そんな力、いらない!
十七世紀の初め頃、ヨーロッパ各地で悪魔信仰が起こり、悪魔を使役して欲望を満たそうと、黒魔術に手を染める者が多く現れるようになった。
彼らをあぶり出すための魔女狩りも盛んに行われ、罪のない多くの人々までが冤罪の犠牲になっていた。
そんな暗黒の時代。
オルディア国の小さな町サン=エティーナの白魔術師一族に、卓越した能力を持った少女、ロラ・カントルーヴが生まれついた。
彼女は、一族の能力者たちとカントルーヴ派と呼ばれる白魔術師集団を作り、黒魔術師や召喚された悪魔に立ち向かっていった。
やがて月日が流れ、高齢のロラが息を引き取ると、彼女が愛用していたクロスが、彼女の胸から消え失せた。
そして、そのクロスは契約を司る大天使メタトロンによって、一族の能力者の一人に授けられた。
その後、所有者の死によって、クロスは次の者に引き継がれていくこととなる。
クロスはいつしかカントルーヴのボトニーと呼ばれるようになり、それを授けられた者は唯一の後継者《カントルーヴを名乗る者》として、その名を引き継いでいった。
四百年以上も永きに渡って、一族の間に受け継がれてきた特別な名とクロスは、今、沙亜名の元にある。
リビングに、レオンスの英語と隆弘の日本が交互に飛び交っている。
隆弘はレオンスの話を、ゆっくりと分かりやすく、場合によってはレオンスに質問を返したりしながら沙亜名に説明していく。
「《カントルーヴを名乗る者》は必ず、ロラの血を引いた、最も能力の高い者が選ばれる。だから、彼らの一族は、能力の高い者たちを候補者として選び、白魔術師としての技を磨き、その時に備えているんだ。ペリシエ家はロラの傍系の家系ながら、有能な白魔術師を輩出しているそうだ。彼らは三人とも候補者なんだよ。他にも、あと二人の候補者がいる」
「だったら、どうしてわたしなの? いちばん高い能力を持つ者が選ばれるって言ったじゃない? わたしは白魔術なんて、何も知らないのに」
沙亜名が疑問を投げかけると、レオンスが彼女に視線を向ける。
そして、彼女の言葉を直接聞き取って頷き、隆弘に向き直って英語で答える。
そういうやり取りも、何度も繰り返されていた。
「後継者を選ぶのは神だから、人間の思惑通りにいくとは限らないようだよ。少なくとも、沙亜名には普通の人とは違う力があるだろう? きっとそれは、思った以上に大きな力なんだろう」
「そんなの、全然嬉しくない。そんな力、いらない!」
昔から、視えないはずのものが視えてしまう能力には、辛い思いをさせられてきた。
今、白魔術師の後継者などという、よく分からない出来事に巻き込まれているのも、この力のせいなのだ。
できることなら、この力には目をつぶって、平凡に暮らしていきたい。
沙亜名は唇を噛んで俯いた。
娘の苦悩をずっと間近に見てきた隆弘は、慰めるような視線を向ける。
「そうだね。でも、沙亜名が選ばれたということは、お前がロラの血を引いているという証なんだ。彼らと血が繋がっているっていう証拠だよ」
「だからって、突然、後継者だって言われても……」
テーブルに肘を置き、組んだ両手の上に額を乗せて大きなため息をつくと、背中がぽんぽんと優しく叩かれた。
そっと隣をうかがうと、自分と同じ色の瞳が覗き込んでくる。
「ダイジョブデスネ。サーナは正しいチカラ、使い方、知らないだけデス」
「正しい使い方? それが白魔術ってこと?」
「そうデス。ボク、サーナに白魔術教えるタメ、日本来たデス。ボクがいる、心配ないデス」
沙亜名をじっと見つめたまま、そこまで日本語で言うと、レオンスはまた隆弘の方を向き、英語で話す。
「残念ながら、お父さんが通訳してあげられるのは、この程度だそうだ。私は部外者だからね。候補者と後継者だけにしか、明かすことのできない秘密も多いらしい。それは、レオンス君が日本語をもっと勉強してから、直接、沙亜名に説明するそうだ」
「サーナ、ボクに日本語、教えてクダサイ。ソしたらボク、サーナに白魔術、日本語で教えられマス」
レオンスがテーブルに置かれていた、青い石が埋め込まれた大きい方のクロスを手に取ると、沙亜名の首にかけた。
「コレ、いつも、つけてないとダメデス。サーナには、コッチの、カワイイクロスの方が、似合いますケド……でも、これはボクの」
そう笑って、自分は小さい方のクロスを首にかけ、シャツの下に滑り込ませた。
ずいぶん長時間話していたらしく、窓から西日が差し込み始めていた。
沙亜名は、熱い日差しを避けるために西側の窓にカーテンを引くと、テーブルを囲む人々に声をかけた。
「お茶、持ってくるわ」
残っていた氷がすっかり溶け、ぬるい水だけになってしまったグラスを集め、キッチンに立った。
娘の後ろ姿を見送ると、隆弘は深いため息をついた。
隆弘は娘に先ほど説明した以上の話を、事前に聞かされているのだ。
