わたしの記憶も消してくれればよかったのに
後ろにいた耀太のさらに後ろで、フラヴィが膝立ちになって電話をしていた。
オルディア語だから、何を話しているのかは全く分からないが、ひどくうろたえている。
何を話してるの?
彼女の様子から、あまり良い話でないことは想像がつく。
「紺野さん? おーい」
ガムテープを持ったまま動きを止めてしまった沙亜名の様子を不思議に思ったのか、耀太が顔を覗き込んでくる。
そして、沙亜名の視線を追って振り返った。
彼の目に映ったのは、高校の夏服姿の地味な雰囲気の女子。
電話で話しているようだが、こんなに近くにいるのに声は全く聞こえてこなかった。
けれど、なぜかそのことに疑問を覚えない。
「紺野さんって、あの子と仲がいいの? ……って、あんな子クラスにいたっけ?」
「え……? あ、うん……」
沙亜名は曖昧に答える。
彼の質問より、フラヴィの会話の内容の方が重要だった。
苛立ちを隠せない彼女の言葉の中に、何か一言でも分かる単語はないかと耳を澄ませていると、彼女は電話を切って立ち上がった。
『サーナ!——』
彼女の言葉は、最初に呼びかけられた自分の名前しか聞き取れなかった。
反射的に腰を浮かせかけると、彼女は険しい表情で沙亜名の顔を指差した後、同じ指で床を示す。
同時に大声で何かを叫ぶと、教室から飛び出していった。
その言葉そのものは理解できなかったが、彼女は間違いなく「ここで、じっとしてて!」と言った。
何か起きた——?
彼女の尋常ではない様子に胸騒ぎがする。
後を追っていきたいところだが、それを禁じられたし、自分がいたら昨日のような厄介な事態にもなりかねない。
周囲の目だってある。
沙亜名は胸元に隠したカントルーヴのボトニーを左手で押さえて、身動きできないでいた。
「なんだ、あの子? 何をあんなに……」
フラヴィの言葉や行動がどのように映っているのかは分からないが、耀太も教室から出て行く彼女の背中を視線で追った。
しかし、直後に首をひねる。
「…………って、あれ? 何の話してたっけ?」
それまで、誰の気にも止まらない影の薄い生徒の一人であったフラヴィの存在は、彼の頭から完全に消されたようだ。
「あの……、これ?」
沙亜名は手にしていたガムテープを彼に手渡した。
「あっ、そうだった。紺野さん、ちょっとここ押さえてて」
「うん」
耀太は何事もなかったかのように作業に戻る。
ガムテープを長く引き出すと、沙亜名が押さえた段ボールを二つ連結させて、お墓の形に組み立てた。
周囲を見回してみても、フラヴィのことは誰も気にしていなかった。
おしゃべりばかりで全く手が進まない人や、逆に黙々と紙に絵の具を塗っている人など、それぞれが、文化祭の準備を楽しんでいる。
周囲が熱気に包まれている中、自分一人だけが冷めてしまった。
教室で、クラスメイトと一緒に作業していることに現実感がなかった。
不安で仕方がない。
何も知らない、何もできない自分がもどかしい。
いっそのこと、わたしの記憶も消してくれればよかったのに……。
恨めしい気持ちで、さっきまでフラヴィが座っていた場所を見た。
そこには、食べかけのお菓子の袋がそのままになっていた。
そう。
こっちの方が自分がいる現実なのだ。
彼女は教室を飛び出す前に、何が起きたのかを説明してくれていたように思う。
けれど、オルディア語しか話せない彼女の言葉は、全く理解できなかった。
状況が少しでも分かれば、不安も和らぐのに……。
グレーの絵の具がたっぷり入った絵皿に、意味もなく何度も刷毛を往復させる。
レオに電話してみようか。
彼なら日本語で説明してくれる。
何か事件が起こっているなら、電話に出られないかもしれないけど。
ぼんやりと考えているうちに、いつの間にか刷毛を持つ手が止まっていた。
「……ん。…………さん? おいっ」
自分の名前すら耳に入らないままでいると、ぐいと肩が掴まれた。
「え?」
驚いて顔を上げると、耀太が眉間を寄せて顔を覗き込んでいた。
「また、体調悪いのか?」
「え? ち、違うよ。今日は大丈夫」
昨日も体調不良で早退したことになっているせいか、彼は心配そうな顔をする。
けれど、考え事をしていただけで体調が悪いわけではないから、彼に対して申し訳ない気がする。
「だけど、顔色が悪いよ。保健室に行った方がいいんじゃないか」
「違うって。ほら、周りが真っ黒だからそう見えるだけだよ」
「……けど、やっぱ……」
「ごめんね。ちょっと、電話かけてくる」
さらに何かを言おうとした彼を止めて、沙亜名は立ち上がった。




