第1話 青春を守るもの
誰かが始めなきゃいけない、と思った。
誰かが最初の一歩を踏み出さないと、間違った方向に流されてしまう。分かってる。声を上げたところで潰されてしまうかも知れない。誰も付いてこないかも知れない。
でも、あるだろ。
何だかよく分からないけど、どうにも我慢ならない瞬間みたいなのがさ。
「バカじゃねーの」
ボソッと出た俺の言葉に、教室中が注目したし、同時に沈黙もした。
そりゃあそうだ。いつもクラスの隅っこにいる男子が突然する発言にしては、随分とイキったものだと思うし、何より相手が相手だった。その場にいた全員が驚いたと思う。状況を考えれば、ただのヤバいやつでしかない。
でもシンプルに、ただただ許せないと思ったんだ。
「お前ら、バカだろ。この状況でリーダー責めてる場合か。あと二日しかないんだぞ」
「は? 何お前、いきなり」
最初に詰め寄ってきたのは、運動部の男子だった。名前は忘れた。全ての始まりは、学園祭二日前の放課後、クラス発表を担当していたリーダーがらしくないミスをして、和風の衣装が届いてしまったということだった。演目はヨーロッパっぽい雰囲気のファンタジーだった。
つまり、ピンチだ。
もちろん誰かしらに責任はあるんだろうが、現実問題、責めていられる余裕はない。
「あのさ、分かんないの? 俺ら今まで頑張ってセリフの練習とかしてきたわけ。隅っこで飾りつけ作ってた宮永には分かんねーだろうけどな!」
「そーそー! みんな楽しみにしてたのにねぇ?」
「てゆーか、いきなり何なわけ? 地味男クンには関係ない話だから引っ込んでてくんなーい?」
ありがちなことに、実際にセリフを当てられていたのは、クラスでもいわゆる陽キャっていう類のグループだった。なのでこの場において、俺の味方をしてくれるやつは誰もいない。みんなこちらをチラチラ見たかと思えば、次の瞬間には私は気づいていませんとでも言うように手元の作業を黙々と進めている。
四対一の言い合い。
誰も関わりたがらないような修羅場。
普段はクラスの隅っこで黙りこくっているやつの言葉なんて、届くはずがない。そんなことは分かっていた。
それでもなぜか、じっとしていられなかった。
「俺はただ、ひとまず落ち着いて、どうするか考えようぜって言ってるんだ。今まで頑張ってきましたーとか、そういう感情論、マジでどうでもいい」
「何それ、ウゼえわ。で、何で宮永が仕切ってるわけ?」
「お前が仕切りたければ勝手にしろよ。だが誰が仕切ろうが、誰に責任があろうが、今すぐミスをカバーできないなら俺たちは終わりだ。あと二日しかないんだぞ」
「なーに? 桜庭さんを庇って正義の味方気取りかよ。ださっ」
「俺を個人攻撃して気が済むなら早く済ませろ。もう時間がない」
「もう良いの、宮永くん。……うっ」
クラス発表のリーダーである桜庭渚は、両手で顔を覆っていた。
俺の知る限り、学年でもかなり人気のある女子だったように思う。可愛くて、天真爛漫で、爽やかで、誰にも分け隔てなく優しくて。もっとも、この陽キャグループ相手に限っては以前からギクシャクしていたみたいだが。
「ぐすっ……みんなの言う通り、ぜんぶ私のせいだよね。ごめんなさいっ。みんな、頑張っててくれたのに……っ」
突き刺すような視線が俺から外れて、再び桜庭に集まる。
「ちっ、しっかり確認しとけよな」
「あーあ。ウチ的には桜庭さんがリーダーとか、最初から反対だったんだけどねー」
「ごめん……なさい」
抑えた泣き声が、静まった教室に響いた。
ああ。こういう光景、見飽きたってくらい知ってる。
結局のところ、こいつらはミスを責めているわけではないのだ。ミスを利用して、かねてから邪魔だったやつに石を投げているだけ。そうやって正しい側に立ちたいだけなのだ。
「あのさー、泣かれても困るだけなんですけど」
「つーか冷めたわ。桜庭が先生に言ってこいよな、俺らは劇やめますってさ」
「……だっさ。これだけ頑張っても本番できないとか」
ああもう、クソ面倒くせーな。
お前らみたいなのは、言っても分かんねーだろうよ。
落ち着け、優先順位を考えろ。そして、出来ることをやれ。まだ二日ある。こいつらの説得は俺には無理だ。でも、いっそ切り捨ててしまえばまだ間に合うかも知れない。
「バカじゃねーの」
「あ? だから宮永はすっこんで――」
「はあ、もういいわ。面倒くせーやつ」
俺は――すぐそこにあった胸ぐらを掴んだ。他の男子の胸ぐらを掴むなんて、もちろんその時が初めてだった。今まで俺は、教室で起こっていることを端っこから眺めているだけだったはずなのに、どうしてだろう?