『……どうして、沙亜名なんだ』
英語で苦しそうに言葉を絞り出した隆弘に、ユベールが慰めの言葉をかける。
『何も知らない彼女に、こんな重荷を背負わせることが心苦しい。レオが選ばれていれば……あなた方は、何も知らず平和に暮らせたのに』
隆弘はテーブルを挟んで真正面に座るレオンスに目を向けた。
『本当に、君に任せて大丈夫なのか』
『はい。一族の中に、俺以上の力を持つ魔術師はいません。サーナが独り立ちできるようになるまで、俺が責任を持って守ります』
レオンスが強い言葉で断言する。
『守る……か。私が心配しているのは、それだけじゃないんだが……ね』
キッチンの奥でお茶を準備している娘を、ちらりと見やった。
レオンスのことは、信頼に足る好青年だと感じている。
しかし、彼の、初対面の娘に対する、あまりにも馴れ馴れしい態度に、男親としては不安が募るのだ。
『サーナはとても綺麗で、可愛いです。でも俺、軽はずみなことができる立場じゃありません。安心して任せてください』
出会って数分で、娘を抱きついたのは誰だったのかと思う。
今の言葉の前半にも、一抹の不安を感じる。
しかし、彼が、かなりの重圧を負っていることも分かっていた。
隆弘はこの日、大学の研究室に突然現れた三人に、一通りの事情を説明された後、強引にオルディア国大使館に連れて行かれたのだ。
《カントルーヴを名乗る者》は、オルディア国では公然の秘密だという。
その存在は、白魔術師の代名詞として多くの人々に知られているが、真実を知る者はほとんどいない。
国の元首ですら、詳細を知らされぬまま、国家機密に準ずるものとして手厚く保護している。
今、隆弘のバッグには、オルディア国外務省からの、たくさんの極秘文書が入っている。
彼や娘の知らないところで、一国が動くほどの大事に巻き込まれていたのだ。
こうなるともう、オルディア国からの無茶な要請を飲まないという選択肢はなかった。
今のままでは娘が危険にさらされる可能性があるということも、彼が首を縦に振った大きな理由の一つだった。
沙亜名がお茶を運んできた。エアコンの効いた室内にずっといるので、今度は温かい紅茶にした。
芳醇な香りが部屋に漂い、場が和む。
沙亜名がお茶を配っていると、隆弘が沙亜名の背後の襖を指差した。
「沙亜名。明日までに、隣の和室を片付けておいてくれないか」
「和室? どうして?」
和室は普段、洗濯物を畳んだりするときに使っているが、部屋の隅には季節外れの暖房器具や衣装ケースが積んであって、半分物置状態だ。
「明日から、レオンス君がうちにホームステイするんだよ」
「ええっ! 嘘でしょ? だって、昼間はわたし一人しかいないじゃない。お父さんが、夜、家に帰ってこないことも多いんだし」
女の子が一人でいることの多い家に、若い男性をホームステイさせるなんて非常識だ。
彼は、距離感の違いに戸惑いを感じるが、気さくないい人だとは思う。
だけど、この人と、家で二人っきりになってしまうなんて、あり得ない。
とはいえ、さすがに本人の前で本音を言うこともできないから、非難の目を父親に向けた。
「彼、九月からうちの大学の建築学科に留学することになっているんだ。その前に、日本の生活に慣れておきたいということと、さっきの話もある。夏休みの方が、沙亜名も時間が取れていいだろう?」
「でも……」
その分、二人だけで過ごす時間が長いということだ。
下手すると一日中、一緒にいるはめになるかもしれない。
隆弘にも娘が言いたいことは、よく分かっていた。
本当は自分も心配なのだ。
しかし、レオンスを受け入れるしかないから、なんでもないように笑って見せる。
「遠い親戚の息子さんを預かるだけだよ。問題ないだろう?」
「だって、今日、初めて会った人だよ? 親戚ったって、どれだけ遠いのか分からないくらいなんだから、ほぼ他人じゃない。言葉だって、うまく通じないんだし」
「言葉は沙亜名が教えてあげないとね。せっかくだから、彼に英語を教えてもらうといいよ。英語は苦手だろう?」
「そんな話じゃなくて!」
どちらかというと過保護で心配性の父親が、こんなことを言い出すなんて。
なんとかして自分を丸め込もうとしていることが、ありありと分かって戸惑う。
「あぁ、サーナ。ボクが君に悪いコト、スル、思ってマスカ?」
レオンスがクスッと笑って、立ち尽くしている沙亜名を見上げた。
「えっ。あの……そんなこと……」
そのものズバリを本人に言われてしまい狼狽える。
あいまいに言葉を濁して、さっきまで座っていた場所にすとんと腰を落とした。
「心配シナイデ。サーナ、ボクの大事な日本の妹。ボク、妹、いないデス。カワイイ妹できた、すごく、ウレシイ。仲良くしマショウ。ネ?」
そう言って、両腕を組むようにしてテーブルに置くと、沙亜名の顔を斜め下から覗き込んで、くったくなく笑った。