今さら……いいよ
沙亜名は冷たい水で顔を洗うと、鏡を覗き込んだ。
寝起きのままブラシも通していない黒髪は、艶やかに真っ直ぐ背中の真ん中まで落ちている。
きめの細かい滑らかな肌。
切れ長の涼しげな目元。
いかにも日本人らしい容姿だが、純粋な日本人にしては大きく違和感を感じる部分がある。
それは、光の入り具合では銀色にも見える、色素の薄いグレーの瞳だった。
親戚に、こんな瞳を持つ者は一人もいない。
両親の家系をできる限り遡って調べてみたが、先祖に外国人は存在しなかった。
目の病気を疑って診察を受けた医者は、色素の薄い体質だろうということで片付けた。
どうして、わたしだけ、こんななんだろう……。
唇を噛むとゆっくり目を閉じ、またゆっくり開ける。
目を開けたら、みんなと同じ瞳の色になっていたらいいのに……。
幼い頃から何百回も何千回も同じことを願ったが、叶うことはないと今では分かっている。
しかし、すでに朝の習慣になってしまっていて、そうせずにはいられない。
ふう……と、一つため息をつく。
そして、鏡の前に置かれた小さな容器に手を伸ばし、濃いブラウンのカラーコンタクトレンズで、自分の本当の色を覆い隠した。
鏡の向こうの、どこにでもいそうな十六歳の日本人の少女に笑顔はなかった。
沙亜名は二階の自分の部屋に戻ると、パジャマを脱いだ。
白の半袖のブラウスにグレーのネクタイ、ウエスト部分を二回折り込んだ同じ色のプリーツスカート、黒のソックスを身につける。
「あれは、どうしよう」
机の上に置いたクロスが、どうにも気にかかる。
少し離れた場所に置いてあるだけで、体の内側がざわざわするような不安にかられるのだ。
大天使は「肌身離さず身に付けなさい」と言っていたが、同年代の女の子がおしゃれで使うアクセサリーとは一線を画する、古い美術品のようなクロスだ。
学校に付けて行くのはさすがにどうかと思う。
先生や友人に見つかったら、どう説明したらいいのだろう。
けれども、どうしても。
奇妙な引力に逆らえない。
「もうっ! なんなのっ!」
沙亜名はクロスをひったくるように手に取ると、首にかけた。
日常的に身に付けるにはサイズが大きすぎるし、ずっしりと重い——はずなのだが、クロスを襟元からブラウスの内側にすべりこませると、自分の身体の一部になったように重さを感じなかった。
先ほどまで感じていた妙な不安も消えた。
「沙亜名ぁ、そのおっかないの、つけるのか? 捨てちゃいなよぉ〜」
小鬼が少し離れた場所から、口を尖らせて文句を言う。
「これは、つけていないとダメなんだよ。多分」
「え〜っ! おいら、そんなのいやだよぉ」
「隠してあっても駄目なの?」
鏡ごしに、地団駄を踏んでいる小鬼を手招きすると、彼は恐る恐る近づいてきた。
沙亜名が指先でそおっと小鬼の頭に触れてみる。
彼は一瞬身をすくめたが、その後ほっと息をついた。
「見えなきゃ大丈夫みたいだ」
嬉しそうに言う小鬼の頭を、沙亜名はぐりぐりと撫でた。
もしかしたら——?
学校の先生や友人に見られたらやっかいなクロスを身に付けて出かけたのには、そんな淡い期待もあった。
しかし、それは玄関を一歩出た瞬間に、あっさり打ち砕かれた。
完璧に人の姿をした人でないものや、物陰にじっとうずくまる黒い影、目の前を独特の重力感で横切っていく異形の者、あたりを浮遊する明確な形を持たない何か。
これまでと何一つ変わらない、沙亜名にとっての日常が目の前にあった。
「なによ。見掛け倒しじゃない」
沙亜名は恨みがましく呟くと、ネクタイの上からクロスを握りしめた。
「こうしてると、確かに神聖な波動を感じるのに……」
小鬼がクロスを怖がっていたから、何らかの力を秘めていることは間違いないが、見えない場所に付けていては効果がないのかもしれない。
かといって、堂々と人目に付くようにつけるわけにはいかない。
「まぁ、いいけどね。どうせ……」
横断歩道の向こう側で信号待ちをしている数人の小学生の中に、異質な存在が混ざっている。
皆と同じように黄色の帽子をかぶっているものの、なぜか一人だけ背中にリュックサックを背負っている。
一見、無邪気な笑顔を浮かべた少女に見えるが、あれは、違う。
彼女は遠足に行くために、はしゃいだ気分で信号を待っている。
しかし、周りの子どもたちが横断歩道を渡り始めても、その場所から動かない。
沙亜名はすっと視線を外らせた。
自分が『視える』人間だということを、あの者たちに悟られてはならない。
そして、周囲の人々にも知られてはならない。
幼い頃からさんざん辛い思いをしてきたから、やりすごす術は身につけている。
もがき続けてきた結果、諦めることも得意になった。
「今さら……いいよ」
これまでと、何も変わらない。
クロスという秘密が、一つ加わっただけだ。
どうってことはない。
沙亜名は握りしめていたクロスから手を離すと、足首を捉えようと足元から伸びてきたおぞましい影を視線を落とすことなくかわして、学校へ向かった。