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追憶とは  作者: 田中・エドワード・宗一
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六、紋白蝶とは

 やけに世間が騒がしい。人々が畑のそばを小走りに駆けていく振動が、眠っている私の触角を揺らしている。長い夢を見ていた——と思い出すとほぼ同時に、翅を伸ばしてその序でに舌も伸ばしてみる。今年も春が来た。


 ふらふらと覚束ない頭を持ち上げて(触角がまた重いのだ、これが)翅をぱたぱたとやってそこらを飛び回って、去年の春とそれほど違わないらしいことを確認して、今度は花を探しに飛び立った。この時期は花が咲き切らないから困る。できるだけ長く眠っておきたいが世間の人間どもが騒がしくってどうしても目が覚めてしまう。高校三年生という奴らは卒業して新しい世界に浮足立って遊びまわっているし(とは言っても飛べないらしい。馬鹿め)、二年生は先輩が居なくなって調子に乗っているし、一年生どもは訳も分からず燥いでいてたちが悪い。そんな年ごろなのかもしれないが我々を見習ってほしいものだ。我々はまさに高校生に当たる時期に蛹になるのだ。この時期に燥いだ者には死が待っているし、じっと耐えたものには白い、薄く黄色がかった翅が与えられる。大抵は黒い斑点を三つ携えて蝶になる。謂わば卒業証明のようなものだ。一学年に当たる時期を耐えるとひとつ貰えるようになっている。何せ蝶の一生は短く、蛹のうちに高校三年間を過ごすわけなので、蛹になればほぼ間違いなく三つ貰えるのだが、去年は二つしかない奴が現れて話題になった。そういう者のことを、「青虫」と掛けて「青二才」と現すこともあるが、この言葉には人間界で見られる侮蔑の意味よりも、珍しいものに対する畏敬の意味が大きく含まれる。転じて、「あそこのキャベツは甘さが強くて青二才だ」と使われもする。この場合「青野菜」と掛かっているため、聴衆は茎に留まったまま、翅を数回ぱたぱたとやって賛美するのである。



 諸君は、蝶々など春から秋の間に死んでしまうだろうなどと思っているだろう。いや、それを全て否定する積りはないが、たまに例外が居ることも伝えておきたい。確かに紋白蝶は春から秋に複数回発生し、冬が来ると姿を見せなくなるとされている。ただし姿を見せないだけで隠れている者も多いのだ。諸君はあれだけ多くの紋白蝶が飛び回っているのを目にしながら、死んで堕ちているそれを見ることは少ないだろう。隠れているからなのだ。ただし死ぬ奴も多い。蝶が死ぬと、仲間たちはそいつを運び、葬るのだ。またいつかの機会にその方法を教えたいと考えている。蝶の葬式は人間同様、僧や牧師に当たる役職の者によってなされて、知り合いは一堂に会し、生前の思い出話に花を咲かせる(蜜が得られないのが残念である)。涙が流せない分、羽ばたきの回数や力強さ、舌の巻き具合やこぼれ落ちる鱗粉の量で悲しみを表す。

 それから、知り合いの葬式中にも死ぬ輩がいるからやり切れない。私も去年から何度も目にしてきたが、葬式中に死んだ奴は蝶非蝶(人非人に当たる)とされ、その葬式は開かれないうえに周囲から相手にもされない。時たま地面に転がったままの死蝶(死体)を見かけるが、これはよそ様の葬式中に死んだ蝶である。こうなると末代まで残る不名誉であるので、多くの蝶は葬式に参列する前に医者に行き、悪いところがないか確認する。私も何度も医者に行ったが問題は見つかっていない。医者も笑いながら、この調子だと自分の葬式がいつまでも開けませんね、などと冗談を飛ばしていた。一々うるさい医者である。


