。俺は深く考えることもなく、何となく差し出された拳に合わせた。友達が欲しくないとか、ぼっちにこだわりがあるとか、元来そういうのは無かったわけで。
来るものを拒むのも、去るものを追うのも、面倒なだけだ。
「何でもいいけど、その宮永グループってのやめろ。ただの友達だ」
「ふぅん。でも賭けてもいいが、仲間が増えりゃあ『ああ、あれは宮永グループなんだ』って言われ始めると思うぜ」
「お前、マジで変なやつな。とんだ逆張り野郎だ」
教室の空気は明るく、また軽い。
クラスのやつらのほとんどは自分の居場所を見つけ、やりたいようにやっているように見える。もちろん二年三組は始まったばかりだ、時には問題も起こるのだろう。しかし、ここには藤原という稀有なカリスマがおり、既にクラスのほとんどをまとめ上げているのだ。このクラスの青春は俺なんて置き去りにして、つつがなく流れていくのだろう。
そのように思えた。