身体が軽い。
視界がシャープだ。
きっと、教室の誰もが俺を見ていた。あいつ余計なことしてるなって思われてるんだろうし、ひょっとすると、これを機にクラス全員から嫌われてしまうのかも知れない。
それでも不思議と恐れや緊張はなかった。
「……それ以上桜庭を責め続けたいなら、俺を殴り飛ばしてからにしろ」
「は、何お前。おかしいんじゃねえの? さっきから」
「お前らがいると話が進まねーんだよ。それと……不快だ、こういうの」
向こうも気味が悪いのだろうか、気圧されたようにまぶたがピクついていた。
足も震わせず、手も声も震わせず、俺はただ見つめる。
瞳の奥を。
「ちっ。お前、目つきヤバ……っ」
結局、俺は――殴られなかった。その代わりに、掴んだ腕が強く振り解かれる。
「みんな、行こうぜ。どうせこのクラス、もう終わりだろうし」
「キモ。あの人、何がしたかったの」
「ただのおかしいやつじゃん。関わらない方がいいって」
残された教室は静まり返った。隅で作業していたその他大勢は、教室の真ん中で立ち上がれずにいる桜庭を見やったり、隣のやつと目を見合わせたりしている。
あちこちで不安げな視線が交差する。
たった今、このクラスの学園祭が終わったのだ――と。
「ごめん、宮永くんっ……私のせいで。ぐす……っ」
ああいう、縋るような目つきをする女子ではなかった。
桜庭が友達に勉強を教えたり、昼休みに輪の中心で話しているような時、もっと涼しげに――優しげに笑っていたはずだ。
おい、俺。
どうしてこんな事をした?
黙っていても良かっただろ。
桜庭のことを、よく知ってるわけではない。話したこともあまりない。
学園祭なんて、準備期間も当日の空気感とかも、ぶっちゃけ苦手だった。
なのにどうだろう? あの時の俺は、立ち上がるのは衝動的だったくせに、気味が悪いほど冷静でもあった。
「泣いたままでいいから、落ち着いて聞け」
「……え?」
桜庭の近くでしゃがみ込み、肩にそっと触れる。すごく弱々しい。声にも自信がない。
「一応聞くが、発表は諦めるのか?」
「だってっ。みんな行っちゃったし、それにあの衣装だもん。もう、無理に決まってるよ……」
優しく寄り添ってやる暇はない。俺は淡々と続けた。
「諦めるには早い。いいか、桜庭は今すぐここで演者の代役を見つけるんだ。桜庭が頼めば、きっと誰かが手を挙げると思う」
「宮永くんは、どうするの……?」
「衣装を探す。劇なら他のクラスもやってる。似たような衣装を使う演目もあるだろうし、当日借りる約束をつけるくらい、頭を下げればどうとでもなる。無ければ学外を探してでも見つける。衣装は俺が何とかする」
「そんな! 私がしたミスなんだし、頭を下げる役は私がっ」
「あと二日で発表をどうにかする方が大仕事なんだから、リーダーの桜庭はここに残ってみんなを助けてやる方がいい。セリフを叩き込むくらいの時間はある。仮に演技が仕上がんなくても気にするな。たかだか学園祭だ。本番でコケたら、後で笑い話にでもすればいい」
冷静になれ。きっとうまくいく。
最後にそう付け加えると、少しずつ桜庭の身体から震えが収まり、涙が収まっていく。黙っていたクラスメートたちも、そっと近くに集まって、俺や桜庭に向かって頷いてきた。
幸い、クラスにこの女子の味方は多い。
後は残っているやつらだけでどうにかするだろう。
「その、宮永くん。いや、彰人くんっ……ありがとう」
「……別に。行ってくる」
様々な種類の視線を背中に感じた。それが嫌に恥ずかしくて、まるで逃げるように教室を去ったのを今でも覚えている。
俺はあの時、正しいことをしたのだろうか?
それは今でも分からない。
空気を読むとか周りに合わせるとか、そうすることもできた。いや、そうすべきだったのかも知れない。もしあのまま黙っていれば、余計な軋轢を生まずに済んだ可能性だってあるだろう。隅っこで黙っていたやつらが間違っていたとは、俺には思えない。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば。
俺という人間は、そういうのがうんざりするほど苦手ってことだけだ。