 さて人間の勘違いに話を戻すと、蝶というのは、実は冬を越す者もいるのだということを知っておいて貰いたいのだ。どうやって?それも知らぬか。蛹になるのだ。蛹になって枝や屋根の裏や、とにかく雪のかからないところにくっ付いておいて、春になれば目覚めるのだ。実際私は二度の冬を越えた。一度目は民家の屋根の裏、今回は畑のそばの塀に小さな屋根がついている、その下で眠っていた。そうしてさっき目覚めたという訳だ。蝶は一生に最低二回蛹になるのが普通である、と言いたかったのだ。私に限ると三度目の蛹を迎えたという訳で、これはなかなか珍しいとされている。文献には一年に八匹いると多いほうだと書かれているが、紋白蝶以外の種も含めての数であって、私は紋白蝶の中では最長記録であろう。揚羽蝶という種は、その見た目の仰々しさから恐れられがちだが、三度目の蛹を迎えた者はいないといわれている。目立つ外観から人間につかまりやすく、腹に針を刺されて箱に閉じ込められる奴も少なくないと、以前紋黄蝶から聞いたことがある。



 さて、することもないので検診にやってきた。実を言うと目覚めてからずっと頭が痛くてぼうっとしているのだ。

「あれ、お久しぶりでございます、なに、頭がぼうっとする?そりゃ大変だ、ここに横になってください。で、翅を伸ばして……えへん、あんまり激しく翅を動かさないでくださいよ、えへん、あなたの鱗粉が宙を舞って私の目に入る、舌を通って口に入る、咳が出る、たいへんだ、たいへんだ……えへん、ごほ、ごほ」

 この医者は好く喋るので尚更頭が痛くなってしまう。それに私は、ベッドに横になるとからだじゅうがむずむずしてしまうから、どうしても翅を動かしてしまうのだ。彼が喋る度に彼の鱗粉も舞っていることに、果たして彼は気づいているだろうか。


 しばらく私のからだを眺めたりひっくり返したりして、看護師を呼びつけて「じゃあこちらの方にはミモザの十番のお薬を」と言った。ミモザの十番は、オジギソウの葉と茎に傷をつけたときの汁を水で薄めた飲み薬であるが、これが頭痛が吹き飛んでしまうほど苦いのだ。

「ちょっと、そわそわしないでください。鱗粉が宙を」と言い終わらない内に看護師が帰ってきた。こうなれば覚悟を決めて目を瞑り、飲み干してしまうしかない。翅をぱたぱたとやりつつ素直に従った。蝶々も目を瞑れるのかって?笑わせてくれる。蝶々は目を瞑れるし歌えるし笑えるのだ。それから、涙を流せない代わりに翅をぱたぱたとやって鱗粉をまき散らしたり、あ、いや、さっきのは泣いていたわけではなくて興奮して翅を動かしただけであって、……。


 ともかくもミモザの十番を飲み干し、診療室を出た。日の光がまぶしい。そういえば、蝶の世界には経済はないのだと伝え忘れていた。カネに目が眩んで自滅する奴もいない。働く、という概念もない。医者や僧はどうしたと尋ねるかもしれないが、彼らも報酬を受け取らないのだ。割に合わないって?そもそも行動に代価を与えるという行為を知らないのだから、大したことでない。私が人間の会話を聞いて覚えただけであるからほかの蝶は知らないし、もしも知っていたとしても笑うだけであろう。いや、だから蝶だって笑うのだ。鼻で笑う代わりに、舌をきつく巻きながら笑うのだ。

 ともかく、蝶にとってはカネという存在は重たいし邪魔であるし、必要ないものなのである。


 ただ、人間の暮らしを見ていると、酒というやつを飲んでみたいと強く願うようになった。人間の文豪が書いた物語に、ある書生だか先生だかに拾われた猫が酒を飲んで、酔っ払って壺か何かの中で溺れ死ぬという、蛾のような話があるそうだ。そんな風に死ぬのは猫が空が飛べないからであって、蝶なら大丈夫であると確信して、去年の暮れから一度酒を飲んでみたいと思ってきた。ひと冬越えた今もその望みが消えないのだから、大したものだ。人間で言うと、大学を出るときに「火星に行きたい」と願って、九十を越しても願い続けているようなものだろう。火星?ああ、蝶の世界では地球の存在も知られていないし、火星など見たこともないのだが、人間には多少のなじみがあるだろう、とただの例えで使ってみただけだ。知識蝶気取りで喋ってみただけであるから気にしないでよい。



 さて、頭痛も治ったことであるし、伝えたいことを伝え終わったことでもあるし、そろそろ私は菜の花の密を吸ってこようと思う。諸君も、くれぐれも体調には気を付けるように。では。

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